フィクションかどうかは秘密
午後の光が差し込む因幡歩人の仕事部屋。部屋の隅に置かれた加湿器から静かに白い蒸気が上がり、整然とした机の上にはノートパソコンと数冊の参考資料、そして書きかけの原稿。
「……差し入れ、持ってきました」
黒川才斗がそっと扉をノックし、手にした紙袋を掲げる。中には、因幡が以前「好き」と言っていた季節限定のいちごモンブランと、ほんのり洋酒が香る大人向けのガトーショコラが入っていた。
「……おお、ありがとう。ナイスタイミング。脳みそが糖を欲してたところだ」
パソコンから目を離し、因幡が小さく笑う。黒川は静かに机の隣へ腰を下ろし、開封したケーキの箱を因幡の方に向ける。ふと、視線が因幡の指先とディスプレイに吸い寄せられた。
「……先生、執筆中のこのシーンって……」
「ん?」
「……恋人に後ろから抱きしめられて、名前を呼ばれる場面、ですよね。……すごくリアルというか、臨場感あって……」
「はは、ありがと。でもまあ、プロとしてはそう感じてもらえたら成功かな」
「……その、失礼だったらすみません。でも……先生って、そういう恋愛経験も豊富なんですか?」
突然の質問に、因幡は口にした紅茶を吹きかけそうになった。
「っぶは……な、なに急に?」
「い、いや、そのっ……なんというか……描写が妙にリアルだから……っ!」
黒川が耳まで真っ赤に染め、慌てて視線を逸らす。因幡は拭いた唇の端を小さく上げて、にやりと悪戯っぽく笑う。
「ふーん?じゃあ、もし俺がそういう経験がたくさんあるって言ったら……黒川くんはどう思うの?」
その声音はどこか探るようで、からかうようでもあった。黒川は「うっ……」と詰まり、黙ったまま視線だけを因幡へ戻す。真っ赤な頬のまま、正直に目をそらさない。
「……嫌、じゃないです。でも、ちょっと……気になります。なんでそんなふうに、誰かに優しくできるんだろうって……」
「優しく、か……」
因幡は少しだけ、視線を落とした。執筆中の原稿のセリフが、妙に胸に残る。「ずっと、傍にいたかったんだ」──そんな台詞を、今この部屋にいる誰かに言われたら、どんな気持ちになるだろう。
「……黒川はどうなんだ?そういう経験、ある?」
「俺は……」
黒川は視線を伏せ、小さな声で続けた。
「……誰かを好きになって、その人の恋の話にヤキモチを焼くくらいなら……最近、あります」
それが誰かは言わないまま、会話は一旦ふわりと空気の中に溶ける。
因幡は一瞬の沈黙のあと、少しだけ顔を赤らめながら──けれど自然に笑った。
「そっか。……じゃあ、俺の恋愛経験談、いつか小説で読んでくれよ。フィクションかどうかは……秘密だけどな」
そして、ケーキにフォークを入れた。
その甘さよりもずっと、心がくすぐられるような午後だった。




