第9話 金雀枝を植える娘
朝、いつものように登校したら下駄箱の中に一通の手紙が入っていた。
僕は誰にも見られないように素早く手紙をズボンのポッケに突っ込んで、トイレの個室に超特急で直行する。
個室に入り、鍵をかけ、手紙をまじまじと見る。その手紙はご丁寧に封蝋で封緘されており、さらにほんのりと芳しい花の薫りを纏っていた。紋章を見る。「オリーブの苗を持ち、月桂冠戴くヘルメス」がこちらを覗いている。
手紙を開封する。フワッと花の薫りがあたりに広がる。花畑のただなかにいるみたいだ。
手紙の内容は、ただひとこと流麗な筆致で綴られていた。
朝、校舎裏にてお待ちしております。
来るべきという近接した未来をそこはかとなく匂わせていた兆候が、現実に定位したというべきなのだろうか?僕は、これが超現実なのかと身をもって理解した気分だった。それは丁度、誰かに叱られているとき、妙に叱られるまでの一連の物事がくっきりと客観的に見え、相手への理屈っぽい反駁と自己弁護的な自省が脳内に駆け巡るのと同じ感じであった。
僕は個室を出て、姿見鏡の前で身だしなみを最低限整えて、とりあえず僕は校舎裏へ足を運ぶこととする。
僕が校舎裏に着いたときにはすでに一人の女の子がそこにいた。見間違えはしない、科学帝国の領袖金雀枝アンリだ。見たところ従者の一人も連れていないようだった。
彼女のそわそわと落ち着かない雰囲気が遠くからでもありありと伝わってきた。
僕を見るや彼女はゆっくりと僕の方へ歩んでくる。予感しつつも、いざその時に出くわすと胸の鼓動は緊張で震える。唾を必死に嚥下しようもするがうまくいかない。口腔に絡みつく。そうやってどぎまぎしつつその瞬間を待つ。
彼女は立ち止まり、ひと呼吸おいて、顔をあげ、眼を見据える。
お互い視線を逸らさない。あらゆる景色が綺麗に視界の焦点からボンヤリと遊離して、空気遠近法の遠景へと朧げに変転する。音そのものが徐々に濃くなる空間の霞のなかに幽閉されて、沈黙に転調する。
「一度このようなことをやってみたかったのです」
はにかむ彼女の整ったかんばせしか見えない。瞳は……真っ直ぐ、迷いなく僕を見つめ、語ろうとしていた。
「お気づきかと思いますが……あ、あの……そうですね、き、緊張しますね、お、思ってたよりずっと。え、その……わ、わたしはあなた様をお慕いしております」
言葉に詰まりながらも彼女は、僕に自分自身の素直な気持ちを伝えた。彼女の心地の良い声音が耳朶に沁み込む。はぁ、わたしちゃんといえましたと彼女がホッと安堵する。おかしいぐらいに僕の心臓の鼓動が速くなる。人生で初めて愛の告白をされた。その事実はたとい盛大な前振りがあっても、確たる予感があっても、いざその時を迎えると言いようも得ない琴線の震えが、感情の鳴動を胸腔にこだまさせ、その調べが僕の脳髄にまで伝導し、思考を打ち震わせる。
「え、あ、その………」
痺れる思惟から何とか響き渡る胸の音を聲にしようと、しどろもどろに口を彷徨い歩かせている僕を彼女は制止する。
「お返事は……まだ結構ですわ。しっかりと考えて、考えた上でお返事をしてくださいませ。待っていますから……」
彼女はではまた後ほどと小走りして行ってしまった。僕は口から間の抜けた情けない喘ぎのような声を、走り去る彼女の後ろ姿に向けて漏れ出させることしかできなかった。
告白イベントという、学園モノにありがちながらも人生ノート青春の項の一頁に絶対に書き留められるべきことが僕の身にふいに起こったとしても、主君より封を授封された騎士たる僕は、文芸部印刷室であいも変わらず印刷請負業務に勤しんでいた。
すると「首尾はどうかしら?」と襲ユリが珍しく顔を出した。
「生徒会の仕事は?」
「そこまで急ぎではないし、楽なものしかなかったから早苗ちゃんたちにお願いしちゃったわ」
楽なものしかなかったと彼女はいっているが、どうせ生徒会証書なり生徒会領での仲裁裁定に係る判決文といった行政文書作成を書くのがダルいからあとは宜しくと丸投げしたのだろう。ひーこら言っている先輩達の姿が目に浮かぶ。ご愁傷様です。心の中で合掌する。
「そ、れ、よ、り——」
彼女はニヤニヤと邪な笑みを見せながら僕に詰め寄る。嫌な予感しかしない。僕は印刷機の方に顔を背けて無視を決め込むことにした。だが、彼女は僕のそのような態度に関係なく話し出す。
「今朝、金雀枝アンリに告られたようねぇ。よっ、色男!」
僕は首が捻じ切れんばかりの勢いで彼女の方を向き、「……どこからその情報を?」と唸る。彼女はさぁ?覚えていないわと戯ける。
僕はキッと睨みつけて糾弾の意思を見せると、初めの方はどこ吹く風と飄々としていたが、しばらくすると耐えられなくなってか彼女はやれやれと観念し白状した。
「アンリ本人から言われたの、あなたに告白したってね。それと、こうも言われたわ」
襲ユリは一呼吸おいて、「『史部様をお慕いしているからといって、あなた方に与したわけではございませんことを重々承知して下さいませ』」と手で口を隠しながら、気品のある落ち着いた口ぶりで語を継いだ。どうやら金雀枝アンリの喋り方というよりは、お嬢様キャラにありげな喋り方というものに似せようとしたらしい。
彼女は言い終えても同じ仕草をしたままである。どうやら僕のツッコミ待ちのようだ。しかし、僕はそれに敢えて乗らない。ちょっとした意趣返しだ。恨むなよ?
「……なんか言いなさいよ。ちょっと恥ずかしいじゃない」
何も言わずにただ黙って彼女をじっと見ていると、彼女照れ気味にそう言った。意外と早くギブアップしたな。ふふ、我慢比べは僕の勝ちだ。小気味が良い。
「廷臣たる僕には助言の義務がありますから、おいたが過ぎる主君は諌めなくては」
「あなた良い性格してるわねぇ、さっきのこと根に持ってるでしょ?言っとくけど謝らないわよ」
互いに演技めいた非難の眼差しを向けるが、やがて堪えきれなくなって二人とも吹き出す。可笑しなことなんて何ひとつない。けれどもこうして何気ないことで彼女と笑い合えることを正に水魚の交わりと言うのだろう。
ひとしきり笑った後、彼女は真剣な面持ちをして僕に諭す。
「気をつけなさいよ。ああいう手合いは男を拐かす魔性を持つ。下手に関われば破滅するわ」
朝、告白してきた金雀枝の娘の姿を思い浮かべる。素直に自分への好意を伝えてくれた人に、ひょっとかしたら恋愛感情以上に政略のような何某かの企み、裏があると、もしかしたらそもそもそのような甘く淡い感情なんか何一つ持ち合わせていなく、僕の戸惑う姿を鑑賞して嘲り嗤うような悪感情があると考えることに僕にはどうしても躊躇いを覚えた。それは人の気持ちに、性善とか性悪とかを持ち込むそれ以前のことのように感じたのだ。頭の中の彼女が僕に微笑みかける。
さて、ここでついでに金雀枝アンリについて語るとしよう。彼女は化学部、地学部、自然科学部、天体観測部、古生物研究部、理科実験部、先進技術研究部、情報工学部、数理研究部の九つの伯の位を持ち、百名を超える家臣を抱え、学園最大の版図を持つ諸侯であり、彼女のその権勢は科学帝国と称されるまでであった。更に、彼女は仏暁学園の生徒であるが、姉妹校である英明学院高校に交換生徒として一年間通学していた際同校生徒会長に就任していた関係もあって彼女の影響力はそちらにも及んでいた。
そして極めつけに、彼女は日本屈指の巨大総合物流企業の金雀枝運輸を中核とする金雀枝グループの創業家の令嬢であり、彼女の家は政財界との繋がりも深く方々に顔がきくという。また、彼女の祖父はグループの会長を務めた後国鉄総裁に就任してからは、運輸逓信大臣に任じられており、父親はグループの代表取締役社長にして全日本自動貨車協会会長である。
なんだよその取ってつけたような金持ちキャラ設定はと突っ込みたくなるが、そもそもの話として仏曉学園のような地方の私立進学校は往々にして生徒の実家が太いことが多い。医者の子だとか地主の子だとかがザラにある。語ってはいないが、物部先輩たちの生家だってこの辺りでは名の知れた家ばかりである。なぜ私立進学校に金持ちは集まるのであろうか?それは地方の名士やミドルアッパークラスにとって、高等教育への進学のある種のモデルコースとなっているからである。そして、地方私立進学校特有の同期会、同窓会の縦と横の繋がりは求める限り持続し、メンバーシップでさえあればいつでも参入し名乗ることができる。そうした繋がりは人生のふとしたとき、特に高校のお膝元の都市にいるとき、狙って当てにしてもしなくても、最終的には自分を善き方向へと結果的に導くものである。そのような縁は親から子、子から孫へと学園生活という青春の素晴らしき思い出の一頁の記憶を世代を超えて、まるで八ミリフィルムに映写されたホームドラマのように懐古と慣習の様相を帯びて、ドラマチックに受け継がれる。それはまさに家と家族とを撚り合わせ、紡がれる糸であり、そして学園にて築かれた縁故という生徒と生徒との交わりすなわち家と家との交流が永代に編み込まれ続ける織物は、レジメンタルに地方の柄を表象し、また地方を包摂するのだ。
「僕は……彼女をそんな人だとは思わないけどなぁ」
「色香に誘われ惑わされる雄は、自分が惑っていることに無自覚なものよ。そういうものよ」
「そうかなぁ……」「そうよ」
彼女の僕に見せたあの顔、表情、恥じらいながらもそれでも自分の感じた胸の高鳴りトキメキというものを僕に伝えてくれた、あの信念——恋をしているという自覚——に満ちた瞳が、僕に尚も語りかける。朝の言葉を繰り返し、繰り返し……
襲ユリは、僕を見て少しきまりが悪そうに「少し悪く言い過ぎたわ」と言った。「あなたがそこまで真剣に考えているのなら、わたしがどうこう言うのは野暮ってものね。まぁたといそうだとしても、良かったじゃない。彼女との縁ができることは。悪いことなんて何一つないでしょう?」
「そうだ、そうだとも。それくらいは分かっているさ。いやでも……」
僕は懸念する。色々なことを、これから起こり得ることを。まだ僕は彼女に何も告げていないのに、彼女への気持ちをしっかりと自分のなかで諒解しているわけではないのに、おそらくあらゆる物事が進んでいく。そのことに覚悟が持てるほどの状態ではなかったのだ。どれだけ想いを告げられることが予見されていたとしても。
「あら?歯切れ悪いじゃない。あなたのお家と彼女のお家とは何もないでしょう?」
「それはそうだけど……色々大変なんですよ。家と家との関わりってやつは。分かります?」
「なんか嫌味に聞こえるわ。慣れたつもりだけどそれでも根っこのほうでは慣れないわ。これだからまったく……」
彼女は渋い顔を見せた。
放課後、「さて、巡察に行くわよ。ついてらっしゃい!」と襲ユリは意気軒昂に掛け声をかける。
中世の宮廷が領内を旅して統治をしていたように、僕たち生徒会もまた校内を巡行をして諸々の裁定を各地で下す。
襲ユリを先頭に物部、大伴、中臣の諸先輩方、僕、先の戦いで封土を賜り一領主となった襲ユリ子飼いの不良グループたちの順で渡り廊下を進む。襲ユリは高らかに鼻歌まじりに歩いている。対して仕事を丸投げされた先輩方の歩く後姿には、疲労感が端々に感じられた。
すると進行方向の先から示し合わせたかのように科学帝国の巡察団がやって来た。嚮導しているのはやはり金雀枝アンリだった。僕は咄嗟に正面から視線を背けてしまった。
お互い姿をみとめているようだが、無遠慮に脚を緩めることなく突き進む。
整然とした集団がぶつかることなくすれ違う。いつかドラマで見た教授回診のあの劇的なワンシーンみたいだ。
僕の前を金雀枝アンリ、彼女が通り過ぎたのは、瞬きする間もないほどの刹那の時だった。僕はおっかなびっくりに彼女をちらとみた。しかし驚くべきことに、僕の眼には彼女の姿はコマ送りのように、一フレームずつがそれぞれ独立していながらも、ひとつの今もなお進行する動作として矛盾なく、そして印象的に映ったのだ。完了形的な余韻がじんわりとほのかに心に残る。
そして、彼女はその時、その瞬刻の間に僕を流し目で見ると、すれ違いざまに可憐にウインクをしてみせた。
スローモーションで流れる黒髪と暗号通信をしているような誰にも分からないような隠された親密さは僕の心を激しく揺さぶった。
動悸が感性と共鳴し、増幅していた。あれはあざといとか可愛いなんてものではなかった。思わず感じざるを得ない異性へのトキメキというものを、僕は必死に掻き消そうとする。
そのときを思い返すたび、僕は改めて思う。あの瞬間のあのひとときの彼女の瞳が、僕を決したのだと。
その後の巡察のことなんて、その日何一つ覚えていなかった。




