第四十三話 「記録の崩壊」
ノエルは、ページをめくる手を止めた。
紙の感触は変わらない。インクの匂いも、書庫に染みついた埃の気配も、すべて“いつも通り”だ。けれど――書かれている内容だけが、さっき見たものと違っていた。
「……そんな、はず……」
震える指で、もう一度同じページをなぞる。
そこには確かに、今しがた自分が確認した記述とは“別の出来事”が書かれていた。
さっきまでは、王都北門での小規模な衝突――魔獣一体の侵入、軽傷者二名、討伐成功。そう書かれていたはずだ。
だが今、そこにあるのは。
――王都北門、壊滅。
――侵入経路不明。
――生存者、確認できず。
「……違う……違う……!」
ノエルは本を閉じ、すぐに別の記録棚へと走った。足音がやけに大きく響く。心臓の鼓動がそれに重なり、書庫全体が不安定に揺れているように感じる。
別の巻を引き抜く。開く。
今度は、そもそも“北門の記録そのものが存在していない”。
代わりに、南門で同様の事件が起きたと記されている。
「……っ」
喉が詰まる。
これは誤記じゃない。
改竄でもない。
もっと根本的に――
「……記録が、“分岐してる”」
背後から、静かな声がした。
振り向くと、ユイが立っていた。彼女の視線は本ではなく、書庫全体を見ている。
棚と棚の間に漂う空気。積み重ねられた紙の重さ。そこに刻まれているはずの“過去”。
そのすべてが、わずかにずれている。
「ノエル、さっき見た記録、全部覚えてる?」
「え……あ、はい……でも、今のと違って……」
「いい。それが重要」
ユイは一冊の本を取り上げ、ページをめくった。
そこには、つい先ほど彼女たちが通った中庭の記録が記されている。だがその内容もまた、微妙に異なっていた。
――中央階段、七段。
――異常なし。
ユイは目を細める。
「……嘘だね」
「え?」
「さっき、あそこは確実に分岐してた。七段で固定されてるわけがない」
ノエルの背筋に冷たいものが走る。
「じゃあ……この記録は……」
「“どれか一つの結果”だけを残したもの」
ユイは本を閉じた。
「つまり今、この書庫は……全部の分岐を“別々の正史として記録しようとしてる”」
その言葉の意味が、ゆっくりとノエルの中で形を取る。
「……全部、正しいことになってる……?」
「そう」
ユイは頷いた。
「どの出来事も否定されてない。だから消えない。その代わり、“一つにまとまらない”」
その時だった。
棚の奥で、小さな音がした。
カタン、と何かが落ちるような。
ノエルが振り向くと、一冊の本が床に転がっていた。さっきまできちんと並んでいたはずの場所から、まるで“押し出された”ように。
近づいて拾い上げる。
表紙には、見覚えのある題が刻まれていた。
「……“王都北門記録・第三版”……?」
「第三版?」
ユイが眉をひそめる。
ノエルは急いでページを開いた。
そこには、先ほどとはまた違う内容が書かれていた。
――王都北門、侵入未遂。
――異常検知により未然に阻止。
――被害なし。
「……三つ目だ……」
ノエルの声がかすれる。
「壊滅、軽微、未遂……同じ事件が、三つに分かれてる……」
ユイは目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……増えてる」
その一言で、空気が凍りつく。
「さっきは二つだった。今は三つ。つまりこれは、“固定されるどころか増殖してる”」
「で、でも……どうして……」
ノエルの問いに、別の声が答えた。
「観測が追いついていないからだ」
セオドアだった。
いつの間にか書庫の入口に立っていた彼は、腕を組んだまま周囲を見渡している。
「分岐は本来、観測された時点で収束する。しかし今は違う。“記録”が分岐を追認している」
「追認……?」
「記録することで、それを“存在する過去”として確定させている。だが問題は、その記録自体が複数存在していることだ」
セオドアは床に散らばった本を一冊拾い上げた。
「つまり今、この書庫は――」
ページを開く。
そこには、また別の北門の結末が記されていた。
「“すべての分岐を正史として保存する装置”になっている」
ノエルは息を呑んだ。
「そんなの……無理ですよ……! だって、分岐は無限に……」
「そうだ」
セオドアは淡々と頷く。
「だからこのままでは、いずれ破綻する」
「破綻……?」
「容量の問題ではない。論理の問題だ」
彼はゆっくりと言った。
「“すべてが正しい”状態は、やがて“何も定義できない”状態になる」
その言葉は、重く沈んだ。
ユイは静かに本棚へと手を伸ばす。
一冊引き抜く。開く。
そこに書かれていたのは――
“ユイ・アルセリアは、存在しなかった”
「……は?」
ノエルが目を見開く。
だがユイは、驚かなかった。
ただ静かに、そのページを見つめている。
「……来たね」
「ユイ……?」
「分岐が増え続けると、“原因そのもの”も揺らぐ」
彼女は本を閉じた。
「つまり、“私がいない世界線”も出てくる」
ノエルの手から、本が落ちた。
「そんな……じゃあ……」
「うん」
ユイは、あっさりと頷いた。
「このままいくと、私の存在も“複数の正解”になる」
その瞬間、書庫の空気が変わった。
静かだった空間に、微かな“歪み”が走る。
棚の並びが、ほんのわずかにずれる。
床の模様が、重なって見える。
そして――
入口の方から、足音がした。
ゆっくりと、規則正しく。
リゼットだった。
彼女の目は、いつも以上に冷たく、迷いがなかった。
「状況は把握した」
その声は、決定そのものだった。
「これ以上の分岐は許容できない」
ノエルが一歩後ずさる。
「ま、待ってください……まだ、方法が……」
「あるなら提示しろ」
リゼットは遮る。
「なければ、排除する」
その言葉に、ユイは顔を上げた。
「排除って……」
「分岐の源を断つ」
リゼットの視線が、真っ直ぐユイに向けられる。
「お前だ」
空気が止まる。
ノエルの呼吸が乱れる。
セオドアは何も言わない。ただ観測している。
ユイは、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……それ、合理的だね」
「理解しているなら話は早い」
リゼットが一歩踏み出す。
だがその瞬間――
「でも、それやったら」
ユイはペンを握りしめた。
その瞳に、はっきりとした光が宿る。
「“誰も書かない世界”になるよ」
リゼットの動きが、止まった。
「……何?」
「分岐があるのは、“書かれてるから”じゃない」
ユイは一歩、前に出る。
「“選べるから”だよ」
その言葉に、書庫の空気がさらに歪んだ。
棚の本が、わずかに震える。
記録が、今この瞬間にも増え続けている。
「私を消したら、分岐は止まるかもしれない。でもそれは――」
ユイは静かに言った。
「“可能性そのものを殺す”ってことだ」
リゼットは何も答えない。
ただ、剣に手をかけた。
その動きは、迷いがなかった。
ユイは、目を逸らさなかった。
ここが分岐の分水嶺だ。
ここで何を選ぶかで、
この世界がどうなるかが決まる。
そして同時に――
“どのユイが残るか”も。
静寂が落ちる。
その中で、ノエルの声が震えた。
「……やめて……ください……」
誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
だが次の瞬間、すべてが動き出す。
リゼットが踏み込む。
ユイがペンを走らせる。
そして――
書庫の中で、最初の“選択の衝突”が起きた。




