第46話:凪、そして潮騒
波は穏やかに船を揺らしていた。空は青く晴れ渡り、オアフ島のシルエットが遠景に映る。
ソフィアがボートのスロットルを停止位置に戻し、横に立つ時子に視線を送った。
時子は胸元の御守に添えていた手を下ろすと、船体後方へ移動した。
時子の横に、与作は立った。ソフィアは舵の前に立ち、エリアスもまたその横に並んだ。
「始めるね」
時子が三人とそれぞれ顔を見合わせた。皆が静かに頷いた。
時子の両手がまっすぐと伸びる。――ふわりと長い黒髪が浮かび、揺れた。
わずかに波に揺られていた船の動きが止まった。穏やかだった、あたりの海の様子は、ひときわ静かに――あたかも、動きを止めたように静まり、「完全な凪」を迎えた。
――ぽつりぽつりと、青色の光が現れた。海の中から泡のように立ち上がっては宙に漂い始めた。海からやって来た光は、空中の一箇所に集まっていく。それらは徐々に大きな光の球となった。
ソフィアは操舵ブースのフレームに手をかけていた。その手に力が入って、わなわなと震えているのに、エリアスは気がついた。
エリアスがソフィアの背に手を当てた。少し驚いたようにソフィアはエリアスの顔を見ると、エリアスは穏やかに微笑んだ。
「恐らくウルルの時のように、君にも負荷がかかる。少しケアさせてもらうよ」
険しい顔をしていたソフィアの顔が、少し柔らかい表情になった。
「……ありがと」
光の球はますます大きくなっていく。そして、まばゆい光を帯び始めた。
「――来るよ」
時子が声を発した直後、ひときわ強い光がエリアス、時子、そして与作の知覚する風景を青く染めた。
与作は腕で目を覆った。腕を下ろすと、光の球があった空間に、一人の人型の存在が浮いていた。頭から後ろには蛸の足のような何かが、あたかも人間の女性の長い髪のように下がり、両腕はクジラかイルカのヒレのようだった。どこか、女性らしさを感じさせる――人間に当てはめれば、「少女」といった雰囲気をまとう存在だった。
――少女は、閉じていた目をゆっくりと開いた。
『ありがとう。わたしの一部が乱れ、制御できなくなっていたの。助かったよ』
その少女が、視線を正面に対峙している与作や時子に送っている。
——時子の首に下がる御守に、その視線は向かっていた。
『……その御守。わたしが、かつてカナロアにあげたものだね。あなたたちは彼の縁者なのかな』
与作は少女の言葉に疑問を覚えた。
「なあ、『カナロア』ってアンタの名前だと思ってたんけど。このあたりに伝わる海の神様の名前としてな」
少女は目を閉じて、首を横に振った。
『カナロアは——かつて、わたしのもとにやって来た、あなた達と同じ人間だよ。彼だけはわたしの声が聞こえて、会いに来てくれたの』
少女の言葉の意味を飲み込んだ与作は、「あー」と声を漏らした。
「……ってことは、海の神様と、やり取りしてた理術士の存在がごちゃ混ぜになって後世に伝承されちまったのか」
「……その方面の学者達が知ったら、世紀の大騒ぎになる真実だね」
エリアスが与作と顔を見合わせるようにして、口を結ぶようにして笑った。
少女が目を細め、少し微笑んだ。
『こうやって会いに来てくれた人がいるのは、彼以来だから、なんだか懐かしいな』
少女が時子を見た。その瞳は黄色く、瞳孔が人間のそれとは違って横に割れている。時子の正体を見透かさんとするように、静かに凝視していた。時子は、動じることなく、ぴたりと動かなかった。――少女は、静かに頷いた。
『あなたと地の精霊のおかげで、こうやってお話ができた。ありがとう。ここへ来たのは、きっと私の力も必要なんだよね?――大いなる意思の化身様。』
時子は、少し俯いて、再び少女のほうを向いた。
「……実は、あなたがた精霊や神々の下へ訪れるよう、助言をした人間がいます。その者の言葉に従って私達はここへ来たのです。……ただ、その言葉の真意はまだ分かりきっていなくて」
与作は時子の言葉に同調するように「そうなんだよな」と小さく呟いた。
少女は、少し意外そうな表情を見せた。――口元にヒレのような手を当て、普通の人間と同じように考え込む仕草を見せた。
『……地の精霊の力を使った今なら、普段の自分の力と何が違うか、分かるよね』
時子は少女の言葉に一度大きくうなずいた。
「はい。大地の力を借りるというより、大地の力を、私の意思によって自由に行使できる感覚がありました」
少女は、その答えに静かに頷いた。そして時子や与作達に背を向け、空を仰ぎ見た。
『多分、この世界は暴走した力の流れに飲み込まれると思う。……きっとその日はすごく近い』
少女は振り返り、空に向かっていた視線を、再び時子に戻した。
『……それを回避するとしたら、精霊の力に強く干渉して、この世界の力の均衡を元に戻すしかないのだと思う』
「……均衡を……元に戻す?」
エリアスが少女の言葉の意味を考えるように復唱した。
『この先は、あなた達が考えた方が良いのだと思う。……わたしが口出しするのは良くないっていう精霊もいるかもしれないけど、せっかく来てくれたお友達の役に立てたら、わたしは嬉しいなって思うから。……少し、しゃべりすぎちゃったかもね』
少女が目を細め、少しはにかむような笑みを浮かべた。
『あなた達は、また次の精霊に会いに行くの?』
時子がうなずいた。
「はい。次は火の精霊に……」
少女は、「そっか」と言いながら、西の水平線の先を見つめた。
『……気をつけてね。きっと、あなた達に大きな試練を突きつける精霊もいると思う。特に、火はそういうものだから』
少女は右のヒレを握りしめるかのように丸め、胸のあたりに当てた。そして、差し出すように、時子に向けた。
『化身様、わたしの力も持って行って。……あなた達の旅の助けになると嬉しいな』
少女は胸に手を当てて静かに目を閉じた。輪郭がほどけるように、青い光の粒子となった。光の粒が風に乗って流れるように時子の周りにやって来た。光の粒子が時子の周りをくるくると渦巻くように取り囲む。その動きは徐々に早くなっていく。
時子は、そっと目を閉じ、肩の力を抜いた。
——粒子の動きがピタリと止まった。
そして、その次の瞬間、一斉に時子の身体に向かって飛び込んでいく。
――青い光は、そうしてひとつ残らず消えて無くなった。
与作は時子の顔を見た。
時子はゆっくりと目を開いた。
「……あなたの力、大切に使います」
時子が首に下げている御守に、静かに手を添えた。
空は晴れていた。――波が船底にあたり、とぷんと音を立てた。
消えた潮騒と揺れが、再び戻ってきた。
*
「……なんか、まだ揺れてる気がする」
船から桟橋に降りた与作が、確かめるように、地面を踏み鳴らした。
「そのうち収まるわよ」
ソフィアが片膝をつきながら桟橋と船を係留ロープで結んだ。結びができたところで、足で踏み抑え、念入りに力をいれて引っ張った。
与作は、先に進んだ時子とエリアスの背中を追って、足を踏み出した。
――ピリリリと電話の鳴る音が響いた。与作が、その音のする方向を追って振り返ると、ソフィアが羽織っていたミリタリージャケットのポケットからスマートフォンを取り出していた。
「お疲れ様、クリス。どうしたの」
『良いお知らせと、悪いお知らせがあります』
ソフィアが発話したと同時に、被せるようにクリスタルの音声がスマートフォンから響いた。
「じゃあ……良い方から聞くわ」
ソフィアは係留ロープに足を置いたまま、立っていた。
『アイスランドで探索していた、火の聖地と思しき場所を特定できました』
「それはよい知らせね。次の行動プランが立てやすくなるわ」
ソフィアの足がロープから離れた。電話を持つ左手の肘を。右手で抑え始めた。
「……で、悪い方は?」
サングラスの奥で、ソフィアの視線が耳元に置かれたスマートフォンに寄った。
『あなたの調査活動に、うちの組織の軍閥派が干渉し始めて来ました』
左腕の肘を抑えていたソフィアの右手は、彼女の額を抑えはじめた。――ソフィアはその場で地面にしゃがみ込んだ。
「あー。時間の問題かもとは思ってたけど、……ついに来ちゃったか」
『……すみません。人員調整の際に注意はしていましたが、一部の調査ユニットのアサインが軍閥派の人間にすり替えられていました。聖地特定の有力情報も、その軍閥派のユニットから上がっています』
右手を膝において、ソフィアは立ち上がった。
「まぁ、仕方ないわね。……これから振舞い方を検討するわ。その軍閥派ユニットの事とか含めて、メールで情報をこっちに回しといてもらえる?」
『はい。……あと、ハワイ調査のレポートもちゃんと対応お願いしますね』
ソフィアが、かけていたサングラスに手をかけた。右こめかみのフレームをつまんで顔から外した。目元に力を入れるようにして、眉間に皺が寄っていた。
「……また、ちょっと手伝ってくれない? マカダミアナッツのチョコレートとかどうかしら?」
『……グァバジュースも付けてください。もちろん箱で』
――無情にツ―ツーと通話の終了を告げるスマートフォンを、ソフィアは再び、ジャケットのポケットにしまった。
「……こうなると、ちょっと窮屈になるわね」
ソフィアは、サングラスを再びかけて、与作の立っている方へ歩き出した。




