届かないキス
宿の部屋は、昔ながらの和室だった。
窓の外からは虫の音がかすかに聞こえ、布団が二組、隣り合うように敷かれている。
柚瑠は畳に座ってタブレットを開き、除霊のログや記録を見直していた。
「……あいつ、除霊のときも無駄にセリフ長いんだよな……。誰に向けて読んでんだか……」
ぶつぶつ文句を言いつつも、因幡歩人の朗読除霊のデータを律儀に確認している姿に、律は苦笑をこぼす。
「柚瑠さん、気にしすぎです。今日だって、ちゃんと力合わせて除霊できましたよ」
「力を合わせるとかじゃなくて……負けたくないんだよ、僕は……」
柚瑠がぽつりと呟いた言葉に、律は少しだけ目を伏せた。
(本当は、そんなに強がらなくてもいいのに――)
律はゆっくりと近づいて、柚瑠の隣に座った。
ふと見ると、浴衣の襟元が少しはだけていて、肩の線がいつもより近く感じる。
「ねぇ、柚瑠さん」
「ん?」
「たまには、ちょっとくらい甘えてくれてもいいんですよ」
「……はぁ?」
律は苦笑を浮かべたまま、少しだけ体重を預けるようにして柚瑠の肩に頭を乗せる。
「俺、柚瑠さんの役に立ちたいんです。ちゃんと……見ててほしいなって」
「な、なに言って……! そんなこと言わなくても、お前は十分頑張ってるし……」
柚瑠は明らかに戸惑った様子で、肩に乗せられた律の頭に気づいていながらも、それを振り払おうとはしなかった。
けれど――その意味を深く考えることもなく。
「……まあ、今日の除霊、お前がいなかったらきつかったしな。ありがとな、律」
「……うん。俺も、柚瑠さんと一緒にいられて嬉しかったです」
ほんの少し、律の声が揺れる。
けれど柚瑠は、それに気づかず。
「さて……そろそろ寝るか。明日も早いしな!」
「……はい、おやすみなさい、柚瑠さん」
(柚瑠さんが俺を見てくれる日が、いつか来るかな――)
柚瑠の寝息が、穏やかに部屋の静けさの中へ溶け込んでいた。
律は横になりながら、そっと柚瑠の方へ体を向ける。
薄暗い部屋の中、ぼんやりとした月明かりが障子越しに差し込み、柚瑠の寝顔を優しく照らしていた。
(こうして、すぐ隣にいられるだけで――本当は、幸せなのに)
けれど胸の奥に滲むこの想いは、師弟としての距離では満たされない。
気づかれてはいけない。けれど、少しだけ。ほんの少しだけ――。
律は、そっと体を起こす。柚瑠の寝顔に手を伸ばすこともなく、ただ、そっと顔を近づける。
「……柚瑠さん」
囁くように名前を呼ぶ。返事はない。
静かな寝息が、それに応えるように続いていた。
その額へ、律はゆっくりと、唇を落とす。
触れるか触れないかの、淡く、優しいキス。
「……おやすみなさい。ずっと、好きでした」
小さく呟いて、律は元の布団に戻る。
少し赤くなった目を隠すように背を向けながら、そっと毛布を引き寄せた。
柚瑠は、微動だにしない。
――きっと、この想いにはまだ、届かない。
それでも構わない。今は、そばにいられるだけで。
律の胸に静かに沈む恋心は、夜の闇に、そっと溶けていった。




