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トーキョー魔人界隈  作者: キノコェ
5章 2022年4月 シブヤ
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32/32

□○5-3 ノイズ

 □


 車でヨヨギ公園の横を南下する。シブヤセンター街方面の道路入り口には、鉄製のバリケードがずらりと立てられていた。バリケードの正面には「立入禁止」の大看板が掲示され、区の所管で管理されていることが書かれている。

 ハルトは運転していたバンを歩道に寄せて停め、ハザードを点灯させた。


「だいたいこのへんですね」


 シブヤの『魔界』にハルトは来たことがなかったが、意外にもそこは街の景観としてあまり違和感はない。バリケードの向こうの景色は暗くて人が居ないだけで、ビル群の激しい破損などもなく、都会のゴーストタウンを覗いているような様子だった。

 バリケードの手前では、普通に通行人も歩いている。


「やだもう……鼻がツラい……」


 後部座席ではリンカが唸り、ケンゴがそれをなだめている。トマリがシートに遺した血の匂いで体調を崩したらしい。ハルトとカギリはもう慣れてしまっていて、特に気にしていなかった。


「あのバリケード壊そうか」


 助手席のカギリが、車外を見ながら呟いた。


「……うーん」


 サクライ関連の人間は、マリアの言っていたバンの人間たちが七人程度。カギリが二人を拘束して、ケンゴは一応こちらにいる。クロイワやサクライが車に乗っていたかは不明。少なくともクズリなどの五人ほどは、まだキルカやマリアの誘拐に関与している。

 派手に動いていいものかは検討がつかない。


「ケンゴさん、ほんとに詳しいことわかんないんすよね? どんなやつが関わってるとか、シブヤにどんな拠点があるとか」


 ルームミラーを見る。ケンゴの前髪の一部はカギリの魔法で雑草に変わっていた。彼はそれをおそるおそるつまんでいる。


「オレらパシリだから知らねって。わかってんのはヒト。社長とさっきの俺ら社員が三人に、あとはクロイワとサクライってやつ。その他は顔も名前も知らねえし、何人いるかもわかんねえ」

「……まぁ。店にケンゴさん達使うくらいなら、たくさん手があるわけではないか……」

「ちょいバイト君なんか言った?」


 カギリが無言で後部座席に振り返る。「ひぃっ」とケンゴが息を吸った。

 ハルトは数秒ほど頬杖をついていたが、やめた、


「迷ってても仕方ないな」


 車をバリケードの前に進めて停車する。


「カギリさん」


 カギリがハルトを見る。


「車の邪魔になりそうなものはぶっ壊しちゃいましょう。シブヤの地面とかは陥没してるかもしれないので、運転は気をつけて行きます」

「見える範囲ならなんとかするよー」

「お願いします」


 カギリと以前二人で出かけたとき、車について『事故らないようにはできる』と言っていた。彼女の魔法は見たものを植物に変えてしまうのだ。実際にそれは可能なのだろう。


「ケンゴさんとリンカさん」


 曖昧な返事が背後に聞こえてくる。


「アプリで表示されてる場所あたり……シブヤのセンター街まで来たら、リンカさんの鼻でふたりの居る場所を特定したい。車停めたらすぐに降りて動きましょ」

「どんな感じで動くの」

「キルカとマリアさんはバラけてるかもしれないから、キルカを優先します。さっき渡したカチューシャでリンカさんが匂い追っかけてください」

「オレらだけで?」

「みんな一緒。俺たちはカギリさん頼りです。カギリさんがキルカを見つけられればそのまま指輪も取れる。一番簡単に話が終わります」


 ハルトはカギリを見る。落ち着いている様子だった。


「カギリさんは見張りみたいな人が居たら、店でやってたくらいの拘束をお願いしていいですか」

「うん。いいよー」


 カギリは眼鏡をかけ直す。


「キルカちゃん助けたあとは? オレら普通に、女の子担いで逃げられねえかんな」


 ハルトは上着のポケットの感触を確かめた。


「指輪さえ外せれば、あいつ自身がめちゃくちゃ強いんでたぶん大丈夫」

「そうだったわ」

「……それでもスムーズにいかなかったときは、二の手で『天秤』を使う。汎人の俺には使えないんで、魔人の誰かに使ってもらいます」


 ケンゴは運転席側に乗り出してきた。


「『天秤』ってなんだ?」


 ハルトはポケットにあるリングケースの位置を確かめ、取説の内容を思い出す。


「指輪をつけた魔人同士の力を分け合う指輪です。今はキルカしかつけてなくて、魔素の行き先がなくて拡散してるっぽい。だからキルカの指輪を外すか、誰かがキルカのそばでそれを付ければいい」


 ケンゴはとりあえずといった様子で頷いた。


「わけあう? 要するに指輪してりゃキルカちゃんのパワーがつくの? じゃあとりあえずオレに付けときゃよくね」


 ハルトは車のハンドルを握った。

 ケンゴを完全に信頼しているわけではなく、キルカの力が彼に渡ったときの想定はできない。キルカのそばにマリアが居る場合であれば、これを置いていった彼女に返すのが最も手っ取り早いはずだ。


「『天秤』は。指輪をつけた同士でそばにいないと、魔素が外に散らばって魔人の力は使えなくなる。だからカギリさんやリンカさんは指輪をしないほうがいい。……ケンゴさんも、ツノとかにどんな影響があるかわからないんで、とりあえず俺が持っておきます」

「なんだめんどくせえ」


 彼を無視してスマートフォンで時刻を確認する。朝九時をまわったところだった。


「というわけでさっそくセンター街に行きましょう。ケンゴさんはうちのオーナーの分くらい働いてください」

「あたりめーよ。首都高被害者の会なめんな」

「俺からしたら店の加害者かな」

「まじバイト君いい根性」


 さらりと返答するケンゴ。キルカ達の経緯をいくつか聞いたとはいえ、ここまで協力的に振り切れるというのも、彼なりの線引きの妙を感じる。

 すぐにハルトはアクセルを踏もうとした。

 しかし後部座席のほうでスマートフォンの着信音が鳴った。

 ごそごそと音がして、「やべえ」とケンゴは呟く。


「どうしました?」

「忘れてた。うちの社用携帯、居場所わかるんだった……」


 そりゃ配送業ならそうなのでは。

 と思いつつ、ハルトは短く息を吐いた。


「ケンゴさんが俺たちに付いてきてくれてんのはバレてないと思うんで、いったん適当に――」

「お疲れ様ですクズリ社長」


 打ち合わせる前に出てしまった。

 ハルトはあんぐりと開いた口から息を吸った。


「……はい……いえ、とりあえずグダったんで移動してます。車も放置っすよ、クロイワがあれっすから……」


 ケンゴは緊張した様子だった。


「違いますよ。他の奴らは知らねえ」


 しかし急に声が低くなった。


「……つーか社長、キルカちゃんのことなんか聞いてますか。けっこうあの子にも色々あるみたいっすけど」


 急に何を言い出すんだ。

 ハルトはハラハラしてルームミラーを見た。さっさと話は切り上げるべきだ。相手に情報を与えても仕方ない。

 じっとアイコンタクトを送っていたが、ケンゴは神妙な顔で足元を見た俯いたまやだった。


「知らないんすね。そりゃそうだよな」


 なんかやばい。ケンゴの隣のリンカも、鼻を抑えながら目を丸くしていた。


「……オレは聞いちまったから、今回のことはもう手伝いません」


 淀みなく言った。車内の全員の視線がケンゴへ集まり、ハルトはごくりと唾液をのむ。


「金もいらねえ。納得してもらえねえなら会社もやめる。だいたい、脅されてるからなんだっつーんだ……」


 ハルトはカギリを見たが、腕を組んだまま瞳を閉じる。


「――ぅるせっ、しらねーよ!」


 ハルトはハンドルに体を預けてうなだれた。


「あの店、みんな首都高のヤツでやられた人らなんだ! だったら放っておけるわけねーだろダセぇ入れ墨しやがって! オレはこれからキルカちゃん助けにいくんで! あんたに男気残ってんなら! もうちょい考えてくれよ!」


 言っちゃった。ハルトの鼻からは諦め混じりの変な笑いが出て、天を仰いだ。

 ケンゴはそのまま通話を切る。車の窓をあけ、路上に向かってスマートフォンを思い切りよく投げ捨てた。息を荒く吸い、自分の頬を手でこすって唸る。


「バイトくん車出してくれ。行くしかねえ、この件終わったら高跳びしてやんよ」

「もうすげーやケンゴさん。覚悟キマりすぎ。ほんとに尊敬。だせぇ入れ墨はヤバい」


 リンカはケンゴにしがみついた。


「うちのケンゴすごいでしょ。ホストもそんな感じで辞めたみたいなんだよ。客の女の子の面倒見てたら、店からお金の関係で怒られてキレたっていうの、こんな風だったんだ」


 ハルトは『姫』のひとりとしてそれはいいのか、と言おうとしてやめた。あまりにも余計なお世話だった。彼は元ホストではなく、『うちのケンゴ』らしいのだ。

 いちいち物事を想定しても動こうとしても仕方ないのかもしれない。ハルトは苦笑いになりつつ、しかし後戻りする気にもならなかった。


「疲れたかな。運転かわろうか」


 助手席のカギリは、ハルトの顔を覗き込んでくる。


「カギリさん運転しないでしょ。あえて言いましたよね」

「うん。へんな顔してたからねー」


 ハルトは足元のアクセルの位置を確かめ、右耳のイヤーカフの魔業に触れた。


「大丈夫ですよ」

「そっか」


 カギリは捲った腕をさすりながら、フロントガラス越しに鋼鉄製の白いバリケードを見つめた。


「行きましょう。さっさとキルカを連れ戻します」


 ○


「はぁ……」


 控室ではため息が繰り返されていた。

 ルナが怒りを見せてから、マリアとルナは会話をしなくなり、キルカも口を開く気にはなれなかった。

 ルナは手持ち無沙汰になったのか、スツールに座ったまま、ラベルの貼られていない水入りのペットボトルに手を伸ばす。控室にきたとき、彼女がクーラーボックスと共に持ってきたものだ。


「……飲まないほうがいいよ」


 マリアはちらりとルナを見て言った。

 ルナは小首を傾げながら、ペットボトルに口を付けようとする。


「その水には魔素がたくさん入ってる。そんな飲み物、いままで見たことないから」


 白い瞳がそれを見つめていた。

 ルナの手が止まり、手元をしばらく見てから、すぐに蓋を閉めてテーブルに置いた。キルカには単なるミネラルウォーターにしか見えなかった。


「これ、待ってるときに飲んどけって渡されてたんだよなー……」


 ルナはため息をつく。


「サクライさんはまぁ、安定してアヤシイんだけど。マリアさんに『需要』があるって話……ビミョーに納得しちゃったじゃん」

「なにが入ってるかはわからないけど」

「なにかが入ってるのはわかるわけでしょ? じゃあたぶんこの水はヤバいってこと。なんか、水だけ渡されるっていうのも変だしさ」


 ルナはまるで家にでもいるみたいに、だるそうに腕を組んだ。


「……いや、そうだ。それにしてもアレなんだよ」

「あれ?」


 マリアは顔をあげた。


「なんかサクライさんも色々ガバガバっていうか、ずっと変な感じなんだよね」

「変な感じなの」

「この水がヤバかったとしてもさ。わたしは貰っただけ大して強要されてないし。電話の感じだとマリアさんが魔素みえるのわかってたっぽいのに、結局ほっとくから速攻バレてるし。やってることがなんかザル」

「他にもそう、ってことかな」


 マリアも縛られているのを忘れたようにソファに座り直した。ソファが沈んで、隣のキルカも座り直す。


「もともとわたし、『女から指輪を奪って、それを使ってキルカを捕まえて、シン国に売る』って話しか聞いてないんだ。その女の子をそのまま拉致るなんて知らないから車から降ろさせたんだし、勝手に降ろすなとか言われても、知らねーわ、って言い返してたら、クロイワとかにもうるさく言われなくなった。ちなみに顔は一発殴られた」


 キルカは床を見つめる。


「あと二人のことも、目隠しとかすりゃいいのに見張ってろってだけ。さっきの電話だってみんな普通に話しててもなんも言ってこなかったじゃん? 誘拐すんなら黙らせろとか口にテープ貼れとか普通言うでしょ。え、言わない?」


 まあ気楽だからいいんだけど、とルナは呟いた。


「サクライさんって昔から『オレは頭脳派』みたいなノリだったから、あんまりこういうのやってきてないのかなって思ってた。なんだっけ? そーいう仕事の……その、ホー、ホーなんとか、ちゃんと報告しろみたいなの」


 キルカは口をひらく。


「……ホウレンソウ。報告、連絡、相談。昔よくいわれてたよ、あたし達みんな」


 するとルナは、力の抜けた表情でキルカを眺めた。


「あーそれだ。なつかし。他の奴らも聞いてないこと多いみたいでグダグダだし、たぶんクロイワとサクライさんだけだよ、ホーレンソーしてんの」


 さっきまで怒りを顕わにしていたのに、ルナは風船の空気が抜けてしまっているように張りがない。考えたことをそのまま垂れ流しているようだった。

 どこか昔みたいな調子で懐かしくて、キルカはなんとなく悲しくなる。


「急にヒト集めたってことかな……」


 マリアは呟く。


「ルナさんは、昨日とか今日のことっていつ聞いたの?」

「二週間前くらいにちょっと手ぇ貸せってサクライさんに言われてた。一回無視してたんだけど、彼氏が魔業の運び屋やってるから、それ警察にチクるぞって脅されて」

「ひどいね……」


 キルカは一年前のルナとの会話を想起していた。それは、当時と同じ彼氏なのだろうか。

 ルナはスマートフォンを見ながらショートヘアの前髪や襟足を触り、自嘲するように笑った。


「……そんでむしろ、サクライさんとわたしが繋がってんの知った彼氏のほうが、なんで元ヤクザと関わってんのってうるさくなってさ」

「うん」

「もともと彼氏は闇系だから、海外の奴らから仕事貰ってたりで、なんかこっちの悪いヤツとたまにぶつかってて」


 マリアは心配そうな表情になっていた。


「稼いだ金だって現金で管理してるから、一緒にいてもろくに使えなかったし。飲んだときには毎回バカスカ殴られてさ」


 笑いながら、左耳や顔の左側をおさえるように撫でている。キルカは以前、ルナの左側面ばかりが気になったのを思い出した。


「そんなん……、もう逃げてぇー、って。なっちゃうよね」


 マリアはルナから目を離さずに見つめている。


「そしたらさっきの話だよ。キルカ捕まえてわたしも一緒にシン国行けば、しばらくそっちに住めるし金もくれるって。それならなんかマシになるかもしんないじゃん? こっちにいて、彼氏とずーっと犯罪みたいのしてるよりは」


 キルカはなんだか嫌な鳥肌が立った。サクライがいまのようなルナにそんな話を持ちかけるのは、あまりに都合が良すぎる気がした。


「ルナさん、それって……」


 マリアは慎重な目線をルナに送っている。


「っつーわけで、わたしはキルカを助けない。マリアさんなら逃がしていいかもって思うけど、勝手に逃がしたら今回のハナシ、なくなるかもしんないし」


 キルカはこくりと息を飲んだ。

 ルナはひたすらに手元にある現実を見ている。そのような理由でそうしているのだというのなら、やはり自分が動くべきではないのではないか。

 ルナやマリアが一緒にいるなら、しばらくはこんなふうに話すことだってできるかもしれない。ルナだって、不満のあるいまの環境からは一旦離れられるのかもしれない。

 サクライの言うように今回ここから逃げて、また同じようなことが起きてしまったら。ルナすらいない状況でもっと酷いことになるかもしれない。

 今なら、そのうち。いくらか時間は経ってしまったけれど、あの頃の遊廓のときみたいに。


「…………」


 マリアと目があった。


「キルちゃん」


 どきりとした。

 眉間の奥が痛くなり、嫌な汗が出て目を逸らしてしまった。

 すぐにマリアに視線を戻すと、真剣な顔でこちらを見ていた。


「……私はお父さんに会わなきゃいけない。ルナさんは、シン国にいきたい」


 心臓が小さくなったみたいに苦しくて、なのに鼓動だけはうるさかった。


「それなら。キルちゃんはどうしたいかな」


 やめて、と言いそうになった。


「…………」


 そんなふうに訊かれるのはキルカに選択権があるからだ。

 力があって。状況を変えることができてしまうから、いざというときこんなことになる。それでも目を逸らしてはいけないということだって、キルカはわかっているつもりだ。

 わかってはいるけれど、簡単に答えられるものはない。


「キルカは選ばないよ」


 ルナはごすんと音を立て、テーブルにスニーカーを履いた足を乗せて組んだ。


「まぁ。かわいーキルカちゃんは、そういう風にしてりゃあ誰かが拾ってくれんのかもね」


 トマリの姿が浮かんで消える。

 キルカはしばらく黙って、それぞれまた話さなくなった。


「…………」


 選んでないのは事実だ。あのときサクライに声を掛けられたときも、外の音がしたからその場の選択を後回しにした。いまのカフェバー『みちる』での生活でも、ぶつかり合わないように生きていたのは事実だ。そこで新しくなにかを選択することなんてなかった。誰かを押しのけて生きられるほどの指針はないし、自分の責任で選んで生きていくのは、すごく大変だから。

 誰の呼吸の音もしなくなったとき、キルカは息を吐いた。


「……みんなに迷惑かけたくないのは、本当で」


 マリアは白い瞳をひらく。


「そんなこと訊いてない」


 一蹴だった。

 ルナはマリアに顔を向けた。驚いたような、ぽかんとした顔でじっと見たあと、気まずそうに眉をひそめる。

 マリアはキルカから目を逸らさない。

 彼女が嫌う、彼女自身のその白い瞳で、キルカを捉えて離そうとしない。


「私はキルちゃんがどうしたいかを訊いてるの」

「そんなの、きかれたって、さ……」


 それを答えてしまったらまた全部台無しになる。

 自分がうごくとき。なにかを願うとき。

 こうできたらいいなって、思ったとき。


「キルちゃん」


 マリアの瞳を見られないのがくやしくて、鼻の奥が痛くなった。

 結論もないのに何度もぐるぐると考えてしまうから、『そういうものなのだ』と本心から受け入れてしまいたかった。


 願ったものを失くすのはもういやだ。

 こんなことを繰り返していたらいつか本当に壊れてしまう。整理しきれない感情につぶされて過ごすのは辛いだけ。父を亡くしたとき。遊廓を追い出されたとき。帰る家がなかったときに抱えていたその暗いわだかまりは、ずっと消えてはいない。

 ふいにサクライの言葉がよみがえる。『女王蜂』だ。キルカは本当にその器なのかもしれない。余計なものばかりを集めさせて、ただみんなを疲れさせる存在。そんな女王蜂を欲しがるのは、歪みを手元に置きたい者たちだけ。

 もちろんそこにいるだれも、キルカのことなんて考えない。

 けれど、それならなにも望まなくていい。

 考えなくてよくなってさえしまえば。

 今より苦しくなることも、ない。


 乾いた口がひらいた。

 マリアとルナはなにも言わずにキルカを見ていた。

 キルカは拘束された両手で口元をおさえながら、何度か深呼吸をして、顔をあげた。

 めまいのように視界が揺れる。自分がどんな表情をしているかもわからないなかで、舌だけは勝手に動こうとした。

 泥の中にいるみたいに唇は重たくて、苦い唾液が顎を痛くする。

 息を吸った。


「……あたしは、あっちに行ったほうがいいんだよ」


 言い切ってから、うつむいた。


「本気でそう思ってるならこっち見て」


 見透かしているみたいに言わないで欲しかった。マリアだって、どうしてキルカがそう言うのかもわかっているのではないか。勝手に背負わされたって、どうにか背負ってみようとしたって、そのまま歩いていくのは自分なのだ。本心なんていうのは、ただ自分の勝手な思いを吐き出すことじゃない。

 キルカは強く鼻をすすった。

 一息にそれを吐き出すために。


「だから、あたしは……――!」


『――√――』


 右耳にノイズが聴こえた。

 指輪のせいで魔素は感じない。力も発揮できない。だからこの魔業はつかえないはずだった。ハルトにもらった魔業。右耳のイヤーカフ。

 そこから、音が聴こえた。


『そろそろ聴こえる距離じゃねーかな……』


「……ぁ……」


『――うわっ! ちょっと待ってカギリさんそこ! そこほんとにデカい陥没!』


 ほんとだー。


 なんて。


 気の抜けた声が、聴こえてきてしまった。


「……やだ……」


 いままでたくさん聴いていた声。むやみにさわがしい音。それがノイズにまみれて右耳をつつんでくる。

 つい昨日にも聴いていたそれは、これから聴けなくなっていくんだと思い始めていたのに。

 もう、願わないようにしたかったのに。


「やめてよ、なんで……」


 顔が熱かった。目の奥がずきりと痛かった。なにかをこらえたくて歯を食いしばった。

 マリアはなにか気付いたようで、キルカの右耳を注視しする。

 ぶるぶると歯を食いしばっているキルカを見て、マリアはくすりと笑った。


「なんでふたりして、こんなとこまで来ちゃうの……っ……」


 体の震えが止まらなかった。

 雪崩みたいに次々と一気に考えてしまった。

 まだキルカには小さな目標しかなくて。

 あそこに居ればそれを叶えられる気がしていて。

 だけどそんなのは叶えようとしてはいけないと、思いたかったのに。


「……マリー。マリー、どうしよう……」

「うん」


 マリアはキルカに寄り添わず、ただ頷いた。


「あたしだって……やりたいことくらい、あるよ……」

「うん」

「……色んな人に迷惑かけて。たくさん怒らせて。なぐったりなぐられたりして。たぶんもう、あたしにはこれが一生ついてまわってくる。……そうなっちゃうっていうのは、わかってるけど……」


 右耳のノイズはもうきこえない。もしかしたら偶然通じてしまったか、本当はなにも聴こえていなかったのかもしれない。


「だけど……そんなのかんがえるより、どうしてもやりたいこと、ちゃんと、あるよ」

「うん。聞かせて」


 マリアはキルカから顔を逸らして静かに頷いた。

 キルカはルナを見て、唾液をのみこんだ。


「……あたしは、みんなでランドに行きたい」


 あのときとは違うルナが、黄色の瞳でじっとキルカを見返してきた。


 言葉にしてみてわかった。

 誰かに何を言われたってどうしようもないこともある。

 受け入れなくちゃいけないことだってある。

 どこかで責任を持たなくちゃいけないことも絶対にある。

 だけどそれでも考えてしまう自分が居た。

 そうしたいから、こんなに身体がくるしいのだ。


「どんなに嫌がられても。予定、ぜんぜん合わなくっても……いつか絶対みんなで行きたいって、思ってるんだ」


 あのとき彼と話したこと。

 勢いだけで考えた、ばかみたいな思いつき。

 そんなことすら叶えられないのは、いやだった。

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