灰の底から、赫き瞳を開ける
痛い。痛い。痛い。
身体のあらゆる部位が、壊れた鐘のように不協和音を響かせながら悲鳴を上げていた。
傷口から流れ出る愛おしいはずの生温かい液体は、容赦なく降り注ぐ冷たい雨に打たれ、足元の黒い泥水へと混ざり合っていく。視界は半分が血に染まり、もう半分は深い夜の闇に遮られていた。指先一つ動かすことさえ叶わない。呼吸を吸い込むたびに、肺の奥が裂けるような激痛に襲われ、口の端から鉄の味がする泡が溢れ出た。
(私は、ここで死ぬのだろうか)
泥に塗れた頬に、冷徹な雨の滴が打ち付けられる。その冷たさだけが、辛うじて私がまだ「生者」の側に踏みとどまっていることを教えてくれていた。
ほんの数日前まで、私は確かに笑っていたはずだった。
温かいスープの匂い、使い込まれた木製家具の放つ落ち着いた香り、そして、私の名前を呼ぶ、愛すべき人々の声。それらすべてが、まるで遠い前世の記憶のように霞んでいく。
すべてを奪われた。
あの一瞬で。あの、傲慢で冷酷な男の手によって。
思い出すのは、私たちが血と汗を流して創り上げ、守り続けてきた、あの小さくも温かい「家」の記憶だ。
王国の辺境、うらぶれた交易都市の路地裏に、その場所はあった。
お世辞にも立派とは言えない、築年数ばかりが経過した二階建ての石造りの建物。色褪せた看板には、不器用な手付きで彫られた鳥の翼の紋様が刻まれていた。
そこが私の運営するギルドだった。
国から正式に認可された大手のギルドとは異なり、集まるのは路頭に迷った者や、魔術の才能がありながらも身分が低いために中央から弾かれた者、あるいはただ不器用に行きる場所を失った者たちばかり。世間からは「弱小」「吹き溜まり」と揶揄されることも多かった。けれど、私にとっては世界中のどの宮殿よりも価値のある、唯一無二の居場所だった。
若くしてこの場所を先代から引き継いだ私は、毎日のように頭を抱えていた。
明日の配給のための買い出し、依頼の斡旋、安すぎる報酬の交渉、そして何より、個性豊かすぎる仲間たちが引き起こす小さなトラブルの処理。
「おい、ギルドマスター! 今日もあそこの果樹園の魔獣退治、報酬を値切られちまったよ。あそこの頑固親父、本当に人使いが荒いんだから!」
そう言って、赤茶色の髪を乱暴にかきむしりながら笑うのは、ギルドの創設時から私を支えてくれた前衛の剣士だった。体ばかりが大きくて口は悪いが、誰よりも仲間想いで、私が風邪を引いた時には不器用な手付きでひどく不味い粥を作ってくれるような、兄のような存在だった。
「もう、あなたが交渉下手だからですよ。マスター、次からは私が行きます。あの親父さんなら、少し泣き落としをかければ報酬に果物をご馳走してくれますから」
ふふ、と袖で口元を隠して悪戯っぽく微笑むのは、受付兼治癒師の少女。彼女は町で行き倒れていたところを私が拾った子だった。最初は怯えるばかりだった彼女が、いつしかギルドの誰よりも頼もしい帳簿係になり、みんなの姉妹のような存在になっていた。
「……マスター、これ。今日の薬草採取の成果」
物陰から静かに現れ、泥のついた薬草の束を差し出すのは、極度の人間嫌いでありながらも、調薬に関して天才的な才能を持つ年少の魔術師の少年。彼が時折見せる小さな笑顔を守るためなら、私はどんな苦労だって厭わないと思えた。
私たちは、確かに貧しかった。
王都の華やかな貴族たちが楽しむような贅沢とは無縁で、冬になれば一つの暖炉の周りにみんなで身を寄せ合い、毛布を分け合って過ごすような生活。それでも、そこには確かな信頼と、偽りのない愛があった。私は彼らのリーダーであり、家族であり、守り手でありたかった。
彼らのためなら、どんな泥水をすすってでも、ギルドの経営を軌道に乗せてみせる。そう固く心に誓っていたのだ。
あの日、あの男が、私たちの平穏を土足で踏みにじるまでは。
それは奇妙なほどに晴れ渡った、風の穏やかな日の午後だった。
ギルドの食堂で、いつものように古い帳簿と格闘していた私の耳に、にわかには信じがたいほどの重々しい足音が響いてきた。
金属の擦れ合う冷徹な音。整然と揃った、軍靴の響き。
辺境の寂れた路地裏には、到底ふさわしくない異質な気配が、一瞬にして周囲の空気を凍りつかせた。
バン、と激しい音を立てて、私たちが何度も修理して大切に使っていた木製の扉が蹴り破られた。
「な、何事ですか……っ!?」
受付の少女が悲鳴に近い声を上げる。
現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ、王国の近衛騎士たちだった。彼らは一糸乱れぬ動きでギルドの中に押し入り、室内にいた数少ない仲間たちを鋭い槍の矛先で威嚇し、壁際へと追い詰めていく。
そして、その騎士たちの中心から、ゆっくりと歩み出てきたのが「あの男」だった。
仕立ての精緻な、深紅の外套。胸元には、太陽を模した王家の紋章が金糸で 眩いばかりに刺繍されている。輝くような髪は完璧に整えられ、その下に覗く冷涼な瞳は、人間を見るものではなかった。まるで足元に這い回る不快な虫を眺めるかのような、絶対的な拒絶と蔑み。
男の背後から、肥満体の役人が揉み手をしながら現れ、高圧的な声で告げた。
「控えよ! こちらにいらっしゃるのは、偉大なる国王陛下の実弟にして、この領地を新たに治められることとなった、高貴なる御方である!」
王族。
その言葉が持つ圧倒的な重圧に、室内の空気が一瞬で引き絞られる。私のような市井の民にとって、王の血を引く者など、雲の上の存在どころか、生死の権利を握る神も同然の存在だった。
私は必死に震える膝を押さえ、一歩前に出た。ギルドの長として、仲間たちを守らなければならない。その一心だった。
「……高貴なる御方におかれましては、このような辺境の小さなギルドに、どのようなご用件でしょうか。私どもは法を犯した覚えはございませんし、税も滞りなく納めております」
私は頭を深く下げ、言葉を選びながら掠れた声で尋ねた。
しかし王族の男は、私の言葉に答えることすらもしなかった。彼はただ、手袋をはめた指先で退屈そうに顎をいじり、周囲の薄汚れた壁や、古びた机を見回した。
「汚らしいな」
男が初めて発した声は、信じられないほど低く、そして冷酷に透き通っていた。
「このような肥溜めのような場所に、まさか我が一族の繁栄を支える『鍵』が眠っていようとは。神の悪戯にしては、些か悪趣味が過ぎる」
「……『鍵』、でございますか?」
私の問いかけを、男は冷ややかに黙殺し、隣の役人に顎で指示を出した。役人は我が物顔で懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私の目の前の机に叩きつけた。
「これは、この土地、およびそこにある建造物すべての権利を王家に委譲することを示す書状である。速やかにサインをし、この場所を明け渡せ」
「な……っ!?」
目を見開いた。書状に書かれている内容は、あまりにも一方的で、あまりにも理不尽なものだった。委譲に伴う補償金の欄には、雀の涙ほどの、宿の一泊分にも満たないような金額が書かれている。
「お待ちください! ここは、先代から受け継いだ大切な土地です! 私たちが毎日、血の滲むような思いで維持してきた場所なのです! 突然そのようなことを言われても、はいそうですかと明け渡せるわけがありません!」
「黙れ、無礼者!」
役人が怒鳴り声を上げる。しかし、私は引かなかった。ここを失えば、行くあてのない仲間たちはどうなる。彼らはまた、あの冷たい路地裏で飢えに怯える日々に戻ってしまう。それだけは、絶対に許せなかった。
「理由を教えてください! なぜ、私たちのこのような小さなギルドが必要なのですか!? 他にも土地など、いくらでもあるはずです!」
私の必死の訴えに男は初めて、その瞳を私へと向けた。
そこに宿っていたのは、一切の慈悲を持たない、絶対的な強者の愉悦だった。
「理由、か。羽虫の分際で、我が決定に疑問を抱くとは傲慢な。……だが、よかろう。冥土の土産に教えてやる」
男はゆっくりと私に近づき、その美しい靴で、受付の少女が大切に育てていた植木鉢を踏み潰した。陶器の割れる鈍い音が響く。
「このギルドの地下深く、かつて失われた古代の魔力結晶の鉱脈が眠っていることが判明した。それは、我が軍をさらに強大にし、私の地位を不動のものとするための至宝。……それを、お前たちのような価値なき塵芥の住処の下に放置しておくわけにはいかないのだよ」
「そんな……そんな理由で……!」
「お前たちに拒否権などない。元より、この国のすべては我が王家のもの。その一部を、本来の持ち主に返すだけのことだ」
男は吐き捨てるように言うと、興味を失ったように背を向けた。
「サインをしろ。さもなくば――力ずくで奪うまでだ」
「断ります」
私の口から、拒絶の言葉が飛び出していた。
思考よりも先に、魂が叫んでいた。この男に、私たちのすべてを渡してはならない。ここで屈したら、私は二度と自分を許せない。
「ここは、私たちの家です。どれほどの権力があろうとも、理不尽に奪う権利など、あなた方にはないはずです……っ!」
私の言葉に、室内の空気が完全に凍りついた。
役人は顔を真っ青にし、近衛騎士たちは一斉に剣の柄に手をかけた。
そして男は――ゆっくりと振り返り、その端正な顔を、ひどく歪んだ笑みで満たした。それは、獲物を甚振ることを決めた、残虐な猛獣の笑みだった。
「……面白い。実に見事な身の程知らずだ」
男が小さく右手を上げた。
「誅殺せよ。一人残らず、な」
その冷酷な命令が、地獄の幕開けだった。
「マスター、逃げて――!」
最初に動いたのは、赤茶色の髪の剣士だった。彼は腰の剣を抜き放ち、私を庇うようにして騎士たちの前に立ちはだかった。しかし、相手は王国の精鋭。数においてもおいて、装備においても、圧倒的な差があった。
「がはっ……!」
重々しい金属音が響き、彼の胸を、騎士の冷たい槍が貫いた。
鮮血が、私の視界に飛び散る。
「嘘……いや、嫌あああああああ!」
私は叫んだ。喉が引き裂けるほどに叫んだ。
しかし、惨劇は止まらない。
「マスター……っ、早く、後ろから……!」
受付の少女が、必死に治癒の魔術を唱えようと両手を掲げる。だが、その頭上から、容赦なく騎士の剣が振り下ろされた。彼女の細い身体が、糸の切れた人形のように床に崩れ落ちる。床に広がっていく赤い海。彼女がいつも丁寧に磨き、ワックスを塗っていた木目の床が、彼女自身の血で汚されていく。
「ウ、ウアアアアア!」
年少の魔術師の少年が、狂ったように魔術の火球を放った。しかし、騎士たちの盾に容易く弾かれ、逆に複数の剣でその小さな身体を突き刺された。彼は声も上げられず、ただ大きな目を見開いたまま、動かなくなった。
ほんの数分前まで、生きていた。
笑っていた。文句を言いながらも、明日を楽しみにしていた。
それなのに、どうして。どうしてこんなことが許される。
「ああ、あああ……っ!」
私は腰を抜かし、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、床を這いつくばった。仲間たちの死体に駆け寄ろうとするが、その前に、ずしりと重い衝撃が私の背中に加わった。
騎士のブーツが、私の背中を踏みつけ、床に押し付ける。
「ぐっ……、離せ……、離して……!」
「見苦しいな、下民が」
頭上から、あの男の声が聞こえた。
男はゆっくりと私を見下ろし、その手に握られた、美しく装飾された細剣の先端を、私の喉元へと突きつけた。
「お前たちが大人しく従っていれば、命だけは助けてやったものを。分不相応なプライドなど持つから、こうして全てを失うのだ」
「お前……、お前だけは……っ!」
私は、血を吐きながら男を睨みつけた。視線だけで殺せるなら、この男を千回でも万回でも八つ裂きにしていた。その私の強い眼差しが、男のサディスティックな欲望をさらに刺激したのだろう。男は満足そうに口元を釣り上げた。
「いい眼だ。その眼が、絶望に染まる瞬間が最も美しい」
男は躊躇いなく細剣を突き下ろした。
ドス、という鈍い音が、私の体内で響いた。
胸の中央、心臓のすぐ近くを、冷たい刃が貫通する。
熱い。痛い。呼吸ができない。
空気を求めようとする口から、大量の血が溢れ出る。
「カハッ、あ……、が……」
「死体は裏の崖から放り捨てろ。獣の餌にでもすればいい。……それから、この薄汚い建物は火を放て。跡形もなく、灰にしろ」
男の冷淡な声が、遠ざかっていく意識の中で微かに聞こえた。
身体が持ち上げられ、乱暴に運ばれていく感覚。
視界の端で、私たちのギルドが、真っ赤な炎に包まれていくのが見えた。みんなの思い出が、笑顔が、生きた証が、激しい火柱となって夜空へ消えていく。
そして私は、暗い崖の底へと、容赦なく投げ落とされた。
激しい衝撃と、冷たい水の感覚。
川の流れに揉まれ、岩にぶつかりながら、私の意識は完全に闇へと沈んだ。
普通なら、そこで終わりだったはずだ。
心臓の近くを貫かれ、燃え盛る家を奪われ、崖から落とされた無力な娘。そんな者が生き残る確率など、万に一つもあるはずがなかった。
けれど、なぜか私は生きていた。
死の淵で、私の魂を現世に繋ぎ止めたのは、神の慈悲などではない。
あまりにも深く、あまりにも黒い、純粋な「憎悪」だった。
(あの男を、殺すまでは。あの男のすべてを、奪い尽くすまでは。私は……私は絶対に死なない)
どれほどの時間が経っただろうか。
気がついた時、私は川の下流の、泥深い岸辺に打ち上げられていた。
「あ……、う、あ……」
声にならない悲鳴を上げながら、私は泥の中に指を突き立てた。
指の爪が剥がれ、血が滲むのも構わず、ただひたすらに身体を前に進める。胸の傷口には、ドロドロとした川の泥と、腐りかけた草が詰まり、言葉を絶するほどの激痛と高熱が体内を駆け巡っていた。傷口が化膿し、ウジが湧こうとも、私は生きることを諦めなかった。
壊れた身体を引きずりながら、私は何日も、何週間も、泥水をすすり、虫を食らい、ただ生き延びるためだけに這い回った。
かつてのみずみずしい肌は見る影もなく傷だらけになり、美しかった髪は泥と血で固まり、声は枯れ果ててけものの唸り声のようになった。
それでも私は生き残った。
一ヶ月後、私はぼろきれのような布を身に纏い、かつて私たちのギルドがあった場所へと戻ってきた。
そこには何も残っていなかった。
ただ黒く焼け焦げた地面と、崩れた石壁の残骸があるだけ。
町の人々は、誰も近づこうとしない。そこは「王家に逆らった愚か者たちの墓標」として、忌むべき場所とされていた。
私は灰の中に膝を突き、両手でその黒い土を掘り返した。
爪が割れ、指先から血が流れても、掘り続けた。
そして見つけた。
真っ黒に焦げ、半分に割れてしまった、あの木製の看板の破片。
不器用なギルドの紋様が、辛うじて認識できる。
それを見た瞬間、私の目から枯れ果てていたはずの涙が溢れ出た。
「みんな……、ごめんね……、ごめんなさい……っ」
私は看板の破片を胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。
私のせいで、みんな死んでしまった。私がもっと強ければ。私がもっと賢ければ。あの男の理不尽に、立ち向かうだけの力があれば。
悔しさと、悲しさと、圧倒的な喪失感が、私の心をズタズタに引き裂いていく。
だが涙は、やがて止まった。
悲しみの底から、ふつふつと湧き上がってきたのは、氷のように冷たく、太陽よりも熱い、狂気にも似た「誓い」だった。
私は立ち上がった。
抱きしめていた看板の破片を、静かに地面へと置く。
あの日、私の心臓を貫いたあの男の顔。私を虫けらのように見下したあの嘲笑。
あの男の名前、あの男の地位、あの男が愛する権力、そのすべてが、私の復讐の標的だ。
「奪われたなら、奪い返す」
いや、違う。奪い返すだけでは生ぬるい。
「すべてを、奈落の底へ突き落としてやる」
あの男が誇る地位を、名誉を、財産を、そしてその命を、最も残酷な方法で、じわじわと、跡形もなく破壊し尽くす。
そのためなら、私は悪魔にだって魂を売る。聖女の仮面を被り、泥をすすり、どんな汚しい手段だって使って見せる。
私は自分の「名前」を捨てることに決めた。
かつて、みんなが愛着を込めて呼んでくれたあの名は、あの炎の中に置いていく。
これからの私は、ただあの男を滅ぼすためだけに存在する、歩く復讐劇の主役だ。
胸の傷跡が、ズキリと激しく痛む。
それは私に、あの惨劇を、仲間たちの血の匂いを忘れるなと告げる、消えない呪印のようだった。
「待っていろ」
私は振り返ることなく、黒い灰の街を後にした。
足取りは確かだった。身体を支配していた絶望は消え去り、今や私の血管を巡るのは、復讐という名の極上の毒薬だけだった。
すべてを失った私の静かな復讐は、この日から始まったのだ。




