82話
翌朝、リルドは昨日の温泉の熱がまだ体に心地よく残っているのを感じながら、いつものようにギルドの門をくぐった。
ギルド内は、ルシドが持ち帰った温泉饅頭を頬張る冒険者たちで賑わっていた。「おい、この饅頭うめぇな!」「リルドが選んだんだろ? さすが分かってるぜ」と、穏やかな活気に包まれている。
リルドはそんな声に軽く会釈しながら掲示板へ。
今日彼が目を留めたのは、一番下の端で、他の派手な討伐依頼の影に隠れて、今にも剥がれ落ちそうになっていた二枚の依頼札だった。
「……これ、お散歩のついでにやっておこうかな」
「おはよう、受付さん。今日はこの二つをお願いするよ」
「おはようございます、リルドさん! ああ、『街灯の魔石交換』ですね。これ、高所の作業が多くてみんな面倒くさがって放置されていたんですよ。それと……『迷子の子猫探し』。依頼主は近所のお婆さんで、昨日から帰ってこないとお困りでした。受理しますね」
「うん。高いところは得意だし、子猫さんもきっと寂しがっているから、早く見つけてあげたいね」
リルドはまず、街のメイン通りから外れた裏路地の街灯を回り始めた。
本来なら長い梯子が必要な作業だが、リルドはかつて埋め尽くしたスキルの一つ、「身体強化」と「軽功」を無造作に使い、音もなく街灯の頂上へと跳び上がる。
「(……はい、お疲れ様。新しい光を入れてあげるね)」
魔力が切れかかった古い魔石を抜き取り、透き通った新しい魔石を嵌め込む。リルドが指先で軽く魔力を通すと、街灯はまだ昼間だというのに、一瞬だけ優しく、かつてないほど清らかな輝きを放った。
最後の街灯を終えた時、リルドの耳に「視野拡大」ならぬ「聴覚向上」が捉えた微かな声が届いた。
「……ミャー……」
「見つけた。……あんな高いところに登っちゃったんだね」
見上げると、古い時計塔の狭い出窓に、一匹の小さな三毛猫が震えながらうずくまっていた。
リルドは周囲に誰もいないことを確認すると、一気に時計塔の外壁を駆け上がった。重力など存在しないかのようなその動きは、まさに全盛期の「クリードアサシン」を彷彿とさせるものだったが、今の彼の顔はどこまでも穏やかだ。
「怖かったね。もう大丈夫だよ」
リルドがそっと腕を伸ばすと、子猫は彼の肩に飛び乗り、喉を鳴らした。そのまま地上へふわりと着地し、心配そうに待っていたお婆さんの元へ子猫を送り届けた。
「ああ、ありがとうございます、冒険者さん! なんとお礼を言えばいいか……」
「あはは、僕もこの子の可愛い声を聞けて楽しかったですよ」
夕刻、リルドはギルドに戻り、完了の報告をした。
「ただいま、受付さん。魔石の交換、全部終わったよ。子猫さんも、無事におうちに帰れたみたいだ」
「おかえりなさい! さすがリルドさん、仕事が早いですね。……あれ? 街灯の管理ギルドから連絡が来てますよ。『魔石を変えただけなのに、街の灯りが以前よりずっと明るく、魔力の持ちも良くなっている。どんな特殊な調整をしたんだ?』って驚いてましたよ」
「あはは、きっと新しい魔石が張り切ってるんだよ。お散歩がてら、良い運動になったよ」
リルドは報酬の銅貨を受け取ると、満足げに微笑んでギルドを後にした。
「さて、僕も今夜は、高いところから見た夕陽を思い出しながら、温かいミルクティーでも淹れようかな」
万年Fランク冒険者の日常は、誰にも見られない超常の技術を「ただの親切」に添えて、穏やかに更けていく。




