第一章 開幕戦、白線の外で
第一章 開幕戦、白線の外で
午後二時半の東雲アークスパークは、まだ野球場というより大きな器だった。
空の客席は灰色と青の座席をむき出しにして、風だけが三塁側の旗を鳴らしている。内野には水を含んだ土の匂いがあり、白線はさっき引かれたばかりらしく、陽を受けてまっすぐ光っていた。
私はその白線の外側に立って、何度も息を吸った。
今日から、ここが私の職場になる。
東京アークス公式チア&パフォーマンスチーム、ORBIT。一年前まで画面越しに見ていた人たちと、同じユニフォームを着て、同じ試合を支える。
入口で首から下げたスタッフパスが、風に揺れた。
そこには本名ではなく、白い文字でYOSHINOと書かれている。
初めてチーム名簿を見た人は、たいてい私のことをヨシノという下の名前の子だと思うらしい。実際は吉野紬、その苗字をそのまま活動名にしただけだった。あえて訂正はしない。球場では、名前より先に覚えてもらえることのほうが大切だと思っていた。
少なくとも、昨日までは。
今は、覚えてもらえる前に、ちゃんと踊れるだろうかという不安のほうが大きい。
「YOSHINOー! そっちで合ってるよね?」
背後から呼ばれ、私は振り返った。
大きなキャリーケースを引いたHINAが、関係者通用口の前で片手を上げている。私と同じ今年加入の新人で、明るい茶髪を低い位置でまとめていた。練習場ではいつも余裕そうなのに、今日は笑顔の端が少し固い。
HINAはダンススクール出身で、振付を覚える速さは新人のなかでも一番だった。レッスンのたび、鏡の前で大きく動く彼女を見て、私は何度もすごいと思った。本人は「せっかくなら、見つけてもらいたいじゃん」と笑う。踊ることが好きで、見られることも怖がらない人だった。
「合ってる。初めて来た?」
「昨日、リハーサルで一回来たけど、何も覚えてない。広すぎない?」
「覚えなくていい場所もあるって、相原さんが言ってた」
「それ、どこ?」
「たぶん、グラウンドの真ん中とか」
HINAが一瞬だけ黙り、それから吹き出した。
「確かに。そこは覚えたら駄目そう」
私たちはキャリーケースを引き、通用口の自動扉をくぐった。中は思ったより暗い。選手用の通路と、業者用の搬入口と、私たちが使う控室への廊下が複雑に分かれている。壁にはアークスの歴代ユニフォームや、優勝した年の写真が飾られていた。
その前を、台車を押したスタッフが早足で通り過ぎる。ケーブルをまとめる人、飲料の箱を運ぶ人、グラウンド整備の道具を持つ人。誰もまだ歓声を出していないのに、球場はもう試合を始めていた。
「新人二人、こっち」
廊下の先から、相沢真優――MAYU先輩が手招きした。
黒いジャージの袖を肘までまくり、片手にはタブレット、もう片方には色分けされたキュー表を持っている。ORBITで六年目、フォーメーションとレッスンを担当する副リーダー。練習中は、鏡より時計を見る人だった。
「荷物は控室。メイク前にフィールドチェック行くから、五分で戻ってきて」
「はい」
「あと、今日は“かわいく見せよう”を忘れて」
HINAが目を丸くした。
「え?」
「忘れろとは言わないけど、最初に考えるのはそこじゃない。カメラがどこを抜くか、選手紹介が何秒押してるか、今から何人が通路を通るか。かわいさは、全部できたあとで出せばいい」
「……はい」
MAYU先輩はうなずき、すぐ次のスタッフへ声をかけに行った。
私はHINAと顔を見合わせた。
「緊張してきた」
「私は、ちょっと安心した」
「どうして?」
「踊ることだけ考えなくていいんだって分かったから」
そう答えると、HINAは少しだけ笑った。
控室には、すでに何人かのメンバーが集まっていた。
鏡の前で髪を整える人。ストレッチをする人。スニーカーの靴紐を結び直す人。衣装用のハンガーに並んだ白と深い青のジャケットは、遠目には同じに見えるのに、近くで見ると袖口の飾りや番号が一人ずつ違う。
私は自分の衣装を手に取った。
胸元に小さな銀色の軌道が刺繍されている。ORBITの名前の由来になった、歓声の輪を表すマークだった。
鏡の中の私は、まだどこか借り物のように見えた。
高校のチアリーディング部で着ていたユニフォームは、もっと鮮やかな赤だった。何度も洗った生地の感触も、体育館の天井も、部員たちの掛け声も、身体に残っている。けれど、あの場所では、私たちが主役だった。
大会の二分半、誰より高く跳び、誰より大きな声を出せばいい。
ここでは違う。
この球場の主役は、グラウンドに立つ選手たちだ。
それを知っていて、それでも私はここに来たかった。
「おはようございます」
控室の空気が一段静かになった。
入口に立っていたのは、RIKA先輩だった。
淡いグレーのパーカーに、黒いパンツ。まだ衣装ではないのに、立ち方だけで周りの視線が集まる。肩にかかる髪はきれいに巻かれていて、口元には今日最初の笑顔があった。
「おはようございます!」
私たちがそろって返すと、先輩は一人ずつの顔を見てうなずいた。
「開幕、おめでとう。新人は特に、ここまで来たことをまず自分で褒めていい日です」
柔らかな声だった。マイクを通さなくても、部屋の奥までまっすぐ届く。
「でも、試合が始まったら、今日が自分のデビューかどうかは忘れましょう。私たちは野球を見に来た人の一日を預かります。いい試合なら、もっといい試合にする。苦しい試合なら、最後まで席にいたくなるようにする。それがORBITです」
RIKA先輩はそこで一度、私たち新人のほうを見た。
目が合っただけで、背筋が伸びる。
「緊張はしていい。わからないことは無線で聞いて。勝手に判断しない。あと、走るときは衣装の裾を踏まないこと」
最後だけ少しくだけた言い方に、控室で小さな笑いが起きた。
緊張が、ほんの少しだけほどける。
私は、昔テレビで見たRIKA先輩を思い出していた。
勝利後のグラウンドで、選手より半歩後ろに立ち、歓声の中でも聞き取りやすい声で「本日のヒーローは」と呼びかける人。ダンスは大きく、笑顔は迷いなく、けれど選手紹介の瞬間には自然に視線を譲る人。
私は彼女を見て、プロ野球のチアになりたいと思った。
だから今、同じ部屋で挨拶を聞いていることがまだ信じられない。
フィールドチェックは、客席が開く前に終えなければならなかった。
ORBITは一塁側のファウルグラウンドから入り、外野寄りの演出台へ移動する。今日の立ち位置を示す小さな印は芝の境目にあり、見失うとフォーメーション全体がずれる。
私たちは衣装の上からジャージを羽織り、イヤーモニターをつけてグラウンドへ出た。
客のいないスタンドを見上げると、席の多さに足が止まりそうになる。
四万人近い人がここを埋めるのだ。
昨日のリハーサルでは、音響スタッフの声と、空調の低い唸りしかなかった。今はまだ空なのに、そこへ人の気配が入り込む余地が見える。空席は、これから歓声になる場所だった。
「YOSHINO、印は?」
MAYU先輩の声がイヤーモニターからした。
「あります。三塁側、芝の切れ目から二歩です」
「そこからホームが見える?」
私は屈んで、目線を低くした。
「見えます」
「見えすぎてない?」
一瞬、意味がわからなかった。
先輩は私の隣まで来て、私の肩をほんの少し回した。
「お客さんは、あなたの正面に立つ。あなたがホームをずっと見ていると、背中が大きく見える時間が増える。ボールが動くときは半身。拍手を促すときだけ客席へ。覚えて」
「はい」
見えすぎても駄目なのだ。
私は立ち位置を取り直し、ホームベースのほうを見た。白線の向こうは、選手のための場所だった。
「いいね」
今度は別の声がした。
振り返ると、RIKA先輩が少し離れた位置で腕を組んでいた。
「YOSHINOは、最初から身体が前に出るタイプだから。今日は引く練習をしよう」
「引く、ですか」
「うん。出ることより難しいよ」
先輩は笑った。
否定された気はしなかった。むしろ、私のことを見てくれていたことが嬉しくて、返事が少し遅れた。
「はい。やります」
「よし。じゃあ、開幕の入りだけ一回通すね」
午後四時を過ぎるころには、球場の外から人の声が聞こえ始めた。
開場を待つ列ができ、ゲート前の案内が慌ただしくなる。ORBITはメイクを終え、衣装に着替え、開場直後のウェルカムパフォーマンスへ向かった。
この時間の仕事は、まだ応援を煽ることではない。
迷っている人を席へ案内し、子どもと写真を撮り、スポンサーの企画に参加する人へ笑顔で声をかける。ホームユニフォームの男の子が、私の前で何度もポーズを変えた。
「写真、撮ってもらっていいですか」
「もちろん。アークス、好き?」
「大好き! 今日、勝つかな」
私は一瞬だけ、言葉を探した。
「勝ってほしいね。でも、最後まで一緒に応援しよう」
男の子は大きくうなずき、父親のスマートフォンへ向かって、私と同じように片手を高く上げた。
写真を撮り終えたあと、男の子は走り出しかけて、父親に手を引かれた。
「走らない」
「はーい」
そのやりとりを見て、私は笑った。
球場では、誰かの一日が同時に何千個も進んでいる。初めて野球を見る子。遠方から来た人。仕事帰りにひとりで座る人。選手の打率を全部言える人。
私たちは、その真ん中ではなく、端のほうで彼らの気持ちを受け取る。
それが不思議なくらい、好きだった。
試合開始二十分前。私たちは一塁側のトンネルで、最後の確認をしていた。
イヤーモニターから聞こえるのは、演出卓の相原さんの声だ。
『選手紹介、予定どおり。ORBIT、入場四十秒。RIKAのコール後、二列で抜け。新人は前を急がない』
「了解です」
全員の声が重なる。
私は指先を握ったり開いたりした。手のひらに、少し汗がにじんでいる。
隣のHINAが、見えないくらい小さく足踏みしていた。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないかも」
「私も」
「それを言われると、ちょっと大丈夫になる」
HINAが笑った直後、トンネルの先が明るくなった。
球場の照明が、一段だけ強くなる。アナウンスが流れ、客席から最初の大きな拍手が起きた。
身体が、その音に引かれた。
「行くよ」
前列に立ったRIKA先輩が、振り返らずに言った。
グラウンドへ出た瞬間、景色が裏返った。
さっきまで空だった客席が、青いユニフォームとタオルと手拍子で埋まっている。照明の向こうは見えないほど明るいのに、目の前の人たちの顔だけは不思議とはっきり見えた。
音楽が始まる。
私は決められた位置で腕を上げ、左へ一歩、右へ二歩。身体は練習どおりに動くのに、胸だけが追いつかない。
これは、私がずっと来たかった場所だ。
RIKA先輩の声が響く。
「お待たせしました! 本日、東京アークス、ホーム開幕戦です!」
客席が爆発するように沸いた。
先輩はその中心にいながら、次の瞬間には選手入場の通路を空けた。私たちも二列に割れ、腕の角度を変える。選手たちが一人ずつグラウンドへ走り込んでくる。
私は、いつものように顔を追いかけそうになって、MAYU先輩の言葉を思い出した。
見えすぎてはいけない。
客席へ半身を向け、拍手の輪を広げる。選手の名が呼ばれるたび、隣のHINAと息を合わせて腕を振った。
自分が動くことで、選手が少しでも大きく見えるならいい。
そう思えた瞬間、緊張は少しだけ形を変えた。
試合が始まると、ORBITの時間は細かく切り刻まれた。
一回表、ビジターチームの攻撃中は、私たちは一塁側の待機スペースでスコアを確認する。二死になれば、次の回の移動位置を確かめる。守備が終わったら、ホームの攻撃へ合わせて所定の場所に散る。
歓声は、こちらが出すものではなかった。
すでに客席にあるものを、少しだけ揃えるのが私たちの仕事だ。
二回裏、アークスの先頭打者がヒットで出塁した。私たちは外野寄りの通路へ入り、応援歌の間奏に合わせて手拍子を促す。打球が飛ぶたび、身体を止める。塁が進んだときだけ、客席へ向けて両手を開く。
HINAの笑顔が、近くの子どもたちへ伝わっていくのが見えた。
私もつられて笑った。
けれど、三番打者の鋭い当たりは野手の正面を突き、ダブルプレーになった。歓声は一瞬でほどけ、ため息が球場を横切る。
その瞬間、イヤーモニターにRIKA先輩の声が入った。
『ORBIT、次はDプラン。煽りすぎない。四回のコンコース企画は予定どおり』
Dプラン。
得点機を逃したときのために用意された、短い演出だった。
私は一度も、そんなものを考えたことがなかった。練習では振付を覚え、音に合わせることばかり意識していた。けれど球場では、同じ曲でも、同じ動きでも、試合の一球で意味が変わる。
それが面白いと思った。
同時に、怖かった。
四回表が終わったあと、私たちはコンコースへ戻った。
スポンサー企画の抽選会で、当選した家族をステージへ案内する。試合を見ている途中の人を足止めしないよう、開始と終了の時刻はきっちり五分。マイクの音量も、グラウンド側の実況が聞こえなくならない程度に抑えられている。
RIKA先輩は、ついさっきまで外野側で踊っていたとは思えないほど自然に、当選番号を読み上げていた。
「三百二十七番のお客さま、おめでとうございます。急がなくて大丈夫です。足元にお気をつけて、こちらへどうぞ」
小さな女の子が、母親の手を引かれて前へ出てきた。緊張しているのか、景品のユニフォームを見ても口を閉ざしている。
RIKA先輩はしゃがみ込み、マイクを少し離した。
「何年生?」
「……にねん」
「二年生か。今日、誰を応援してる?」
女の子は少し迷い、アークスの主将の名前を言った。
「いいね。じゃあ、主将に届くくらい、大きく拍手できる?」
女の子は、今度は力強くうなずいた。
先輩が立ち上がって合図すると、周りにいた人たちも一緒に拍手をしてくれた。
五分の企画は、予定時刻ぴったりで終わった。
RIKA先輩は最後に女の子へ手を振り、それから次の移動のために表情を切り替えた。
私はその背中を追いながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。
踊っているときも、話しているときも、先輩はちゃんと野球へ戻る道を作っている。
五回を終えて、試合は〇対〇だった。
互いの先発投手が崩れず、客席の空気は少しずつ張り詰めていく。盛り上げるための派手な曲を使う場面ではない。私たちはベンチ前の狭いスペースで待機し、無線の指示を聞いていた。
「YOSHINO」
隣にRIKA先輩が来た。
「はい」
「さっき、二回の手拍子。三列目のお客さんまで見えてた?」
「えっと、見えては……」
「腕が少し高かった。前の列は合わせてくれてたけど、後ろの人は打席を見てた」
言われて、私は自分の動きを思い出した。勢いをつけたくて、手を頭より高く上げていた。
「すみません」
「謝らなくていい。次は肩の高さで。手拍子は見せるためじゃなくて、合わせてもらうためにあるから」
「はい」
先輩はそれだけ言って離れかけた。
けれど、二歩進んでから振り返る。
「でも、顔はよかった」
「顔……ですか」
「うん。楽しいって顔をしてる人を見ると、客席は安心する。YOSHINOのいいところ」
それだけで、さっきまでの悔しさが小さくなった。
単純だと思う。でも、憧れの先輩に見てもらえていたことが、どうしようもなく嬉しかった。
RIKA先輩はもう次のスタッフへ向かっていた。私のことなど、すぐ忘れるかもしれない。それでも私は、肩の高さで手を叩く練習を、待機中に何度もした。
六回裏、アークスが先に一点を取った。
二塁打と犠牲フライだけの、派手ではない得点だった。けれど球場は、さっきまで息を潜めていた分だけ大きく揺れた。
私たちは指示どおり、短いコールに入る。RIKA先輩がマイクで選手の名前を呼び、客席がそれを返す。私は両手を広げて、前の列から後ろの列へ拍手が届くのを待った。
そのとき、白線の向こうで、得点した選手がベンチへ戻りながらこちらを見た気がした。
目が合ったかどうかは分からない。ただ、ユニフォームの背中が仲間に叩かれ、その周りでスタンドが跳ねている。
私は自分の胸も高くなるのを止められなかった。
勝ってほしい。
ここで、勝利パフォーマンスを踊りたい。
その願いは、職業意識より先に出てくるほど素直だった。
七回裏が終わった時点で、私たちは勝利後の準備に入った。
まだ一点差。早すぎると感じたけれど、衣装の上に羽織るジャケットを用意し、ポンポンの色を替え、最後のフォーメーションを確認する。勝てば、選手たちが外野前へ並んだあと、ORBITが短いパフォーマンスをする予定だった。
開幕戦だけの特別な曲。
練習では何度も踊った。最後に全員で腕を空へ伸ばすところが、私は好きだった。
「勝つ前から浮かれない」
MAYU先輩が言った。
私がポンポンを抱えたまま、たぶん少しにやけていたのだと思う。
「はい」
「勝利曲を準備するのは、勝つと信じるためじゃない。勝ったとき、選手とお客さんを待たせないため」
言いながら先輩はキュー表を確認している。そこには、勝利時の曲順と、敗戦時の撤収手順が同じくらい細かく書かれていた。
私は、その二つの文字を見比べた。
勝つことは願える。でも、決めるのは私たちじゃない。
そんな当たり前を、何度も覚え直さなければならない。
八回表、アークスの中継ぎ投手が連続で走者を出した。
客席の応援は急に大きくなった。助けたいと思う。何かもっとできないかと、身体が前へ出そうになる。
けれど、私たちの位置は一塁側の待機スペースだった。今は応援歌の切れ目でも、演出の時間でもない。
RIKA先輩が、誰より先に手を下ろした。
「待機」
短い声だった。
打球が右中間を抜けた。
同点。
次の打者の犠牲フライで、逆転。
球場を満たしていた声が、少しずつ沈んでいく。さっきまで開幕戦の勝利を信じていた人たちが、同じように息を飲んでいるのが分かった。
イヤーモニターが鳴る。
『勝利後パフォーマンス、取り消し。ORBIT、Bエンドへ切り替え』
私は手にしていた銀色のポンポンを見た。
まだ使ってもいない。けれど、急に重くなったように感じる。
「YOSHINO」
RIKA先輩が私を呼んだ。
「はい」
「そのまま持たない。戻して、青に替えて」
「……はい」
私は返事をしてから、急いで勝利用のポンポンを箱へ戻した。手元がもたつき、ひとつが床へ落ちる。拾おうとした指先の横へ、RIKA先輩の手が伸びた。
先輩は何も言わず、もう一つを拾ってくれた。
「大丈夫」
小さな声だった。
「まだ九回ある」
私はうなずいた。
勝てるかもしれない、という意味だけではないのだと思った。九回まで、私たちにやることがあるという意味だった。
九回裏、アークスは先頭打者が出塁した。
スタンドがまた息を吹き返す。私たちはBエンドの手順どおり、長く踊らず、客席へ拍手を渡すだけの動きに切り替えた。目立つことより、次の一球へ気持ちを残す。
無死一塁。送りバント。二死二塁。
打席に入った代打の選手へ、球場中の声が集まった。
私は、肩の高さで手を叩いた。
前の列の人が合わせ、次の列が続いた。音は波のように広がったけれど、私はそれを自分たちの力だとは思わなかった。ただ、もともとそこにあった願いの形を揃えただけだ。
打球は高く上がった。
外野手が少し下がり、両手を上げた。
捕った。
試合終了の音が鳴った。
東京アークス、ホーム開幕戦は一対二の敗戦だった。
負けたあとの球場は、想像していたより静かではなかった。
悔しそうに席を立つ人。最後まで拍手を続ける人。子どもに「また次がある」と言う人。選手たちは外野前に並び、帽子を取って深く頭を下げた。
ORBITは、その少し後ろで整列した。
勝利曲は流れない。私たちは短い退場曲に合わせ、客席へ手を振る。笑顔は作るものではなく、今日ここに来てくれた人へ返すものだと、RIKA先輩が以前言っていた。
でも、私はうまく笑えている自信がなかった。
さっきの打球が、頭の中で何度も繰り返される。
もし落ちていたら。もし、あのときもう少し大きく手を叩けていたら。
そんなことを考える自分が、急に恥ずかしくなった。
私たちの手拍子で、打球の行き先は変わらない。
変えられないものがあるから、私は白線の外にいる。
着替えを終えたころには、控室の窓の外はすっかり暗くなっていた。
メンバーはそれぞれ備品を片づけ、スタッフへ挨拶をし、今日の反省を短くメモしている。HINAはソファに座ったまま、靴紐をほどく手を止めていた。
「悔しいね」
私が言うと、HINAはうなずいた。
「勝ちたかった。すごく」
「うん」
「でもさ、さっき写真撮った男の子、最後までいたよ。帰りに見えた」
私は思い出した。開場直後、私と一緒にポーズをした子だ。
「ほんと?」
「うん。お父さんと手をつないでた。負けたのに、なんか、楽しそうだった」
その言葉に、少しだけ救われた。
もちろん、負けてよかったわけではない。次は勝ってほしい。けれど、勝敗だけでは持ち帰れないものがある。
それを作るために、私たちはここにいるのかもしれない。
「YOSHINO」
控室の入口から、RIKA先輩が呼んだ。
私は立ち上がった。
「はい」
「今日、初めての試合だったよね。おつかれさま」
「おつかれさまでした」
言った途端、張っていたものが少しゆるんだ。先輩の前で泣くわけにはいかないと思い、私は背筋を伸ばした。
「あの、八回の切り替え、遅くてすみませんでした」
「遅くなかったよ」
「でも、ポンポンを落として」
「拾えた」
先輩はあっさり言った。
それから、私の手元を見た。もう何も持っていない両手を。
「今日、勝利パフォーマンスを踊れなくて悔しい?」
私は少し迷ってから、正直にうなずいた。
「はい。ずっと、踊りたかったです」
「私も」
意外で、顔を上げた。
RIKA先輩は、笑っていなかった。疲れた表情でもなかった。ただ、まっすぐグラウンドのほうを見ている人の顔をしていた。
「でも、私たちは勝った日のためだけにいるんじゃない。負けた日の最後に、もう一回来てもいいと思ってもらうためにもいる」
先輩は、控室の窓の向こうを指さした。
そこからは、照明の消えかけたスタンドの一部が見える。
「野球は、私たちが主役じゃない。だから悔しいし、だから面白い。今日の悔しさを、次に踊る理由にできるなら、YOSHINOはちゃんとORBITになれるよ」
私は返事をするまでに、少し時間がかかった。
憧れの先輩が、自分と同じように勝利を願っていたこと。そのうえで、勝てなかった夜にも仕事を続けること。それが急に、遠い世界の話ではなくなった。
「……はい」
「よし。じゃあ、明日は今日より早く来るから、早く寝よう」
RIKA先輩はいつもの笑顔に戻った。
その笑顔を見たとき、私は初めて思った。
この人のようになりたい、だけでは足りない。
いつか、この人の隣で同じ景色を見たい。
白線の外側から、同じ一球に息を止めて、同じ勝利を願える人になりたい。




