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「自分の書いた小説に転生したのに、設定が崩壊してるので“書き換え”ながら生き残ります」―作者なのにヒロインに殺されかけてます―  作者: 百花繚乱


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第四十一話 「分岐は、すでに始まっている」

 

 朝は、いつも世界をまっさらに見せる。だがその日、ユイの目に映った王都の朝は、清々しいという言葉から最も遠い場所にあった。


 北棟の高窓から差し込む光はたしかに柔らかく、白い石壁を薄く照らしていた。けれど、その光の中にさえ微細な“揺れ”がある。まるで景色そのものが、完全に乾ききる前のインクみたいに、定着しきれずに滲んでいる。廊下を歩く侍女の足音が、ほんの半拍だけ遅れて重なった気がした。窓際の花瓶に活けられた百合の花弁は、視線を外した一瞬で、開いていたはずの角度を変えていた。


 疲れているのだと最初は思った。書きすぎた反動。現世との接続による消耗。頭の奥に残っている鈍い痛みは、まだ完全には引いていない。だが、ただの体調不良で片づけてはいけないと、今のユイは知っている。この世界で「何かがおかしい」と感じるとき、その半分は自分のせいで、残りの半分はもっと厄介な何かの始まりだ。


 小会議室に入ると、机の上には昨夜のままの銀板と紙束が整然と置かれていた。セオドアが残していった解析用の魔術式、ノエルが震える手でまとめた記録、リゼットが最低限の警備配置を記した簡略地図。その中心に、自分のペンがある。異物でありながら、今やこの世界の均衡を左右する道具。その事実を、ユイはもう否定しない。否定できる段階は過ぎてしまった。


 扉の近くで控えていたノエルが、ユイに気づくなり立ち上がった。栗色の髪はいつもより乱れていて、丸眼鏡の奥の目には明らかな寝不足の影が落ちている。それでも彼は本を抱えたまま、逃げずにここにいる。


「お、おはようございます、ユイ様。あの……少し、変です」


「見ればわかる顔してるね」


 口にした声は思ったより落ち着いていた。そういうときほど、内側では緊張が張りつめている。ノエルは叱られた子どものように肩をすくめたが、すぐに机上の紙束を指した。


「記録が……増えてるんです」


 ユイは眉を寄せた。「増えてる?」


「はい。ぼく、昨夜のうちに閲覧室から回収した文片を整理して、確かに二十七枚に分類したんです。でも、今朝数え直したら、三十四枚あって……しかも、増えた七枚のうち三枚は、同じ出来事を違う内容で書いているんです」


 その言い方に、胸の奥がざわついた。ユイはすぐ机に歩み寄る。紙束はきっちり番号順に揃えられていた。ノエルの几帳面さがわかる並べ方だ。その中から彼が抜き出した三枚を受け取る。


 一枚目にはこうあった。


『朝、北棟の中庭で、白い鳥が三羽、同時に飛び立った』


 二枚目。


『朝、北棟の中庭で、白い鳥は一羽もいなかった』


 三枚目。


『朝、北棟の中庭で、白い鳥は飛び立つ前に誰かを見ていた』


 どれも文の癖が微妙に似ている。現世のユイがメモを走らせるときのような、説明を急ぎすぎて名詞が先に立つ感じ。だが、その三つが同時に存在するのはおかしい。単なる誤記ではない。観測の差でもない。これは、もっと根本的な異常だ。


 ユイはしばらく無言で紙を見つめ、それからゆっくり息を吐いた。


「……分岐だ」


 ノエルが息を呑む。「やっぱり、そうなんですか」


「確定前の可能性が、記録として漏れてる。いや、漏れてるだけじゃない。もう紙の形を取ってる」


 言葉にした瞬間、嫌な確信が生まれる。第四十話の終わり、自分は“書き続ける”側を選んだ。終わらせるのではなく、届かせるために、残すために、書くと決めた。その選択が何かを動かしたのだとしたら、次に来るのは当然、安定ではない。物語は選択のたびに枝分かれし、しかもこの世界はすでに一つの完成稿ではなく、保留案や没案まで含んだ“創作の総体”に触れている。ならば、選ばれなかった可能性が黙って消えてくれる保証など、どこにもない。


「面白い顔してますね」


 窓際から聞こえた声に、ノエルがびくっと肩を震わせた。ユイは振り向かない。それでもわかる。あの声は、いつだって空気の密度を変える。


 アリアは高窓から差す朝の光の中に立っていた。銀髪はその光を受けると白に近く見えるのに、決して無垢には見えない。むしろ、触れれば手を切りそうなほど冷たい透明感がある。彼女の美しさは安心を与えない。見る者に「この存在は、こちらの都合で救済される役ではない」と思わせる類の美しさだ。整いすぎているのに、完成品めいた安定はなく、常に何かへ変質しつづけている危うさがある。その不安定さこそが、いまのアリアの魅力だった。


「朝からそんなに真剣だと、世界が緊張しちゃいますよ、作者さん」


「世界が勝手に緊張してるだけでしょ」


「そうとも言います」


 アリアはふっと笑った。だがその瞳は笑っていない。銀色の奥に、夜の名残みたいな深さがある。第四十話の最後に彼女は言った。――じゃあ、わたしも本気を出します、と。その宣言は冗談ではなかった。今朝の彼女には、こちらをからかう余裕と、その余裕の下に隠した剥き出しの執着が同居している。


 ユイは三枚の紙を持ち上げた。


「これ、あなたも気づいてた?」


「ええ」とアリアは軽く首を傾げる。「だって今朝、白い鳥、ちゃんと三羽いましたから」


「でも、一羽もいなかった記録もある」


「それも本当かもしれませんよ」


 ノエルが困ったように二人を見比べる。ユイは紙を机に戻しながら、アリアをまっすぐ見た。


「つまり?」


「つまり、朝の時点で、もう世界が一つじゃないんです」


 何気ない口調だった。けれど、その一言は石みたいに重かった。ユイの背筋を冷たいものが走る。


 一つじゃない。可能性が同時に存在する。しかも、それが人の頭の中の仮説ではなく、王都の朝という現実の中で起きている。


「昨夜の時点では、まだ“書きかけの揺れ”でした」とアリアは窓辺から離れ、机に指先を滑らせた。「でも今は違う。分岐が、起きた後なんです。誰かが選んで、でも選びきれなくて、残りも捨てられなかった」


「誰かって、私?」


「半分は」


「半分?」


「もう半分は、世界です」


 アリアの言葉はいつも、核心だけを掠めていく。全部を説明しないくせに、聞き手の脳だけは正確に熱くさせる。それが苛立たしく、同時に目が離せない理由でもあった。ヒロインであるはずの彼女は、いまや導かれる側ではなく、ユイをより深い場所へ引きずり込む側に立っている。にもかかわらず、彼女の一瞬の仕草や、ふとした寂しさが、ただの敵役にはなりきれない温度を残すから厄介だ。


「鍵の担い手が近いんですよ」とアリアは続けた。「扉を開ける人。閉じてた可能性を、面白がって放り出す人」


 その名が出た瞬間、部屋の空気が微かに揺れた。ノエルがぎこちなく本を抱え直す。ユイは胸の内でその言葉を反芻した。鍵。開く者。まだ会っていないのに、その概念だけで嫌な納得がある。鏡の担い手が“見る”側の静かな異物なら、鍵の担い手はたぶん、世界に閉じていたものを外へ放り出す軽薄さと残酷さを持っている。


「面白がって、ね」


「ええ。だって分岐って、面白いじゃないですか」


 アリアはその言葉を口にしてから、ほんの少しだけ表情を緩めた。挑発のつもりなのかもしれない。だが、その横顔には別のものも見えた。羨望にも似た感情だ。彼女はヒロインとして“選ばれる”側にいたはずなのに、今は選択肢の外側が増えていくことに、どうしようもなく惹かれている。その矛盾が彼女をますます魅力的にする。役割の内側にいた存在が、役割そのものを食い破って成長していく。読まれるほど濃くなるくせに、決めつけられることを拒む。そんなヒロインは、そりゃあ危険だし、目立つに決まっている。


 ユイは軽く額を押さえた。頭痛はまだ残っている。だが、考えることは止められない。


「分岐が現実に出てるなら、まず確認しないと。紙の上だけの異常か、城全体か、王都全域か」


「すでに城内には出てます」


 扉の外から入ってきた低い声に、ノエルがまた肩を跳ねさせた。リゼットだった。長い黒髪を今日は後ろで束ねていて、いつも以上に無駄がない。彼女の美しさは、アリアとは正反対だ。幻想ではなく現実に根を下ろした鋭さ。目が合った瞬間、こちらの言い訳や迷いを切り捨ててしまうような、執行者の美しさ。だが完全に冷たいわけでもない。必要なものを必要なだけ守ろうとする硬質な誠実さが、彼女の立ち姿に一本芯を通している。


「北回廊で、同じ使用人が二箇所に同時にいたという報告が三件。厨房では、同じ鍋の中身が“塩辛いスープだった”と“まだ味が入っていない白湯だった”で食い違っています。厩舎では、同じ馬が右脚を痛めていた記録と、何も異常がなかった記録が同時に存在した」


 淡々とした報告なのに、十分すぎるほど異常だった。ユイは椅子の背に手を置く。


「人も?」


「人もです。ただし、完全に分裂して見えているわけではない。大半は“さっき見た姿と今の姿が違う”“話した内容が食い違う”という、短いズレとして認識されています。まだ、です」


 その「まだ」が重い。世界が崩れるとき、最初はいつも小さい。


「セオドアは?」


「記録隔離式の追加展開中です。西棟にも簡易結界を張らせていますが、原因に触れない限り一時しのぎでしょう」


 リゼットはそう言ってから、机の上の紙束に目を落とした。「それが分岐の残滓ですか」


「たぶん」とユイは答える。「記録化された可能性。観測される前の枝」


「なら燃やしますか?」とリゼットは言った。冗談ではない声音だった。


 ノエルが息を呑む。ユイはすぐ首を振った。


「駄目。消せば終わる種類じゃない。むしろ“なかったこと”にした分だけ、別の場所に噴く」


「あなたらしい答えですね」とアリアが笑う。「消すより読む、でしょ?」


「読まないと戦えないから」


 返した声は短かったが、はっきりしていた。自分でもわかる。最近の自分は、以前より言葉を選ぶ速度が上がっている。怖がっている時間が減ったわけではない。怖がりながらでも進めるようになったのだ。そうでもなければ、ここまで来られなかった。


 リゼットは数秒だけユイを見つめ、それから小さく頷いた。「なら現場確認です。北中庭で、最初の大きなズレが観測されています」


「白い鳥?」


「いえ。階段です」


 階段。


 その一語がなぜかひどく不気味に響いた。場所そのものがズレるのは、物や人の食い違いより一段深い。ユイはペンを掴み、紙を数枚抜き取る。重すぎる言葉は使わない。今は観測と記録が先。だが必要になれば、すぐに書ける準備だけはしておく。


 四人で北中庭へ向かう途中、城の空気は確かに変わっていた。使用人たちは皆、どこかそわそわしている。だが恐慌ではない。まだ“説明できない違和感”の範囲に収まっているのだろう。廊下ですれ違った侍女が、一度こちらに一礼してから、数歩先でもう一度まったく同じ角度で頭を下げた。そのときノエルが思わず声を漏らし、リゼットが視線だけで周囲を制した。


 中庭へ出ると、朝の光はさっきより強くなっていた。噴水の水は青白く輝き、剪定された木々の影が石畳に細く伸びている。一見すれば美しい庭園だ。だが、その中心にある北階段だけが、風景からわずかに浮いて見えた。


 石の段数が合わない。


 ユイは立ち止まった。数える。上から七段、踊り場、下に六段。そう見えた次の瞬間、踊り場までが八段になり、最下段が消える。目の錯覚ではない。石そのものが、確定しきれないまま揺れている。


「これは……」


「近づくたびに形が変わります」とリゼットが低く言う。「兵を一人行かせましたが、上った記録と下りた記録が同時に残った」


「本人は?」


「気分が悪いとだけ。今は休ませています」


 アリアが階段を見上げた。風が吹くたび、彼女の銀髪が細く揺れる。その横顔は不思議なくらい静かだった。美しさというのは時に暴力だ。こんな異常の前に立ってもなお絵になる人間を、世界は簡単には手放さない。


「扉が開いてますね」と彼女は言った。


「どこに?」


「まだ決まってない先に」


 その言葉に、ユイは喉の奥が乾くのを感じた。まだ決まっていない先。階段一つが、複数の行き先を同時に孕んでいる。それは比喩ではなく、この世界の現象として起きている。


 ノエルが小さく呟いた。「分岐って、こういう……場所にも起きるんですね」


「起きるよ」とユイは答えた。自分に言い聞かせるように。「物語って、人物だけじゃない。場面も順番も空間も、全部“どう書くか”で意味が変わる。階段が上るためのものか、落ちるためのものか、出会うためのものか、逃げるためのものかで、同じ石段でも別物になる」


 言いながら、ユイは目の前の異常をどこかで書き手の目で見ている自分に気づいていた。それを気持ち悪いとは思わない。むしろ、自分がこれまで積み上げたものが、ここでようやく役に立っている感覚があった。売れなかった夜も、迷った展開も、削った描写も、無意味ではなかった。だから今、自分は世界の揺れ方を読める。


 アリアがちらりとユイを見る。その視線には、からかいではない何かがあった。認めるような、測るような、でも少しだけ悔しそうな色。


「やっぱり」と彼女は小さく言った。


「何が」


「あなた、こういうとき一番綺麗ですよ」


 ノエルが目を丸くし、リゼットが露骨に眉をひそめた。けれどユイはすぐには返せなかった。褒め言葉の形をしているのに、そこに含まれた意味が軽くないからだ。こういうとき。つまり、世界が壊れかけて、自分の選択が何かを決めてしまう局面で。アリアはそこに、作者としてのユイの本質を見ている。


「ありがたくない評価」


「でも本当です」


 アリアは笑った。今度は少しだけ、優しく。


 その直後だった。


 階段の上に、人影が立っていた。


 一人のはずなのに、輪郭が二重に見える。黒い制服を着た兵士。片方はこちらへ向かって降りてきており、もう片方は同じ瞬間、振り返って上へ戻ろうとしている。どちらも本物に見える。どちらも一つ前の瞬間までは存在していなかった。


 ノエルが息を呑み、リゼットが剣の柄に手をかける。ユイは一歩前へ出た。兵士の顔は青ざめている。口が動く。だが言葉が二重に重なって聞き取れない。


 ――戻れ

 ――上がるな

 ――戻るな

 ――まだ決まっていない


 複数の文が同時にそこにあった。警告か、記録か、それとも分岐そのものの声か。


 兵士の足元で、石段が一段ずれた。


 その瞬間、ユイは理解した。これはもう“違和感”の段階ではない。分岐は紙の上でも、人の記憶の中でもなく、王都の朝そのものに入り込んでいる。選択肢は増えたのではない。増えた選択肢が、現実の顔をして歩き始めたのだ。


 ペンを握る手に力が入る。ここで下手に書けば増幅する。だが、何もしなければ階段そのものが人を呑む。重さと精度。その均衡を、今この場で見極めなければならない。


 アリアが、隣でひどく楽しそうに囁いた。


「ほら、始まった」


 その声に、ユイはまっすぐ前を見た。怖い。怖いけれど、それ以上に、もう目を逸らせない。自分が書き続けると決めた先にある最初の朝が、これだ。なら、やるしかない。


 世界は一つではなくなった。

 そして、ユイはその最前列に立っている。


 白い朝の光の中で、石段はまだ、どちらへ続くかを決めきれずに揺れていた。


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