俺の先生は、ちょっと面倒で優しい
夜も更け、桜の花びらがひらひらと舞う中、宴は静かに幕を下ろした。
柚瑠の屋敷の庭には、使い終わった食器や空いた酒瓶の名残がある。けれど、それさえもどこか穏やかで、満ち足りた時間の証のようだった。
律は後片付けの最中も、時おり柚瑠の顔を見ては照れ笑いを浮かべ、柚瑠はそんな律をからかいながらも、誰より優しい手つきで寄り添っていた。
そして庭の隅、まだ桜の木の下で並んで座る因幡と黒川の姿がある。
「……先生、帰るぞ。酔い、覚めました?」
「ん、もう少しだけ……この風の匂い、君といるときに嗅いでおきたい」
「……ほんと、酔ってんな」
ため息をつきながら、黒川はそっと因幡の手を取る。つないだ手の温もりが、静かな夜の空気にしっかりと馴染んでいた。
――過去は消えない。傷も、簡単には癒えない。
それでも、こうして春が来るたびに、少しずつ心はほどけていくのだろう。
手をつなぐことで、言葉にしなくても伝えられるものがある。誰かと笑い合うことで、痛みが小さくなることもある。
この桜の夜が、きっとそれを教えてくれた。
ひとひらの花びらが、黒川の肩に落ちる。
因幡がそれをそっと指先で払った。
因幡の指先が肩に触れた瞬間、黒川は小さく息を呑んだ。
ほんの些細な仕草なのに、そこに滲む温度が、いつもよりずっとやさしい。
それを見て、因幡がふっと笑った。
「どうした? そんな顔して」
「……いや、なんでもないっす。ただ……先生って、ほんと面倒だなって思って」
「面倒?」
「はい。勝手に無茶するし、人の心配より他人の心ばっか見てるし。なのに、時々こうやって平気な顔で優しいこと言う」
黒川の言葉は呆れたようでいて、どこか温かかった。
因幡は少し首をかしげ、夜空を見上げた。
「……そうか。面倒で、優しい、か。君に言われると妙に響くな」
「事実ですよ。俺、もう慣れましたけど」
花びらが二人の肩にまたひとつ落ちる。
黒川は指先でそれを拾い、掌の上でそっと眺めた。
「でも、まあ……俺、そんな先生が結構好きです」
声は小さく、夜風に混じってほとんど溶けてしまいそうだった。
けれど因幡の耳には、ちゃんと届いていた。
視線が合う。目の奥で、静かな光が揺れる。
「君も、なかなか面倒で、優しいよ」
「……は?」
「俺に付き合ってくれて、こうして隣にいてくれる。それだけで十分すぎるほど」
黒川は照れくさそうに目を逸らし、肩をすくめた。
「……ほんと、そういうとこですよ。だから面倒なんだって」
因幡は微笑んだまま、彼の手を軽く握り返す。
その手のひらには、確かに“ここにいる”という実感が宿っていた。
風が静かに桜を揺らす。
花びらがひとひら、ふたりの間を横切って落ちる。
――俺の先生は、ちょっと面倒で、優しい。
だからこそ、きっとこの先も離れられない。
黒川は空を見上げて、そっと息を吐いた。
その横で、因幡が同じように夜空を仰ぐ。
桜の花が散っても、ふたりの手は離れなかった。
やがて風が止み、春の夜が穏やかに彼らを包み込んでいった。




