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彼は今日、外泊届けを出して来たらしかった。
夜通し、階段で私を待つつもりだったのだろうか。
それならば遠慮はない、とりあえず家に入ってもらって、それから色々な話をした。
と言っても、彼が一方的に話すばかりだったが。
自分の親の研究のこと、学生寮の管理人のこと、実はスーパーで私を見掛けたのは、声を掛ける数ヶ月前だったこと。
どうして私が一人暮らしを始めて最初に書いた作品を読みたがったのか尋ねると、楽しそうに小説を書いているんだなって伝わって来て、追い詰められている深川さんに小説を書くことを楽しんで欲しかったからだと言った。
部屋に残されたワンデイパスポートが実は期限切れだと聞いた時は思わず聞き返してしまったけれど。
「はい?」
「だから、実はこれ、友達が使いそびれた期限切れの奴なんだよ。それを使って遊園地に誘えば、深川さんのスカート姿でも見られるかなって思って、借りたの。だからあの日は初めからお家デートになる予定だったんだよ。返してくれなくても良かったし」
「ちょ、ちょっと待って下さい。なら、私の部屋にチケットを忘れたのは何でですか」
「いや、そうやって慌てふためく君を見るのも楽しいかなと」
今までなら、彼のそういう言動を、全て嘘だと思って一蹴出来たから良かったが、彼が実は私を良く思っているらしいと知ってからは、どうにも対応に困ってしまった。
それを楽しそうに眺める大谷に無性に腹が立つけれど、しかし、彼の存在は私の夢にある希望を与えてくれた。
「小説、全部捨てちゃったの」
「ええ。小説家、諦めようかと思って」
「そっか」
とても残念そうな表情の大谷に私は、何かしら明るい類のものを見い出せたんだと思う。
先程までちっとも思っていなかったことが、まるで前から決意していたかのように、すっと口をついて出て来た。
「でも、やっぱり書きます。どうしても書きたいものが出来てしまったので」
「本当?」
聞き返したかったのは私自身である。
けれど、何故か書きたいと思って、それは夢を盲目的に決めた幼い私が運命と呼んでいた、そんな何かに近いそれだったから、もう一度だけ従ってみようと、笑いながら感じてしまった。
「ええ、読みますか」
「勿論。そうだな、流石に俺も毎日来るのはキツくなってきたから、二週間後の日曜日、読ませて」
「いいですよ、その代わり、私を騙した罪滅ぼしはきっちりしてもらいます」
「え、それって、すっごく大変そう」
「大変でしょうね。何せ、福沢諭吉さんですから」
二週間後、日曜日。
時刻は五時五十分。
カーテンを開け放して、窓から見える空は、反対側にいるだろう朝日に照らされて、薄く、しかし赤く輝いている。
目の前に広がる透き通る赤は、例えるならルビーのようで、夕日と同じ原理のはずなのにこんなに違って見えるだなんて、私が知っていることはきっと世界のまだ一端に過ぎないんだと感慨深い。
高校時代のあの人にもそう教えたら、全てを諦めたような彼の人生も少しは明るくなるのだろうか。
教える術なんて、ないけれど。
もし、私の書く小説が彼の手に届くことがあったならば、この感情を必ず届けてみせようか。
目の前に積み上がる原稿達は約五十枚、推敲も既に終わらせていて、あとは大谷に読ませるだけだ。
五十枚は小説にしては結構短いが、二週間で小説が一本仕上がるとは、私もまだまだ捨てたものじゃないのかも知れない。
裏切られた結末や、息も吐かせぬ展開、含蓄のある台詞回しに、美しい比喩表現。
そんなもの何一つなくても、大事な何かはきっと書けたはずだ。
『私を鼠の国とやらへ連れてって下さい。小説は、そこで読ませてあげます』
一万円の約束を、彼は果たしてくれるだろうか。
あ、けど、その前に。
「深川さーん」
扉越しに楽しげな声が聞こえる。朝なのだからノックをしてくれればいいのに、そう文句を言ったら名前を呼ぶのって結構楽しいよ、なんて笑ってくれるような気がする。
きっと、これからは、この呼び声が日常になるのだろう。
彼への気持ちはまだいまいち分からないのだけど。
「ちょっと待って下さい」
返事もそこそこに、たった五文字の伝えたい感情を込めたこの五十枚に、どんな名前を付けようかって、そんなのとうの昔に決まってる。
原稿の一頁目。まだ何も書かれていない一行目、上の三文字を空けて、ペンを走らせる。
書き込む文字に迷いは、なかった。
文学少女と狼少年 fin.
拙い作品に最後までお付き合い頂きありがとうございました。
作品内でも言わしめましたが、作品は投げっぱなし、な姿勢で行くつもりでして、私が放り投げたそれが、誰かしらの何かしらにいい影響を与えられたら、そんな思いで生きております。
どうか皆様の時間が、一瞬でも有意義なものとなりますよう。
2012/9/22 時倉記