地獄に仏
「くしゅんっ」
地獄にしてはずいぶん人間らしい音を響かせて、私はくしゃみをした。
湿った空気、燃え残った龍の体熱、汗、粘液、その他いろいろ。
何より、今の私は下着しかつけていないのだ。
そりゃ風邪も引く。
というか、私は人間のままなんだろうか。
身体はアンデットとかじゃないの、地獄にいるんだし。
そんな私の肩に、ふわりと上着がかけられた。
「……あっ」
モブ子ちゃんのだった。
長い黒髪、黒装束。手にはいつもの刀。
そして、いつものように、目は閉じられている。
「ありがとう、モブ子ちゃん……」
あったかい。
ちょっと、嬉しい。
私は思い切って話しかけてみることにした。
「ねえ、モブ子ちゃん。どうして目を瞑ってるの?」
少しだけ首を傾けて、彼女は答えた。
「我もまた、地獄に堕ちた身」
「故に──己が身に宿る“業”からは、逃れられませぬ」
詩のような口調に、思わず背筋が伸びた。
「……具体的に言うと?」
「はい、主様の御姿を視てしまいますと、罰したいという欲求に飲まれてしまいますゆえ」
主様って……私のことか。まあ、今さら突っ込まない。
「なるほど、それで目を閉じてるのか」
モブ子ちゃんは、静かにうなずいた。
「いえ、地獄に堕ちたその日、我が眼を、刃で斬りました。」
「……モブ子ちゃんの人生、過酷すぎない?」
私は唖然とした。
地獄に来てもなお、苦行と献身。
いや、地獄だからこそなのか。
言葉を失った私の前で、モブ子ちゃんがカラカラと笑った。
「冗句です、流石に眼は斬りませぬよ。あははは。」
「笑えないけど……ちょっと、安心した……」
と、同時に湧いてきた疑問。
「でもさ、そこまでして……なんで欲求を抑えてるの?」
その問いに、モブ子ちゃんは背筋を伸ばし、刀を持っていない方の手を空に向けて指さした。
まるで、はるか上空の、何かを見ているようだった。
「それは、勿論!」
「主様を──天国にお戻しするためです!」
一瞬、風が吹いたような気がした。
(……目から鱗が落ちるって、こういうことかもしれない)
この子は、ずっと私のために剣を振るっていた。
目を閉じ、業と衝動を抑えながら、それでも私の為に進み続けてくれていたのだ。
「……モブ子ちゃん、すごいね」
自然と、そう言葉がこぼれた。
彼女の横顔は、目を閉じたままでも、まっすぐ上を見ていた。
私は少しだけ、強くなれた気がした。
この子になら、ついていける。
たとえ、どんな地獄がこの先に待っていたとしても。




