落陽の王都1
***
「王国の興廃、この一戦にあり!」
春の疾風冷たい戦場に響く決死の鼓舞に、ひしめき合う瞳の群れの中で彼らの炎が煌々と揺れ動いた。
「国のため家族のため、死力を尽くして戦うのだ!」
スーリング大陸南部は春が到来してまだ間もない。寒風は依然として身を刺すような冷たさを持っている。しかし、越冬の時機を迎え平野部のほとんどで雪は溶けていた。大地を支配しているのはどこまでも続く緑であり、行軍に手間取らないくらいにはなっていた。
テンシュテット王国軍の兵士達の表情は皆固い。それは決意というよりは恐怖の色であり、隊長や将軍達の鼓舞の声を、現実か逃げるように必死に聞いている。ある兵士は鉄と血飛沫と死への恐怖を紛らわせるように、まだ戦闘が始まっていないにもかかわらず手に持った武器を一層強く握りしめた。
テンシュテット王国の王都ルブレーを背に布陣した彼ら。その眼前の薙ぐような一直線の地平線、その一角が赤く赤く染めあがっている。
赤銅色の鎧を着ているグロス王国軍の軍勢が、その地を埋め尽くすように布陣していた。その赤い鎧の数は、少なく見積もってもテンシュテット王国軍の二倍はある。赤を基調とした槌と捻じれ角の牡々しい山羊の旗が春荒により激しくはためいている。
二つの軍勢の間に遮るものはなにもない。真正面からぶつかりあうことになる。
「フェルトハイム将軍」
馬上で敵の遠影を眺めていた一人の騎士は振り返った。まだ若い騎士が馬から降りてフェルトハイムを見上げた。彼らの耳には相変わらず味方を鼓舞し士気を保とうとしているそれぞれの部隊長の声が微かに聞こえてくる。それは怒声によく似ていた。
「広がりつつ進軍していた敵の動きが完全に止まりました」
若い騎士の報告を聞いて将軍と呼ばれた男、フェルトハイムは顎鬚を撫でるような動作をしつつ前方を眺めた。
「来るな」
遠方を見据えるフェルトハイムの眼はその声と同じようにどっしりと重く構えて、静かさを感じさせる色を秘めていた。
しかし、フェルトハイムの言葉を受けた若い騎士は首を傾げていた。
「どうして分かるのです?」
「経験だ」
それでは説明になっていない。そう言いたげに若い騎士は、頷きもせずあからさまに眉を顰めた。フェルトハイムは横目でそれを見て、長く息を吐くと視線を前方から外してその若者に向けた。
「ではそなたはどう考える? 聞かせてみろ」
「何事にも間というものがあります。優れた剣士は流水の如く舞うといいますが、如何に天賦の才を持つ剣士とて、川のようにずっと動くことは出来ません。如何に賢明で多くの事をこなす事の出来る王とて、生の間休む間もなく働く事は出来ません。如何に優れた軍団とて、それら二つの例から分かるように、いつまでも戦い続ける事は出来ません。ましてや彼らは長い行軍を終えた後なのです。今兵士は疲れを感じている事でしょう。グロス軍は、おそらく戦う前に休息を与えようとしているのでは? この時間が行動と行動の間の隙だとしたら、今攻め込むと敵の虚を突く事が出来ます」
「成程、成程」
期待はしていなかった答えが割とまともな意見だった事に少し安心しつつも、フェルトハイムは首を横に振った。
「私はそうは思わないな」
「何故ですか?」
「まず第一に、距離が近過ぎる。攻めて来られた時に各部隊で連係を取る時間もない距離だ。指揮が伝わりやすい寡兵の部隊ならばともかく、あんな大部隊でそんな事をするのは自殺行為。最悪そなたの言う通り、虚を突かれて大打撃を受ける可能性がある。それを敵が考慮していないと考えるのは些か楽観視し過ぎているだろう」
若い騎士は苦い顔をして言葉に詰まり、目を下に背けた。その通りだと認めたようなものだった。
「第二に、私なら兵に休息を取らせるならば飯を与える。戦う前の士気高揚にも繋がる。しかし見張りの情報が正しければ敵の兵糧部隊は護衛部隊とともに後方に控えているとの事。それの意味するところは、非戦闘員が巻き込まれてはまずいという事、つまりグロス軍はすぐに戦闘を始めるつもりであそこにいるという事だ」
「成程……勉強になります」
若い騎士は説明を聞いてようやく納得がいったと何度も頷いた。
緊張感が足りない。そうフェルトハイムは思った。
彼が前の戦に参加していないからこんなにも楽観的にいられるのだろうかと考える。フェルトハイムはそうではない。今より一月程前、あの要塞での戦いを経験していたら若い騎士は今頃眼前の軍団から目を離せなくなるだろう。現にフェルトハイムはひと時だってあの地獄の業火のような赤を視界の外に置きたくなかった。
勝てるだろうか。認めたくない臆病な自分がそう問いかけてくるのを必死で無視した。
こうやって真正面から陣を敷いて戦おうとしている以上、フェルトハイムも勝つ気で当たるつもりではいるが、しかし前回の戦いでは兵力が互角の状態でも負けたのだ。
あれは手痛い敗戦だった、と苦々しく顔を歪める。あの戦いで兵力の半分以上を失ってしまった。今は貴族達が渋っていた追加の兵士で補充出来たものの、敵の数は敗残兵や本国からの追加の兵を加えて月が欠ける前に増大し、結果として兵数は倍以上の差をつけられている。
通常ならば降伏してしまいたいところだ。それが最善策だと今もフェルトハイムは信じて疑わない。
しかし貴族達の意見は徹底抗戦が多数。特に有力貴族であるハイルマン卿が大きな声でそれを唱えた。国王もそれを無下にすることは出来ず、こうして国王の旗下で将軍を務めているフェルトハイムが総指揮官としてここで馬を引いている。
「しかしこうして見ても、敵の数はすごいですね」
「ああ」
「今からでもルブレー城で籠城戦をした方がいいのでは?」
若い騎士は懲りないように意見してきた。勉学意欲と自己主張に溢れているというのは立派な事ではあるが、今は戦いに集中させてほしいものだとフェルトハイムは心底うんざりしていた。しかしそれをおくびにも出さない。
この若い騎士は貴族の子息なのだった。
「敵の数の方が多い以上野戦は危険です。ルブレー城ならば蓄えもあり、防備も揃っています。兵の数が足りない以上、城壁でそれを補うべきではないでしょうか」
足りていないのはお前のおつむだ。そうフェルトハイムは言いたかった。そうすればこの若い騎士はフェルトハイムの事を嫌って話しかけては来なくなるだろう。それはそれで良かった。清々することだろう。しかしそんな事で貴族に敵を作りたくはなかった。
フェルトハイムは忍耐という単語を何度も頭に思い描いて、そして慎重に言葉を選び出す。
「よいか、籠城作戦はただ死期を延ばすだけの下策だ。戦うという選択肢しかない現状を考えると、勝利を収めるためには野戦しかありえない」
「何故です?」
「質問をする前に自分で考えなければ、進歩はないぞ」
そう言われて騎士は顔を赤らめた。侮辱されたと受け取ったのだろう。言葉を精一杯選んだつもりだったが、ここまで反応豊かにしていられる若さがある意味羨ましく思えてフェルトハイムは空を見上げた。
この騎士を推薦して自分の隣に無理矢理置いたのは誰だったかとフェルトハイムは考える。そしてそれが、貴族の一人であるハイルマン卿だったと思い出す。
帰ったらなんと報告したものだろうか。しかしそれは無事に帰れたらの話だった。
「まったく……敵は我が国に深く侵攻し、王都にまで迫っている。国外及び国内で三度、大きくぶつかり合ってそして全てで我が軍は敗北を喫してしまった。そのうち一度は私も出ている」
「そうです。そしてそのうちの二つが野戦でした。敵が野戦に強い事は最早分かり切ったことです。特に敵の騎馬部隊は危険。籠城戦ならばその騎馬部隊が活躍する場を与えません」
「そうだな……ではこう尋ねよう。籠城して、どうやって勝つのだ?」
フェルトハイムの問いかけに、何を言っているのだと言う風な顔をする。少しも考える事なく、若い騎士は、おそらくどこかで習ってあろう知識を得意げに披露し始めた。
「籠城戦では敵の攻城兵器を最優先に壊し、侵入を許さぬよう城壁を死守します。上から熱湯や、時には糞尿を貯めた釜を落として敵の戦意を下げさせながら――」
「質問が悪かったな」
フェルトハイムはもういい、といった風に手を振って若い騎士の語りを遮った。若い騎士は訳が分からなそうな顔をする。フェルトハイムは改めて、彼に質問をした。今度は彼にも分かるように。
「彼らが、王城を包囲した状態で構えたまま動かない時、我々はどう戦って勝てばいいのか?」
「それは……」
若い騎士は答えられない。
フェルトハイムはやれやれと溜め息を吐く。一度ちらりとグロス軍の方を見てその動きを確認した。赤はまだ動いていない。
「蓄えはあるといったな。それは王都にいた常備兵が食べる事を想定した量しか構えられていない。国々から貴族達の私兵を集めたこの戦いで、ここにいる兵士全員が城に籠れば、おそらく一月程で尽きる。敵に包囲されては城の外側にある街から物資を調達することも出来ない。内部から巻き上げた所で、一月分変わるかどうかだろう。その状態で敵が傍観すればどうなる?」
「それは……敵の方が数は多く、糧食が尽きるのが早いはずでは!」
恥ずかしさを隠すように怒鳴り返した若い騎士に、フェルトハイムは睨みつける。鋭い視線に貫かれ、若い騎士は一瞬呼吸を忘れてしまった。フェルトハイムの瞳には歴戦を潜り抜けてきた凄みが宿っていて、若い騎士はただの視線に言葉を忘れてしまう程に圧倒された。
それから彼はようやく、自分が立場を理解していない事に気付いたのだろう、膝を折って頭を下げた。
確かに彼は貴族の子息だ。対するフェルトハイムは平民出身であり、武芸によって成り上がったものの小さな領地しか持たないただの将軍だ。
しかし、今この時、この場に限ればフェルトハイムはテンシュテット王に軍の全権を委任されている最高指揮官だ。彼が命令違反だと言えば例え貴族の子息だろうが軍法会議にかけられ、軍にとって存在が邪魔だと言えばテンシュテットの法手続きすら踏まずにこの場で死罪に掛けられる。
この戦争の間、王以外の誰一人としてフェルトハイムに逆らう事は許されないのだ。
「も、申し訳ありません。口が過ぎました」
「……だからこそ、敵は三度も大きな戦をしたのだろう。確実にその地を取り、補給路を確保するために。彼奴らは兵力を本国から直々に補給したのだぞ。ならば同時に兵站も十分量確保したに決まっている。仮にそうでなかったとしても、国境線からルブレーまでの広い地域で取られた城の数は十余、遠いグロス王国からの中継基地としてこれらが働いていて、輸送も迅速に行える。さらに言えば包囲している彼らは近くの町村から調達も出来る。領民が差し出すのを拒むのであれば略奪でもなんでもすればいい。奴らが乱取りをしたという事は聞いていないが、追い込まれれば実際に及ぶかもしれん。ならば我らは、奴らがいくらかの方法で食いつなぐ事が出来るという仮定を頭に置いて考えねばなるまい――もういい。楽にしろ」
片膝をついていた状態の若い騎士を立ち上がらせてフェルトハイムは厳しい表情を緩めた。フェルトハイムの話は、しかしまだ終わっていなかった。
「そして我らには援軍は望めない。周辺諸国は傍観を決め込み使者は全て送り返されてしまった。テンシュテット内部の貴族も、戦いを望まない者は全員領地に籠ったままだ。彼らが動く事もないだろう。となれば、我々はここにいる兵力だけで戦わなければならない。どれだけ日を稼ごうとな。この状況で籠城するのは自身の逃げ道を塞ぐに等しく、また敵を打ち倒す時機があったとしてもみすみすそれを逃すことになる。私は野戦を選んだ理由は分かったかな?」
フェルトハイムの言葉に若い騎士は苦虫を噛みつぶしたような顔をして黙した。己の無能さを理解してしまったのだろう。
しかし今で良かったともフェルトハイムは考える。今回は恥をかいただけで済んだ。それがもし敵と槍と剣を交えている時だったなら、無能さを実感した時には彼は血と死の味を噛みしめる事となるだろうから。
「分かったなら下がれ。そしてこれからはもう少し考えて行動することだ」
「最後の一つ」
若い騎士は、フェルトハイムに真っ直ぐ視線を向けた。その目つきは侮辱された事を恨むものでも、自分の無力さを悔やむものでもなかった。ただ、フェルトハイムに何かを期待する目だった。
「フェルトハイム将軍ならば、野戦で敵を打ち負かせられるのですよね?」
フェルトハイムは、先程考えたことを思い返す。
「ああ、勿論だ」
しっかりと、フェルトハイムは頷いた。頷かないわけにはいかなかった。ここで頷かなければ一軍の将足り得なかった。
嘘を吐いた事にフェルトハイムは何の後ろめたさも感じていなかった、というには彼は実直過ぎた。しかし、フェルトハイムの背中はこの一軍全ての兵士の目が集まっている。フェルトハイムの双肩には兵士全員の命が預けられている。その期待に応えないわけにはいかなかった。例えそれが嘘だとしても。
その時遠くから太鼓の音が重く響いてき始めた。それらの数が一つ二つと増えていく。更にラッパの音が加わる。大地からは地鳴りのような音が伝わってくる。
フェルトハイムが視線を戻すと、遠くで赤が揺れ動いていた。今はまだ遠い。が、その距離ですら音は聞こえてくる。
「戦闘だ! 皆に知らせろ! 突撃の合図があるまでは待機。弓兵、弩兵は第一射に備えて構えろ!」
フェルトハイムの言葉に周囲が素早く動く。若い騎士も後方に命令を伝えるために馬に乗って走っていった。
テンシュテット軍の後方にいる弓兵隊と弩兵隊が一斉に矢をつがえ始めた。前線はいつでも突撃出来るように陣形を形作る。その後ろで休んでいた騎馬に乗った兵士達が、持ち場に着こうと慌ただしく動き回っている。
「まだ撃つなよ! 合図があるまで待機だ!」
敵に射るにはまだ距離が遠い。指揮官がその距離を見定めるまで、弓兵達は逸る気持ちを抑えつけて矢を引いた状態で待機する。弩兵達の引き金にかかった指が、震えで引いてしまいそうになる。
永遠に敵が訪れないのかと思える程に長く感じられた時間だった。赤の鎧を来た兵士一人一人が目視できるくらいの距離にまで近付いてきた。それでもフェルトハイムはまだ合図を出さない。
まだ遠い。焦りと緊張で敵が近くに見えているだけだ。実戦経験豊富なフェルトハイムは矢の届く距離を熟知している。今合図しても矢の大半は敵の手前に落ちてしまう事も分かっていた。
どんどん赤の軍勢は距離を詰めてくる。いつの間にか戻ってきてフェルトハイムの隣に馬を寄せてきた若い騎士が、心配そうにこちらを見つめているのをフェルトハイムは横目に見た。しかし、まだだった。
その時、敵の軍勢から鬨の声が上がった。グロス軍が走り出した。一気に距離が縮んでいく。
「撃てぇ!」
合図とともに、フェルトハイムは腕を振り上げた。彼の言葉を周囲の人間も繰り返す。それがどんどん周りに伝わり、やがては後ろにまで伝達される。そして、幾千もの矢が一斉にフェルトハイムの頭上を飛翔していった。
矢嵐は、放物線を描くと敵陣へと見事に降り注ぐ。鬨の声に悲鳴が混じり異様な合唱を作り出した。
「矢を惜しむな! ある分だけ射ってしまえ!」
第一射だけでは終わらない。矢は何度もグロス軍に向けて射かけられた。それを受けたグロス王国軍の先鋒部隊の行軍速度が目に見えて落ちていく。矢に当たって転がった死体が邪魔をして、もしくは矢を防ぐ事に集中して、歩く事を忘れてしまったかのように軍隊は一度動きを止める。
が、しかしテンシュテット軍側の喜びも束の間、グロス王国軍の後方から反撃とばかりに矢の雨が打ち返された。
赤の軍勢の矢がテンシュテット軍を貫いた。フェルトハイムのいる軍の中央までには矢は届いていないが、前線に配置された部隊からあがっている悲鳴の絶叫が届いて、戦場という場所の怖さを後ろにいる者達に伝える。
空を見上げれば、向こうとこちらの矢でまるで夜になったかのように黒に染まっていた。
視線を戻すと、赤の軍勢は進軍を再開していた。当たり前ではあるが、このままお互いに矢を交換しあうだけでは終わらせるつもりはないようだ。
「盾を構えろ! 前線部隊は前へ!」
矢避けのために大盾を頭上に構え、前線部隊が少しずつ前に出る。
その後ろを騎兵隊が守られるように、隠されるように、歩兵の行進に追従する。
敵との距離をジリジリと詰めていき、フェルトハイムはその後方についていき、合図を出すのに適切と思える頃合いを見計らっていた。やがてグロス軍との距離を最初の半分になるまで詰めた。
「撃ち方やめ!」
フェルトハイムの命令が後ろに伝えられ、徐々にテンシュテット側からの矢が飛ばなくなる。
そのタイミングで、
「今だ! 突撃陣形!」
テンシュテット軍の前線で盾を構えていた歩兵部隊が左右に割れるように移動する。
その作られた道を、後方で待機していた騎兵部隊が一気に駆け抜ける。これがフェルトハイムの策であった。
鉄騎が大地を揺るがしながらグロス軍へと迫る。
対するグロス軍は、慌てて長槍部隊を最前線へ投入する。しかしその速度は完璧というには程遠い。騎馬隊が肉薄するのに間に合った部隊は全体から見れば半分にも満たなかっただろう。
騎馬隊と歩兵隊がぶつかり合う。騎馬からも槍衾に阻まれ多数の犠牲を出してしまったが、その突貫力はぶつかったグロス軍に被害を出させ、両軍が衝突した一角が崩れるように押し込まれた。
生き残った騎兵達がさらにそこを抉るように波状攻撃をしかけ、どんどん押し込んでいく。
「それ、敵は崩れたぞ! 突撃ぃ!」
すかさず後方の歩兵部隊にも命令が下る。槍を構えた歩兵達が騎馬隊の左右から吶喊していく。
こうして騎馬が作った一つの穴を、さらに深くしていき敵軍を分断する。上手くいけば後方に待機しているだろう敵将を討ち取り、指揮系統の混乱も狙える。
「我が方の騎馬隊の勢いに押され敵前線、左右に分断されつつあります!」
前線からの報告を受けて、フェルトハイムは深く頷いた。
そこに若い騎士が戻ってくる。
「側面の歩兵隊も奮戦し、鋒矢の騎馬隊の側面への攻撃を防いでおります。敵側はいまだ混乱にあるのか、反撃に勢いがなくこちらの損害は軽微です」
敵の陣中に深く突貫したので敵は左右に分かれてしまっている。分断したといえば聞こえはいいが、上手く対処しなければ側面から包囲されて全滅してしまうだろう。
理想は最初の突撃で騎馬隊が敵の後方まで突き抜けてしまうことだった。そうすれば騎馬隊は敵の後方へと躍り出て、歩兵隊は前、騎馬隊は後ろと挟撃に移ることが出来る。さすればさしもの歴戦のグロス軍とて混乱の極みに達するだろう。それこそがフェルトハイムの描いたテンシュテット軍の勝利の道だった。
「敵の長槍部隊が善戦し、騎馬部隊の損害はかなり出ています」
馬の上から戦場を眺める。報告通りこちら側の突撃は止まっているように見える。
気になるのは敵の槍が出てくるまでの早さだった。相手になるべく悟られないためにわざわざ歩兵で壁を作って犠牲を出しながら敵に近付いたというのに、まるで事前に察知していたかのような速さの対処であった。
否、作戦が筒抜けだったのなら、部隊によって対応の早さがまちまちだったのはおかしい。そもそも知っていたなら反撃で今頃私達は翻弄されているだろう。そうフェルトハイムは判断した。
ということは、突撃を見て対応したに違いない。盾部隊が割れて騎馬隊が見えた瞬間に、即座に槍衾の号令を下す。なんという有能な指揮官がいる部隊だ。改めて敵の強さをこの身で確かめて戦慄する。
敵が対処の準備をする暇を与えない距離、しかし騎馬隊の勢いをしっかりとつけることが出来る距離。フェルトハイムはそれを見極めて突撃の命令を下した。完璧であるという自負もある。ならもう敵を褒めるしかないだろう。
若い騎士は戦闘がすぐ傍で起こっているからか、そわそわした様子でフェルトハイムの顔と戦場を交互に見ている。
「どうします? 敵の後方に突き抜ける作戦は失敗してしまいましたが」
「そうだな」
慌てもせずにフェルトハイムはただ事実を認めた。なんてことはない、失敗することは想定済みだったというだけの話だった。
戦が上手くいかない場合、前線が決壊しそうな場合、敵が動いた場合、いかような場合においても瞬時に援軍を送ることが出来るように部隊はまだ残している。彼らは将軍の指示一つですぐにでも戦闘出来るようになっている。
「だが、このまま攻めたてる。失敗したと言っても敵の陣形を崩すことには成功した。反撃も緩い。上手くいけば――」
喉の奥に小骨が引っかかったような、そんな小さな違和感を覚えてフェルトハイムの言葉はか細く消えていった。
若い騎士がいきなり言葉を切ったフェルトハイムをどうかしたのかと目を向けている。
フェルトハイムはそれには気付かず、どころかここが一瞬戦場であるということすら忘れて考え込んだ。おかしい、そうおかしいのだ。そのことに気が付いて、ばっと顔を上げる。
「前線の敵の様子は!」
「相当数の被害が出ているかと」
「違う! 敵の種類と取っている戦術を聞いておるのだ!」
「はっ! 敵側はこちらの猛攻が予想外だったのか、防御に徹している様子です。通常の部隊の他に目立つのは、長槍と大盾の歩兵くらいでしょうか」
フェルトハイムは周囲を警戒するように見回しながら唸る。
「ぬう……」
「何か気になることでも?」
「グロス軍の強さの一つは、閃光将軍率いる騎馬部隊にある。奴らはどこへ消えた。何故ここまで出てきていない。そして、何故我々はこうも楽に勝っている?」
言われてから若い騎士も気が付いた。自分も懸念していたではないか、と。グロス軍の野戦の強さは先々の戦いですでに証明されている。それなのにここまで呆気なく突撃に成功し、そして反撃も遅い。まさに今、この状況がおかしかった。
「ど、どういうことでしょうか将軍」
「……斥候の報告では向かって来ていた敵の陣営に確かに閃光将軍の旗印を見たのだな?」
「間違いありません。戦闘の直前までその姿を確認しているはずです」
戦場に未だ変化は訪れず、グロス軍はテンシュテット軍の攻撃を防ぐことに専念しているようで、反撃に移ろうという気配はない。
「……こちらの長槍は?」
「敵の初撃が騎馬突撃だったことに備え、前線部隊に多く配備されています」
「一応、前線の指揮に伝えておけ。いつでも長槍を出せるようにとな」
「はっ」
傍に控えた伝令の騎兵が駆けていく。
しかしフェルトハイムの頭にはまだ一抹の不安が残っていた。それが何度可能性を考えても拭いきれずに、頭の中にこびりついて消えてくれない。
「敵の騎馬隊はどこでしょうか」
「私ならば……最初の突撃に使うか、もしくは今頃本陣の後ろで構え、こちらが相手の鉄壁の守備に焦れ疲れたところに、我々と同じように歩兵の後ろから一気に攻め込ませるか」
「ならば前線に長槍の用意をさせておいているのは僥倖だと言えます」
「敵が本気で反撃に転じられていない可能性も一応あるが、それならば我らにとって一番幸運だろうな。このまま戦っていれば勝ちは容易く転がってくるだろう。しかし、それはやはり、楽観視が過ぎるだろう」
どうにも敵が何か一手を講じているような気がして、将軍は足の長さがあっていない椅子に腰を落ち着かせているような、何とも言い難い座り心地の悪さを感じていた。
前線を眺めながら考え続ける。しかし、頭には何も浮かばない。とにかく言葉にしていれば何か思い付くのだというようにフェルトハイムは呟く。
「どうして勝てている? 閃光の名を持つリーマン将軍とその騎兵隊を私は見た事がある。彼らは味方の窮地を見過ごすような無能な部隊ではない。何故姿を見せない。どこに潜んでいる。一体、何故。一体、どこに」
しかし、おかげで開戦前は絶望的だった戦闘に明らかな勝機が見え始めたのも事実。
前線は波状攻撃の末に、見事に敵軍を左右に分断しつつある。このままいけば敵後方までの道が開ける。そうすれば後方に控える大将を討ち取り、流れを完全にこちらに持ち込む事すら可能だ。こちらの被害は少なくないまま勝てるかもしれない。
相変わらず不気味にフェルトハイムを脅かしてくる不安感は拭い去れないまま、しかし勝機を見逃すわけにはいかないとフェルトハイムは頭を軽く左右に振って疑念を吹き飛ばした。
「……よし」
そろそろ疲弊してきただろう前線部隊と、力を残している後方部隊が交代するように指示しようとした時だった。
――ウオォォ‼
主戦場とは別の咆哮から鬨の声が上がる。
それは前線を真っ直ぐ見ていたフェルトハイムから見て、七時の方角だった。
「何事だ!」
「分かりません!」
そちらに向くと、後方からにわかに戦闘音が風に乗って伝わって来て、自軍が乱れているのが目に見えて分かった。
その先の旗印は、遠目で見ても分かる鮮やかな赤を含んでいた。
「こ、後方に敵だと! 一体見張りは何をしていた!」
「そんなはずは……開戦前に周辺の偵察はしっかりと行っております! 伏兵など一兵たりとも潜める場所はなかったはず!」
「とにかく、部隊の統率を戻せ! このままでは挟撃で壊滅だ!」
「将軍、敵が! 前線が!」
後方の奇襲に呼応するように、前線で分断されたグロス軍が、テンシュテット軍を包み込むように広がっていく。
敵を分断して奥へと攻め込むはずが、その分断した敵兵がテンシュテット軍の中央、フェルトハイムのいる本隊のすぐ真横にまで伸びていて、いつの間にか包囲戦に変わっていた。これにより前線と後方だけでなく、左右からも攻撃に晒されてしまっている。
前と後ろ、そして左右。四方向からの同時攻撃。これにはさしもの歴戦の勇である事を密かに誇っていたフェルトハイムの頭も混乱を極めた。
「どうしましょう、将軍!」
「ぐ……!」
考える。自身の混乱を治すために、まず分かっている事から一つ一つ考えて自分に言い聞かせる。
敵が後方から現れて奇襲してきた。それと同時に前の敵も、手勢のいくらかを左右に分けて攻撃を開始した。これによって前線部隊は前と左右から、後方の部隊は後ろから攻撃されている。
一番危ういのは前線部隊。敵に三方向を囲まれては、このままいくと殲滅されてしまいかねない。だが、こういった緊急時に動かすはずだった後方部隊が、後ろから突如現れた軍勢によりやりこめられている。先程まで反撃に転じずに防戦一方だったのは、この時を待っていたのか。あえて劣勢を演じていたのか。
何より一番問題なのは、テンシュテット軍全体が混乱してしまっている事だった。いきなり後方から敵が現れ、左右も囲まれ、将兵ともにどうしたらいいのか分からず目の前しか見えていない。
後方にいきなり現れた敵軍も不気味であるが、フェルトハイムが悟るよりも早く、分断された自軍を纏めあげ左右からの挟撃に成功した前線部隊の指揮官の有能さが恐ろしかった。
まるでフェルトハイム達の行動を予測していて、最初からこうするつもりだったと知っていたかのような、そんな滑らかな統率に加え、先程までこちらに勝機をちらつかせながら時間を稼ぐだけの防戦を可能にしている手腕。フェルトハイムは背筋が凍り付く程の寒気を感じて身震いをした。
敵は怪物。分かり切っていたはずだった。それでもまだ、理解が足りていなかった。
「将軍!」
自分を呼び掛ける声にはっと我に返って、フェルトハイムは叫んだ。
「ええい、敵が包囲しに来たのなら一点突破だ! 包囲のために前線の敵を割いているのならば、前の敵は薄くなっているはずだ!」
「ですが前線はすでに疲弊し突破する力が残っていません!」
若い騎士の言う通りで、前線部隊は長い戦闘によって最早敵の陣を突破する余力は残っておらず、後方にまで伸びて薄くなったはずのグロス軍の前線を抜くことが出来ていない。
いまだグロス軍は堅牢な守りの布陣で前線部隊を押しとどめている。
このままではテンシュテット王国軍は前後左右から挟まれ、進むことも退くことも出来ずに壊滅させられてしまうだろう。
しかし、フェルトハイムはここで果てるのを待つつもりはなかった。
「突撃の笛を鳴らせ! こうなっては指揮も何もない! 各々目の前の敵を打ち破り、包囲網より脱するのだ! 我らの部隊は正面の前線部隊と合流する!」
「しかし後方の味方は……」
「信じる他あるまい!」
このまま何もせず全滅する道を選ぶわけにもいかない。
混乱する後方の味方は、先程まで戦闘に参加していなかった余力を残している兵士達であり、纏め上げれば後方の敵を打ち払うことくらいは出来るだろう。
しかしそうしている間に前線は間違いなく崩壊する。特に前線と後方の中間にいる本隊が後方に行ってしまえば、前線は唯一味方がいて注意する必要のない背後すらも敵兵に囲まれる事になる。そうなれば兵の数も質も疲弊しきっている前線部隊には、希望はない。
ここで前線を壊滅させるわけにはいかなかった。戦いの流れはグロス軍に持っていかれた。あまつさえ数に劣るテンシュテット軍が勝つためには、少しでもその差を埋めるしかない。
左右に伸びている敵の包囲網は将軍のいる軍の中腹辺りにまでしか届いていない。後方の部隊は奇襲してきた騎兵に攻撃を受けているくらいであり、その騎兵の数も少ない。壊滅までには時間がかかる。
ならば、その時間を大いに利用してやろうとフェルトハイムは考えた。後方部隊が耐えてくれている間に、将軍率いる本隊は前線を掩護しに行き、敵の包囲を破った後に部隊を纏めて後方の部隊を救助しに行く。
数で劣るテンシュテットが勝つにはこれしかない。
「そう、これしかないのだ、我々が勝つためには!」
将軍の命令の下、突撃の笛の音が戦場に鳴り響く。
各部隊の指揮官にはその意図はほとんど伝わらない。勿論それだけで末端である兵士達にまでフェルトハイムの考えが伝わるはずもない。
しかし、命令が下された以上、やり遂げるしかない。混乱している頭で、しかし兵士達は目の前で凶刃を振りかざす敵に向けて全力で突撃しに行った。
「本隊はこれより前線部隊との合流を図る! 全体、左右の敵には目もくれず前へ走れ!」
将軍が動けば、その周囲を守る士官が動き、更にその周囲にいる兵士達が動くにつれ大部分の者達が将軍の後を追うように動き出した。
まるで一個の生命体のように、本隊は前へ向いて駆け抜ける。
ほとんど先頭と言える程の前方で先陣を切って部隊の指揮を取る将軍は、前線で戦っていた味方の背中に追いつく。しかしその時にはすでにこちらの兵士達の士気は地を這うくらいに落ち込んでいた。
敵の思わぬ反撃に混乱する味方はいつまでたっても救援も来ず、疲弊しきった体ではいまだ守りの構えを崩さない目の前の敵を倒すことも出来ない。その状況で味方は、目の前の敵を倒してやろうという意気さえも失いかけているようにフェルトハイムの目に映った。
危うい所だった。フェルトハイムは腹に力を籠めて息を吸い、そして叫ぶ。
「フェルトハイム率いる本隊、前線部隊の援軍に参った! これより敵の包囲網の突破する! 騎兵隊、歩兵隊、ともにもう一度奮起せよ!」
遅れて駆けつけた本隊の面々を見て、消えかけていた希望の光を力に、彼らはもう一歩前へ踏み出す。もう一度猛々しい声を響かせる胆力が湧いて出てくる。槍を握る腕にも力が入る。
遅れて駆けつけた本隊の面々を見て、消えかけていた希望の光を力に、彼らはもう一歩前へ踏み出す。もう一度猛々しい声を響かせる胆力が湧いて出てくる。槍を握る腕にも力が入る。
地を揺るがす馬の蹄の音、腹の底にまで響き渡る太鼓の音、空に透き通る喇叭の音が彼らの勇気を奮い立たせた。
一人が加わるようにして声をあげる。それは広い戦場では簡単に掻き消されてしまう程の力しかない。しかし隣の兵士がそれに加わり、その隣が、そのまた隣が、そして大勢が腹の底から声を出す。それらは巨大な音になり、気力を十分に漲らせる。
「反撃に怯むなっ! テンシュテット王国軍の強さ、思い知らせてやれ!」
ここに来てもう一度勢いを増してきたテンシュテット軍に、グロス軍は流石の守備を崩し始める。
最初の突撃で楔は打ちこんでいた。グロス軍の前線部隊はそれでも耐えきっていたのだが、ずっと戦い続けて疲労していた前線に、フェルトハイム将軍の部隊の後押しをかけた。よって、ついにその防衛線が突き破られる。
その先に見えたのは、グロス軍の旗を掲げる一つの部隊。数は多くこの事態を見ても動じることなくその場に鎮座している。しかし周囲に他の部隊の姿は見えない。
どうやらグロスの軍勢は、包囲網を形成するのに思った以上の部隊を動かしていたようだ。この場に限ればテンシュテット軍とグロス軍、ほとんど数差はなかった。
「これは思わぬ好機、敵の大将首を取ってしまえばこの戦い自体を終わらせられるやもしれん!」
将軍は手の届く距離にまで近付いた勝利の鍵を掴むべく、一際大きな声で命じる。
「前方の部隊へ突撃せよ! あれこそが敵の本隊、敵の王のいる部隊よ! 見事討ち取ったものには三代かけても使いきれぬ報酬が得られよう! さぁ、この戦争に終止符を! 我らの手で打つのだ!」
「そうだ! 勝つぞ! 勝つぞぉ!」
ずっとフェルトハイムの後ろについてきている若い騎士も叫ぶ。
テンシュテットの兵士達に太鼓が鳴り、笛の音が響く。命令を伝えるために馬があちこちに走り、それを聞いた部隊から一気に前方へ襲い掛かる。
グロス軍の本陣らしきそれを迎え撃つように兵士を横に展開させた。
「出るぞ!」
「将軍! 何も自ら出なくとも――」
「何を言う! ここで前に立たなくていつ戦うというのだ!」
目の前の騎士を叩き斬らんばかりにフェルトハイムは剣を勢いよく抜いた。
「敵の大将の首級が目の前にあるのだ! 全員、ついてまいれ!」
馬に鞭打ち前へと駆け出すフェルトハイム。その後ろ姿を他の者達が追いかけた。将軍一人を置いていくわけにはいかない、と皆が足と腕に力を籠める。
開戦時よりも勢い盛んではないかというほどの突撃は、天を衝くほどの鬨とともにグロス軍へと叩きつけられた。
数は変わらねど、決死の勇で勢いの勝るテンシュテット軍がグロス軍の陣形をひしゃげさせていく。
対するグロス軍も、テンシュテット側の突撃に合わせて素早く兵士達を方円形に展開させていたおかげで、形自体は少々崩されたものの陣形全体としての機能はまだ保たれていた。
フェルトハイム将軍は最前線で兵士達を鼓舞し、指揮を取りながら自らも馬を操り、数多の敵を倒していった。彼の周りには常に味方が駆けつけ、フェルトハイムの勢いを殺さないように支援しながら彼の死角を守っていた。
瞬く間に戦場に新たな屍山血河が築かれ双方ともに甚大な被害を負うが、そのような激戦の中でフェルトハイム将軍の目に一際目立つ兵士の集団を見つけた。
方円の内側に守られるようにして存在し、一般兵とは異なる武装を持ち旗にはグロス王国の王族を示すように山羊の頭には金の王冠が大きく飾られている。
王だ、あれこそ王のいる部隊に違いない。フェルトハイムはその旗を剣で差した。
「あれだ、あの部隊を獲れ!」
すかさず味方にその情報を伝達させる。ここさえ踏ん張れば勝てる――テンシュテット軍はそれぞれグロス軍の王目掛けて突っ込んだ。
だがしかし、グロス軍はそれを真っ向から迎撃する。
「むぅ!」
兵士達が敵の王の部隊へと殺到するものの、相手の兵士一人一人の強さが尋常ではなかった。歴戦の勇兵、グロス王国軍に関する噂をそのまま形にしたように全員がこの状況においても迷いなく、隣の味方と連係しあいながらテンシュテット軍の一陣を蹴散らしていく。
「将軍!」
先頭近くにいたフェルトハイムの所にまで敵兵が攻めより、彼を凶刃から守ろうと若い騎士が矢面に飛び出した。フェルトハイムの周囲は味方で埋め尽くされるが、敵はそれを感じ取るや否やすぐに引く。そのまま乱戦へともつれ込めば反撃の仕様もあるというのに、敵はあくまで守備の陣形を崩さない。
見事な手並みは、王族を守る兵士ならば格式だけのお飾りではないかとフェルトハイムが一瞬抱いた淡い期待を粉々に打ち砕く。
突撃しているはずのテンシュテット軍の方が被害は大きいくらいだった。
「騎馬部隊、攻めたてよ! 敵歩兵を踏み潰せ!」
騎兵隊へ再三の突撃命令。もう幾度となく矢面に立たされた彼らは生き残りの数は少ない。それもほとんどが負傷している。
しかし、それでも血に染まった馬の首を敵に向けさせ、大盾構える敵に向けて突進する。いくら強いといえど騎兵の突撃を受ければ歩兵はひとたまりもない。
一人目が大盾とぶつかろうとした時だった。
重苦しい音が耳に届くような程の衝撃的な光景。盾の後ろから人の頭の二倍ほどもある大きな斧が馬の頭を砕くようにして斬る。たまらず騎手は地面に投げ出されてしまう。
「……あれは」
戦場に現れたのは、同じ赤銅色の鎧の中でも一際大きな鎧。
肩に担がれたのは槍のように柄が長く巨大な戦斧、ハルバードと呼ばれる武器。斧である刃の部分が通常のハルバードよりも厚く大きく、重量は相当なものであるように見える。
しかしその巨漢の男は、まるで普通の斧を担ぐように悠然と現れた。その姿を見てフェルトハイム将軍は息を呑む。フェルトハイムだけではない、馬を操っていた騎士も眼前に現れた男に驚きで馬を止めてしまう。
「くっ…! 弓でも槍でも良い、あの大斧を持つ男を狙えっ!」
混戦の中、槍を持つ兵士達がそのハルバードを持つ男に向かっていく。
しかし、男が悠々とそのハルバードを一気に頭上に振り上げた瞬間、槍を突き刺そうとしていた兵士達が臆して足を止めた。
その瞬間に周囲のグロス軍が躍り掛かる。さらに、ハルバードを頭上に掲げたままその男も走り始めた。
鉄塊を所持しているとは思えない程の速い動き。動揺するテンシュテット軍に対して容赦なくそれが振り下ろされ、地面ごと兵士を砕く。
まずい、とフェルトハイムは呟いた。その時、ハルバードを地面から持ち上げていた男の兜が、将軍の方へ向いた。
兜の奥の刃のような目がこちらの視線とぶつかった。
そんな気がした。
勘違いだと思いたかったが、そう自身が感じてしまったのなら最早逃げるわけにはいかない。
それが武人として、フェルトハイムの骨の髄まで叩き込まれた流儀だ。
(武神マルティンよ、私を試そうと申されるのか)
「どけっ!」
馬を駆り、敵味方をかき分けてその男のいる場所へと向かう。笛の音を鳴らした。それは甲高く、遠くの者には掻き消されて聞こえないのではないかと思えるくらいの細さだったが、しかし周囲の味方にはそれが何を意味するのか理解できるくらいには伝わっていた。
それが最初から分かっていたかのように、相手も自身の周囲から味方を少し遠ざけるように手を横に突き出して誰も前に出ないように指示していた。
二人がその声が届く範囲まで近付いて向き合った時には、すでに周囲から敵も味方も離れていて二人だけがその場に立っていた。
まだ遠くからは戦いの喧騒が聞こえてくる。しかし周囲にいる両軍の兵士達は、この二人の一挙一動を見逃すまいとするように立ち尽くしていた。
「逃げずに来たか」
「無論だ。武人としてマルティンの教えに背くわけにはいかない――名乗らせて頂こう」
鐙から足を外し、相手と同じ戦場に降り立ったフェルトハイム。
兜は取らない。ここはまだ戦場だからだ。相手もそれを知っているので同じように兜をつけ、ハルバードを持ったまま会話している。
すでに血に染まっている剣を掲げていまだ喧騒の戦場に高らかに名乗り上げる。
「テンシュテット王国将軍筆頭、ダリス・フォン・フェルトハイム! テンシュテット王より命を受け、グロスの軍勢を討ち取りに参った! 名も知らぬ将よ、一騎打ちを所望す!」
「いいだろう、このロルフ・テオ・グロスがその勝負受けて立つ!」
その名前を聞いて将軍の顔が歪む。
喜びではなく苦々しさを思わせる顔であり、やはりと呟くとフェルトハイムはロルフという男に尋ねた。
「貴公が、グロス王か」
ハルバートを構えた男は小さく頷いた。
「しかし、王自らが前に出、こうして一騎打ちに応じるなど……」
「予想外だったか?」
「いや、噂は聞いていた」
「ほう、噂とな?」
「王にして類まれな武芸の才覚を持ち、巨大なハルバードを巧みに扱い敵兵を頭から打ち砕くという」
馬鹿げた噂だと思っていた。王族が前線に立ち、危険な武器を振り回しているというのだ。フェルトハイムはその話を聞いた時、鼻で笑ったくらいだった。こうして現実に出会うなどと思ってもいなかった。
「本当にただの名も知らぬ将であるならば、戦争を重視してここには来なかった。しかし武名の名高いグロス王となると話は別。こうして戦場で目が合った以上、私としても出向かざるを得ない。しかし、王である人物がこうして一騎打ちに応じるとは、それこそ予想外だった」
「王ではあるかどうかなど……関係ないだろう。俺は根っから戦闘好きだ。一騎打ちを所望して何が悪い」
フェルトハイムは眉を潜めた。どうにも王と相対しているというよりは街のゴロツキを相手にしているような口調。グロス王だという言葉を疑いたくなってきていた。しかし、神聖な決闘の場で相手を疑うなど論外だ。そんな事をして勝ったところで、その王国に未来はない。
それは目の前の男もよく分かっているはずだ。そう考えて、首を左右に軽く振り、これからの闘いにおいて邪魔になる雑念を振り払う。
「なんにせよ、早く終わらそう。まだ戦争は終わっていないのだから」
「その前に、こうして戦場で長話をしているのは、そして俺がこうしてはるばる出てきたのには理由がある」
「なに?」
「勧誘しに来た」
「勧誘だと?」
予想外の言葉にフェルトハイムは思わず剣を握る手を緩めてしまった。
「最初の騎馬隊による攻撃、その後の後方からの支援、さらに今の包囲網の突破――見事だった。特に最後の攻撃はこちらの想定を上回る事態だ。俺はそれを引き出した貴公の、将軍としての力量を買う。どうだ、グロス軍でその才覚を発揮してみる気はないか?」
「……何を言うかと思えば、世迷言を」
手が震えていた。
フェルトハイムはそれを抑えようともせず、緩めていた手に力を籠める。
「私はテンシュテット王国の将軍筆頭である。そのような恥知らずな取引に応じるとでも思ったか!」
顔を赤くしながらフェルトハイム将軍が剣を構え直す。まだ終わってもいない戦闘中に、しかもこれから一騎打ちをしようというのにそのような取引を仕掛けてくること自体侮辱だと思えた。名誉が汚された気がした。
フェルトハイムは最早話し合いの余地はない、と言わんばかりにロルフへと走り出す。すでにお互いに武器を構え、名乗りも終えている。だからこれは不意打ちなどではなく、単に開始の合図だった。
「なら、その理由となるものを潰してやればいいか。もっとも――」
――貴公が生きていればの話だが。
唇が動きを止めると同時にハルバードが構えられる。
赤銅色の鎧の下から轟いた獣のような咆哮とともに、ロルフが動いた。刃のような眼光が、戦場を切り裂いた。
「――っ⁉」
フェルトハイムはロルフまであと五歩といった所まで距離を詰めていた。
その五歩の内四歩を、ロルフが詰めた。
「ばっ――」
馬鹿な、とたじろぐ。重いハルバードを持っているはずのロルフは第一歩から異常な加速を見せていた。しかし、次に繰り出された横薙ぎの攻撃に対応できない程、将軍の武人としての思考は生を放棄してはいなかった。
剣を斜めに構え、滑らせるようにして首を狙う戦斧の薙ぎを上に受け流そうとする。
切っ先は頭上の方へと傾けられ、剣を持つ方の手とは逆の手の甲で剣の腹を押さえ支えを作る。ハルバードの利点をフェルトハイムも知っている。その重さから繰り出される一撃は、敵を防御ごと打ち砕くことが出来る。ならば腕一本や二本ではなく、体全体でそれを受け止め、いや流せばいい。
フェルトハイム将軍の狙い通りロルフが放った一撃はフェルトハイムの剣の腹に接触して、火花を散らした。斜めの剣の上を滑るようにハルバードの刃は流れ、虚空を斬る。しかし互いの武器が接触した時の衝撃で、フェルトハイムは体勢が崩された。
フェルトハイムがこれまで味わったことのあるどのような一撃よりも、この攻撃はフェルトハイムの頭の頂から足の裏までを震わせる力強さを持っていた。手が痺れ、足が竦む。なんとかその場に踏ん張ろうとする、それだけに意識が持っていかれる。
一方でロルフは、流された勢いを殺そうとしなかった。空を斬ったハルバードの遠心力をそのままに一回転、そして再度同じような軌跡で横薙ぎに強烈な一撃を実現させようとする。
慌ててフェルトハイムが剣を構え直すが、逆の手による支えを作るのが間に合わない。
激しい金属音がもう一度戦場に打ち鳴らされる。
辛うじて、胴を真っ二つにされたり首を落とされたりすることはなかったものの、片手だけでハルバードの衝撃を捌ききろうとし、成功はしたものの剣を持つ手が衝撃で完全に痺れた。
一方、ロルフは肩の上でハルバードの柄を担ぐようにして動きを一度制止させ、今度は頭上からハルバードを振り下ろす。
澱みも迷いもない、先程勧誘しに来たとは思えない程の明確な殺意ある攻撃。重いハルバードの自重を乗せた一撃。それを痺れた手で受け止めるには無理があった。
相手の攻撃に対して剣を打ち付けることは出来たものの、フェルトハイムの剣は呆気なく弾き飛ばされる。鎧は重厚なハルバードの刃を前に本来の役目を果たさず音を立てて壊れた。
フェルトハイム将軍は打ち付けられた衝撃で地面を転がる。体の正面からまるで熱した鉄棒を押し付けられたような痛みが襲う。
「がっ――ぐっ……!」
「っふー……勝ちだな、俺の」
多少肩で息をしているがロルフは余裕の声色で勝利宣言を下す。それに対してフェルトハイムは何も言えない。
立ち上がろうとするが、痛みから来る足の震えにより片膝立ちで動きが止まった。
ハルバードの一撃による傷口は肩から胸にかけてある。その傷自体は、寸前で情けをかけられたのかそれ程深くはなかった。
しかし砕けた鎧の破片が肉体に食い込むようにして更に裂傷を作り、見るに堪えない、むごたらしい傷を複数拵えている。すぐに止血しなければほどなくして死んでしまうだろう。
それでもフェルトハイムは立ち上がれないわけではなかった。無理をすれば立ち上がれただろう。そして剣を握り、ロルフに打ち付けるくらいの事は出来ただろう。しかし立ち上がったところで自身に勝機があるとは将軍は思えなかった。
先程の万全の状態ですらロルフの動きは自身を上回っていた。浅くない怪我をした今、勝ち目は千に一つもない。
だからこそ、立ち上がることが出来ずにいた。悟ってしまったその瞬間から武人として、フェルトハイムはロルフに負けたのだ。
ロルフが誇るように血濡れたハルバードを掲げると、グロス軍から大きな歓声が上がりテンシュテット軍は明らかに混乱と動揺を見せ始める。
ロルフが近付いてきた自軍の兵士達に手で将軍を示すと、
「確保しろ」
「……殺せ。生きていても恥を晒すだけなら、いっそ殺してくれ」
「まだ生き残っているのは貴公の才覚があってこそだろう。俺はそれを買っているのに殺すわけがないだろう。死にたければ勝手に死ね」
「戦いの中で死なせてくれんというのか……武人なら分かるだろう。戦場で自刃など……恥を残すだけだ」
「その気持ち、十二分に理解できる。が、俺はそれを望まない。戦いが終わってまだ死にたいと言うのであれば、その時は反逆する者諸共処刑してくれよう。ただ今は、俺にとってお前を生かしておく方が良い。勝者の特権として命令してやる。死ぬな」
「……」
将軍は兵士に挟まれるようにして立たされ、グロス軍の後方へと移される。
ロルフはそれを少しの間見送り、そしてまた戦場へと目を戻した時にはすでに大勢は決していた。
どちらが勝っているかなど、言うまでもない。




