2.就職活動
「私……実は憧れの職業があるの」
頬をピンク色に染めて恥じらう彼女は、文句なしに美しい。音声さえなければ、十人の紳士を十人とも恋に落とすことも可能だろう。
残念ながら、クラウスの耳は特に支障もなく、音はクリアに聞こえる。
「ほう?何だ」
長年の経験で、エレオノーラが素でいるのにまともに見える時はまともなことを言わないのを知っているので、クラウスは構えることなく尋ねた。
「パン屋さん……」
ほら見たことか。
「………………」
クラウスが眉を顰めて黙っていると、エレオノーラは焦って口数が多くなる。
「パンは焼いたことあるもの!捏ねたり、成形したりも。ね?オルガ」
「お嬢様のパンは屋敷中の者に評判でしたものね」
「ほらね!」
当然、とばかりにオルガが頷くと、エレオノーラは嬉しそうに彼女を見上げて笑う。
「お前、可愛いからってなんでも通ると思うなよ?」
「思ってない!……クラウス、私のこと可愛いと思ってるの?」
力を込めて否定した後に、彼女は不思議そうに首を傾げた。クラウスは低く唸る。
「そこ拾うな。とにかく、子供が数回手伝ったことがある程度で仕事に出来ると思うな」
「パン好きなので、頑張りたいです……!」
「…………早起きは出来るのか?パン屋の朝は随分早いぞ」
「うう……」
そこで屈するのか。
悔しそうに腕を振るうエレオノーラに、クラウスはぬるい視線を送る。
「じゃあ、郵便屋さん……は、どうかな……」
「職業の選定基準が分からん」
「たまに屋敷に手紙を届けてくれるのを見るから……手紙を届けるってすごく素敵な仕事だと思うの」
きらきらと紺碧の瞳を輝かせて話すエレオノーラはひどく愛らしいが、クラウスは頭が痛い。
誰がこんなぼさっとした子に育てた!!
「……宰相閣下か奥方か……?いや、兄君と姉君も随分甘やかしていたな……オルガは言うに及ばず……」
ぶつぶつと小声で言うクラウス自身も、年下のこの愛らしい幼馴染を甘やかして育てた自覚がない。
「……クラウス、あの、郵便屋さんは、確かにちょっと高望みだと自覚してるのよ……」
寂しそうにエレオノーラが言うと、つい何でも叶えてあげたくなるが、どうやって叶えろというのか。郵便屋さんごっこでもさせるか?
変なところで敏いエレオノーラは絶対に気付くに決まっている。厄介な女だ。
というか、先程から出てくる職業の偏りが明らかにおかしい。エレオノーラは生まれた時から貴族令嬢として育った筈なのに、就きたい仕事はまるで平民のそれだ。
普通貴族女性が働くといえば、付添人やマナー講師程度がせいぜいで、侯爵令嬢であったエレオノーラならばそれこそ他国の王族を持て成す際に失礼にあたらない、高貴な身分のお茶飲み友達として茶会に出席するなどが役目というか、仕事といって差し支えない筈だ。
相変わらず意味の分からない女である。
「……このこと、ユベール伯には言ったのか?」
「ううん、なんか叱られそうだから言ってない」
「だろうな……」
叱られる発想だという自覚はあるらしい。
クラウスがちらりとオルガを見ると、彼女は真面目な顔でサムズアップしてきたので、端から止める気はないようだ。
背が高い以外は特に目立った特徴のない侍女は、過保護な宰相閣下が愛娘に選んだ護衛も兼ねている元傭兵だ。オルガがいればエレオノーラの身の安全だけは確保されていると思っていい。
止める者のいない、暴れ馬の手綱を握るのはこれまではクラウスの仕事だったが、今はエレオノーラの夫・ウルドの役目だろう。
「……まぁ、とりあえず今私に話したようなことを、ユベール伯にちゃんと話せ。お前がぶっ飛んだ考えなのは把握してもらった方がいいだろう」
「叱られろ、と……!?」
真っ青になるエレオノーラに、クラウスは鹿爪らしく頷いてみせる。
「自覚があるなら叱られておけ」
「うぐぐ……叱られるのは嫌だから大人しくしてるのに……クラウスのばか!もう相談しない!」
「馬鹿とはなんだ、馬鹿とは」
ぴゃっ!と立ち上がったエレオノーラは、それでも淑女らしい挨拶をして彼女にしては最速の速さでぷりぷりと怒りながらクラウスの応接間から出て行った。オルガがそれに続く。
しばらくしてからクラウスが階下を覗くと執事にお土産を渡されて嬉しそうにしているエレオノーラがいて、彼はやれやれと肩を竦めた。
帰路の馬車の中で、お気に入りのクッションをぽすぽすと叩きながらエレオノーラはぶうぶうと文句を言っていた。
「クラウスのばかばか!人が真剣に悩んでるのに、旦那様の味方ばっかりして!」
「ですがお嬢様、クラウス様の仰ることも一理あるかと」
向かいに座るオルガに言われて、エレオノーラは手を止める。毛羽だってしまったクッションの表面を撫でて、彼女は項垂れた。
「分かっているわ……私、方向音痴だし、郵便屋さんは無理よね……」
「…………そうですね」
そこではない、と思いつつオルガは曖昧に頷く。
彼女の敬愛する主は馬鹿ではないのだが、何処かが決定的にズレているのだ。
エレオノーラは可哀相なほど萎れていて、オルガは何か主を元気づけられるものはないだろうか、と車窓に視線をやる。
「あ、お嬢様。ベルタのお店ですよ、この前便箋が残り少ないとお話されていたでしょう?買い足されてはいかがです?」
郵便屋さん(この場合配達員のことを指しているのだろう)になりたい、などというだけあって、エレオノーラは家族や友人に手紙を送るのが好きだ。
その為、その手紙を運んでくれたり返事を届けてくれる郵便の配達員に関して非常に憧れがあるらしい。
便箋や封筒も自分で選びたがり、結婚前はよくこの大通りの貴族御用達のマダム・ベルタの雑貨店に足を運んでいた。
ちなみに結婚してからは、貴族夫人が自分で買い物をするのは危険だ、とウルドが月に何度か外商を招いて、そこでエレオノーラはレターセットを選ぶように、と言われている。
「本当!行ってもいいかしら……旦那様は、眉を顰められるかもしれないわ」
一瞬目を輝かせたエレオノーラだったが、すぐにウルドの取り付く島もない態度を思い出して首を垂れる。
「お嬢様のことはこのオルガが必ずお守りしますわ。ほんの少しならば、お許しくださいますよ」
「そうよね……うん、オルガがいれば、一個小隊が来ても大丈夫だものね!」
一個小隊はさすがにちょっときつい、とオルガは思ったが笑顔でかわしておく。
実際ウルドはあれこれエレオノーラの生活を制限していて、彼女が自由に出掛けていい場所は伯爵家が支援している教会と孤児院、実家である侯爵家と、幼馴染のクラウスの屋敷だけなのだ。
これでは自由気ままに育ったエレオノーラが窮屈に感じても仕方がないとオルガは思う。
伯爵夫人として相応しくあろうと、エレオノーラは様々なことを我慢していたが結婚して三カ月、当の夫たるウルドにすら会わない日もある彼女がいい加減突拍子もないことを言い出しても、内容はともかく、オルガとしてはその発露自体は不思議ではなかった。
「じゃあ……ちょっとだけね。さっと行って、さっと帰るの」
ここには夫はいないのに、エレオノーラは内緒話でもするように口元に手を当てて、小さな声で話す。無邪気な子供のような姿が可愛らしく、きらきらと輝く紺碧の瞳がいとおしくてオルガもにこやかに首肯した。
道の脇に馬車を停めてもらい、エレオノーラはオルガと共にベルタの店に入る。貴族御用達なだけあって高級店ではあるのだが、裕福な商家の者も訪れたりと、普段とは違う空気に彼女の胸は高鳴った。
文房具に特化した雑貨店なのでインクや紙の香りがして、床に敷かれたカーペットが客の足音を吸収する。大好きな父親の書斎の匂いや音に似ていて、この店を好きな理由の一つを改めて感じた。
便箋がずらりと並んだ棚の前に立って、エレオノーラはうっとりと棚を眺める。香りのついているものや箔押しされたもの、色や手触りの違う紙。
屋敷に来てくれる外商の者もたくさん持ってきてはくれるが、それでもやはり店で自分で選ぶ楽しさは格別だ。
「綺麗な色!お姉様にはこの便箋でお手紙をお送りしましょう」
雪の多い北の国の王族に嫁いだ、五つ年上の姉の美しい笑顔を思い浮かべながら鮮やかなグリーンの便箋を手にとって、彼女は嬉しくなってにこにこと微笑む。
ふと、薄墨の紙に透かし模様の入った便箋を見つけて、エレオノーラは指先でその紙面をなぞった。
そういえば、夫であるウルドには手紙を送ったことがない。必要なやり取りは全て父親である宰相が行っていたし、短い婚約期間に贈り物に対してお礼状程度はしたためたことはあったかもしれないが、それは手紙とは少し意味合いが違うだろう。
「…………何か機会があるかもしれないから、これは旦那様用に」
薄墨の便箋をグリーンの便箋の下に隠す様に重ねて、なかなかこの店に買い物にも来られないだろうし、とエレオノーラは誰にともなく言い訳の言葉を重ねた。
それから綺麗な色のインクや、他に細々としたものを購入しほくほく顔で店を出たエレオノーラは、馬車を待つ間に隣で話す女性達の会話を耳にした。
「あら、あの代筆屋閉まってるの?」
「代筆してた子が身籠って、しばらく働けないらしいわよ」
「困るわ、あの子の字は綺麗で恋文にもってこいだったのに……」
馬車に乗る頃には、エレオノーラの紺碧の瞳はきらきらと輝いていた。