1.レディ・エレオノーラ
夕刻。
何もかもが茜色に染まり切り、その端から薄闇がゆっくりと浸食していくように夜の帳が引かれる時間帯。
ユベール伯爵邸に、主であるウルド・クラインが帰宅した。
家人と共に出迎えた伯爵夫人、エレオノーラは夫に近づき一番に声を掛ける。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ああ」
ウルドは頷き、外套を家令に渡すと着替える為に自室へと向かっていく。階段を上がる夫のすらりとした背を見送って、エレオノーラは彼女付きの侍女・オルガと共に夕餉前に時間を過ごす夫婦の居間に向かった。
そこには先程まで針を通していたやり掛けの刺繍があり、彼女は再びソファに座るとそれを手に取る。
しばらく黙々と針を動かしていたが、エレオノーラはやがて糸を鋏でぱちりと切ると裁縫箱に丁寧に道具を片付けた。
扉の方を見遣るが、ウルドが姿を現すことはない。彼は着替えてそのまま書斎で何かしらの仕事をしているのだろう。この後夕餉の支度が整って食堂に行けば会えるだろうけど、会ったからと言って和気あいあいと食事をするわけでもない。
ひどい時は仕事がたてこんでいるから、と食堂にも現れず、エレオノーラは一人で食事を摂ることすらあるほどだ。
ウルドはエレオノーラを嫌っているわけではない。ただ特別だとも思っていないだけなのだろう。
国と親の決めた政略結婚の相手。ごく普通に婚約期間を過ごし、ごく一般的に結婚をした。
ウルドは貴族として夫としての義務と責任を果たしていて、同じことをエレオノーラに求め、それ以上は求めていない。
そのうち子を為し、一族と領地を盛り立てていくことだけが、この後エレオノーラに与えられた役目。
けれど、本当にその役目をウルドはエレオノーラに望んでいるのだろうか?
「……準備はしておかないと」
ぽつりと呟いたエレオノーラの声は、誰に拾われることもなく霧散した。
「なので、働きに出ようと思うの!」
「………………待て、エリィ。何がどうなって”なので”になるのかわからないし、私に相談を持ち掛けるな」
「あら、私が困った時はいつでも助けてくれると言ったじゃない、クラウス」
「これ困ってる、に入るか?まず旦那に相談しろよ」
頭を抱えたのは、幼馴染のバノーラ侯爵子息であるクラウス・バッファ。金の髪に紅茶色の瞳を持つ美丈夫だが、今は盛大に顔を顰めている。
エレオノーラの三歳年上で、本来ならば侯爵を父に持つエレオノーラは彼と婚約することが内定していた。けれど、先の戦でウルドが大きな功績を収めた為、褒美として国王自ら選んだ良縁が、彼とエレオノーラの結婚だったのだ。
クラウスのことは好きだが、恋愛感情を抱いていたわけでもなかったし、侯爵令嬢として宰相職に就く父、ひいては父の仕える国王陛下の決定に否やを唱える権利もその必要も感じなかった彼女は、周囲の求めるままに唯々諾々と結婚を了承して、今に至るのだ。
ぼさっと結婚に承諾したエレオノーラを心配したクラウスは、もし困ったことがあったら幼馴染として出来る範囲で助けてくれる約束を、結婚祝いとして彼女にくれた。
クラウスの想定としては、国王肝いりの結婚だったがウルドがあまりに夫として酷いので離縁したい、だとか、何かそういう夫婦としての危機を案じての約束のつもりだったのだが、この幼馴染のお嬢さんの考えはいつも想像の斜め上をいく。
エレオノーラは唇を尖らせた。
「言いましたー!暇なので働きたい、と言ったら、ならば伯爵夫人として慈善活動をしてはどうか、と」
「ユベール伯の言うことが正しい」
クラウスがあっさりと頷くと、彼女は両手を振って抗議の意を表す。
移動動物園で見た猿の子供に似ているな、と彼は思ったが口に出さないだけの分別はあった。
「慈善活動なんてめちゃくちゃやってますー!暇にあかせてボランティア三昧なんだから!ねぇ、オルガ?」
エレオノーラは、後ろに控えていた彼女付きの侍女・オルガの方を向いて首を傾げる。すると、オルガは大きく頷いた。
「ええ、エレオノーラ様のご慈悲の賜物は、近頃下街でも評判です」
上腕を振るうだけの抗議だったのに、疲れてしまったらしいエレオノーラはオルガが淹れてくれた少し冷めた紅茶を飲んでほっ、と小さく吐息をつく。
「あー……最近噂の下街の聖女はお前か、エリィ」
「え!噂になってるの?」
彼女はぎょっとして口元を手で覆う。
非力で世間知らずなエレオノーラだが、これでも結婚前は美貌の侯爵令嬢として王都中の未婚令嬢の憧れだった。
青みのあるプラチナブロンドに紺碧の瞳、薔薇色の唇。伊達男で有名な宰相と、かつて社交界の花と讃えられた侯爵夫人の末っ子姫として生を受けたエレオノーラは、黙っていれば完璧な美貌と幼い頃から最高の教育を受けて育った素地の為、どこに出しても恥ずかしくない完璧な令嬢だった。
実際は話しだすと突拍子もないことを言うし、社交界を離れると突拍子もないことをする、かなりの危険人物なのだが。
幸か不幸か、それを知るのはごく親しい者だけだ。
話を聞いている限り、夫とはいえウルドは妻の本性を知らないのかもしれない。
「だって旦那様は私に十分すぎるお小遣いをくれるけど、私自身は困ってないから使い道がないもの……この前の戦で負傷してまだまともに働けない人も大勢いるし、一時の気休めでもないよりはましかと思って……」
急にうじうじと言い訳がましく話し出したエレオノーラを見て、クラウスは首を傾げる。
「なんだ?慈善事業は貴族の義務だし何も恥じることはないだろう」
「うーん、でも旦那様は過ぎる施しは民を弱らせるだけだから、きちんと見極めなさい、て……」
「ユベール伯は本当に真っ当だな」
クラウスは感心して一つ頷く。
エレオノーラ自身、ウルドの言うことは尤もだと思うので慈善活動のやり過ぎには注意しているが、誰かに施して別の誰かに施さないのは不公平なのではないか、と思うし、ならばせめて自分の裁量の範囲内で、と行っていると元侯爵令嬢で現伯爵夫人のエレオノーラの裁量はかなり広く、結果として外から見るとやり過ぎ、に相当してしまうのだ。
「やり過ぎたらダメだけど、やることないならしろ、とか旦那様も大概いい加減なこと言ってると思うの!」
「んーまぁ確かに。じゃあエリィは働くって何したいんだよ、働いたこともないくせに」
「クラウス、言い方がひどい!私だって結婚前には王城で働いてたこともあるのよ!」
「あーあの未婚令嬢が嫁ぐ前に箔をつける為に行儀見習いの侍女としてやるやつな。どうせ王族とお茶したりしてただけだろ」
「ぐ……!あとは、ええと、お父様の領地で領主代行とか……!」
「それこそお飾りだろ。宰相閣下が多忙で領地に赴けない間は家令がほとんど取り仕切ってくれてて、侯爵家の印が必要な時だけ押印する係」
「うぐぐ…………私って……ひょっとして無能!?」
ガーン!とばかりによろよろとソファに全身を預けたエレオノーラを見て、クラウスは溜息をつく。
「極端だな……貴族令嬢ならそんなもんだろうし、まともに働いたことがないからと言って無能と断じるのは早いだろ」
「クラウス……!」
「働いてみて、実際無能かもしれんが」
「クラウスー……」
浮上したり、人を恨みがましい目で睨んだりと忙しい女だ。
ひとしきりクラウスを睨みつけて満足したらしいエレオノーラは、居住まいを正してきちんと座りなおす。そうしていると本当に理想的な貴婦人にしか見えないので、女は皆詐欺師なのではないかとクラウスの女性観に影響を与えていた。
実際彼は幼馴染としてエレオノーラのパートナー役を務めることが多かったので、貴婦人に対するハードルは非常に高い。その所為もあって、エレオノーラが結婚してからも正式な婚約者を選びそこねている面もあった。
失礼を承知で言うと、誰も彼もが令嬢としてのエレオノーラには見劣りするのだ。人の表面しか見ていない所為なのだと自覚してはいるが、内面を知るまでにどうにも我欲が透けて見えてしまいウンザリしてしまう。




