○5-1 シブヤ
2016年で時が止まっている。
壁に無数に貼られ、一部が床に落ちたポスター。ほとんどが2016年のイベント開催告知で、それ以降の年度は見当たらない。ポスターに書かれた音楽ライブやイベントの開催場所は、シブヤ周辺のものがほとんどだった。
部屋に窓はなく、外の音はほとんどしない。室内は黒いソファが二つ。黒い四角いテーブル。革張りの古びたスツールがいくつかあり、空のロッカーが二つ。
おそらく、シブヤのライブハウスの控室だった。
くしゃみが出た。室内はどこかかび臭くて埃っぽく、あまり人が出入りしている様子ではない。人がいなくなり廃墟化が始まっているようであるが、なぜか電灯は点いている。
キルカの両手両足は黒い粘着テープでぐるぐる巻きにされ、身体はろくに動かせない。這いつくばって移動しようにも、控室のドアの向こうには人の気配や足音がある。おそらく見張りがいた。
テープで見えないけれど、マリアの『指輪』はついたまま。本来のキルカならこんな拘束は簡単に千切れるのに、何度も力を込めても当たり前みたいにテープは千切れない。
気絶する前のルナやクズリの言動を思い返す。今回の出来事は確実にサクライが関係している。
そうであれば、クロイワもどこかで現れるかもしれない。
耳の感覚ではまだイヤーカフは付いていたけれど、彼からの声が聴こえてくることはない。シブヤなら、シンジュクからはそれなりに離れている。
彼やマリアは今どうしているだろう。
考えているうちに、ドアの向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「もう泣かないでよ……こまるんだけど……」
控室のドアが開いた。
ルナがマリアの腕をつかんでいた。ルナは黒ずくめの格好で、肩にはクーラーボックスを背負っていた。
マリアは太い結束バンドで両手首を縛られている。ルナは彼女を引き連れて、空いているソファに座らせた。
マリアは静かに泣いて、そのまま身体を横に倒し、顔をソファに押しつけ始める。
ルナはその金髪ショートヘアを掻き乱して、頭にある短いツノに触れながらキルカに振り返った。
「マリー……」
キルカがつぶやくと、ルナと目が合った。
ルナの左頬だけが、僅かに赤くなっていた。
「起きたんだキルカ」
不機嫌そうな表情を見せてくる。
「マリー泣かせたの」
「にらむんだ。『お友達』が泣いてたら怒るわけね」
ルナは鼻で笑う。
「こっち来てからずっと泣いてるよ。どうせクロイワになんか言われたんだ。あいつ、普通に頭おかしいから」
次には面倒くさそうに、マリーがすすり泣くソファの端に座った。
「……キルちゃん?」
マリアは顔を拭くようにソファにこすりながらキルカを見た。
「マリー、大丈夫?」
マリアはもぞもぞと身体を起こしてソファに座り直した。目元は赤く、涙でぐしゃぐしゃになって、目尻の黒いアイラインが崩れている。
「大丈夫じゃない……」
マリアは唇を強く結んで肩を落とした。
鼻をすすって、ため息をつく。
「私、もう要らないって」
キルカは首をひねった。なにか知っていそうなルナを反射的に見ると、ルナは眉間に皺を寄せ、左右に首を振る。
「洗脳できてるか『視る』ために私が必要だったんだって。だけど事情が変わったから、シン国に売られるって」
キルカには、なんの話かさっぱりわからなかった。
「お父さん……。私のこと、娘じゃなくて単なる道具だと思ってた。きっと昔から優しくしてくれたの、使いたいときに使うためだったんだ」
マリアの声が震えていた。
「そんな道具が、勝手なことして『普通の目』になっちゃったら……」
大きく開いた白い瞳から、ぼろぼろと大きな涙が落ちた。
「私、生きてる価値ないって」
キルカとルナは呆然として、ただ涙を流すマリアを見つめた。
もうやだ、とマリアはつぶやき、拘束された両手で顔を覆った。
しばらく何も言えなかった。ルナも状況をわかっていない様子ながら、マリアに近づいて寄り添うように座る。
かけるべき言葉はわからないけれど、キルカは乾いた口をひらいた。
「マリー。そんなこと言わないで」
「…………」
「あたし。マリーとまた会えて嬉しかったんだよ」
「…………」
「生きてる価値なんて、しらないよ……」
顔を伏せるマリアからの返事はない。
ルナはじっとキルカを見つめたあと、マリアに顔を向けて、自分の手首をつかんだ。
キルカは静かに息を吐く。
「洗脳……それに、シン国って」
状況はわからないけれど、このままシン国に売られるという道筋が立っているのかもしれない。
「ほんと、クソみたいな話ばっか」
ソファに座るルナは拳を握りながらぼそりと呟いた。床に置いたクーラーボックスから、ラベルのない水の入ったペットボトルを数本取り出して、テーブルに無造作に置いた。
飲めということなのかもしれない。
「ルナ。あたしたちこれからシン国に連れてかれるってこと?」
「そーだよ。あんたと、この子売るため」
「どうして」
「人の売り買いなんてよくあんでしょ」
遊廓でも話は聞いたことがあるが、そういうものは借金をしたり無断で飛ぼうとした人間や、特殊な経緯のある人間ではないのか。
マリアは窃盗を働いたといえるかもしれないが、とつぜん異国に売られるというのは急すぎる。キルカ自身にも、そんな心当たりはない。
「あとシン国にはわたしもついてくから、二人ともちょっと落ち着いてくんない? ずっと気ぃ遣うのも大変だし、もっと気楽にいこうよ」
「ルナも?」
ルナは前髪を撫でつけながらキルカを見た。
「だってもうしょうがないじゃん。あと一時間もしたらシン国からの『迎え』も来るし、あきらめよ? こんなクソトーキョーからオサラバ。さっさと切り替えなきゃ生きてけないよ」
「迎え……」
「あ。カボチャの馬車じゃないよ。どうせおっさんの臭い車ー」
ルナは細かい状況を話す気はないらしい。
「あたしのこのテープとか、外してはくれないってことだよね」
「無理だよ。それ取ったのバレたら絶対ヤバい」
キルカは全身がこわばり、なにを考えるべきなのかもわからなくなっていた。
すべてが急過ぎた。
ぜんぜん頭が追いついていかない。
ドアの向こうからはバタバタと歩く音がした。
ルナはその音のほうを見遣って、顔をしかめた。
「うわ、アイツかな……」
控室のドアが勢いよく開いた。
「くそっ! あいつ、やりやがって!」
銀髪のコートの男。右目を押さえたクロイワが息を切らして部屋に飛び込んできた。
キルカの座るソファにクロイワが倒れ込んできたため、キルカは拘束された身体で、彼から離れるようにマリアのいるソファへ飛びのいた。
「クソっ……クソ! いってぇ……っ! クソッ、ツノ貸せ女!」
クロイワは明らかに取り乱している。息が荒い。肩をいからせて、頭をやたら左右に振っていた。
「だる。はいはい。どうせ意味ないよ」
ルナはクロイワのいるソファに座りなおし、頭の二本黒いツノのうち、首を傾けて一本のツノをクロイワに差し出した。
クロイワは即座に、ルナのそのツノに噛み付いて舐め始めた。
「ちょっと、えっ……、きも、なに……」
キルカは思わずこぼしながら、呆然とその様子を見つめた。
ルナは不愉快そうに目を細めている。ずっと右目を押さえたままのクロイワに、両肩を押さえられながらツノを噛まれている。強く噛んでいる様子ではないが、歯でツノを削るような音が出ていた。
キルカは全身に鳥肌を立てた。
隣のマリアも、泣くのを忘れて呆然とそれを眺めていた。
「ちっ。クソ、まったく駄目だ。そりゃ、駄目か……」
クロイワは少し落ち着いた様子で、口の端からよだれを垂らし、床に唾を吐いた。ソファに座り直してルナに向けて手を振る。
「ツノ女。俺の顔ちょっと撮ってくれ」
「ルナだっつってんだろ」
そしてクロイワは、顔から手を離した。
キルカは息を飲んだ。ただその顔を見ただけで、彼のそれは『異常』だとわかった。
「えっ、ちょっとまって……えっ、なにっ、なに、なにそれ……!」
ルナは絞り出すような悲鳴をあげ。
キルカの隣のマリアも、「ひゃっ」と悲鳴をあげた。
ルナは片手を震わせながら、どうにかスマートフォンを取り出してクロイワに向けた。
「どうしたら、そんなんなるの……」
「知らねえよ」
クロイワの右目からは、毒々しい極彩色の花が咲いていた。
「あそこのオーナーやったら、『あの女』にやられた」
花はまるで彼の生命を吸い取るように、目の奥からどくどくと脈動している。花と根が眼球まるごと『置き換わっている』ようで、半分ひらいた瞼の隙間から、緑色の細い葉が睫毛のようにいくつも飛び出している。
「ヤバいってクロイワさん……それ、ほんとにヤバい」
ルナは数秒ほどその様子をスマートフォンで撮影し、クロイワに渡した。
クロイワは片手でそれをじっと観て、しばらく固まる。
「あーぁ……。これじゃ、姉ちゃんと同じ……」
次の瞬間、クロイワは身体の芯からこみ上げるような激しい唸り声をあげた。
右目をかきむしるよう、そこから飛び出している花を千切った。花びらが散った。クロイワは叫びながら千切るのを繰り返して、頭を何度も振り乱してソファにたたきつけた。
キルカもマリアもルナも、黙って身を寄せて座っていた。
やがておとなしくなったクロイワは、左目から涙を流して噎せ返った。
「んだよこれ……こんな花……!」
花と葉が、また目の奥からせり出してくる。
キルカは理解した。
カギリがクロイワに『花火の魔法』を使ったのだ。
カギリに、『あれを使わせてしまった』。
「クソ! クソ! クソッ! あの女……次に会ったら殺してやる!」
クロイワはその銀髪を荒々しく掻きむしった。
キルカは『みちる』に入店して間もなく、一度だけカギリのそれを見たことがあった。常連客と暴力沙汰になるくらいに揉めた魔人を、カギリはなにもせず、なにもさせずに無力化させていた。
あれはヒトに向けていいものではない。
そう感じたキルカは、カギリの花についてトマリに聞き、キルカが店内の揉め事を全部請け負っていた。トマリには『あまり気にしないように』と告げられていたけれど、そうはできなかった。
すこし抜けていて、ふだんはとても優しいカギリ。そんな彼女が無慈悲な暴力を振るうのが、怖かったから。
「……『オーナーやった』って、なに」
引っかかっていた言葉をキルカが呟くと、クロイワは睨みつけてきた。
「刺した」
「……?」
言葉を噛み砕くのに時間がかかった。
やがて、キルカは無理矢理立ち上がった。
「なんて言ったの」
クロイワは右目の植物をぶちぶちと千切りながら、キルカを睨んで苛立ちを露わにする。
「俺が刺した。耳ねぇのかクソガキ」
息が詰まった。
「…………」
ぎりぎりと手を動かすけれどテープが千切れない。
手も。足も。全力で身体をよじってもびくともしない。額に力が入りすぎて立ちくらみがした。
キルカを見ていたクロイワは、何か思いついたように微笑んだ。
「あぁ、そうだな。結構いったし死んでんじゃねえか」
「……なに、いってんの」
頭が熱い。クロイワを見下ろしている自分がいた。なにもできない自分が。なにかできるはずの自分が。
「あいつ、邪魔になりそうだったからな」
こいつに刺された?
きっとカギリは、だから咄嗟にクロイワに魔法を使った。そしておそらくそれは『たまたま右目だった』だけ。本来なら絶対にその程度では済まない。おそらくクロイワは『ポータル』を使っているから、こうして逃げてこられたのだ。
「……ふざけんな……」
キルカの口からぽつりと漏れた。目の奥が熱かった。
「お? なんだよ」
クロイワは右目から真っ赤な花びらを落として笑った。落ちた花びらを空中でつかんで、キルカに投げつけた。
キルカは身体の芯にむけて自分を潰すみたいに、全身に力を入れた。
しかしなにもおこらなかった。
喉が詰まるように苦しくなり、口がひらいた。
「その目……カギリさんに見られてやられたんでしょ。なさけな。それで、必死になって逃げてきたんだ」
なにもできないのに言葉だけは溢れてきた。
「えらそうな顔してあたしとかマリーのことさらって。コソコソうちのオーナー刺して、そのまま返り討ちにあったんだ」
クロイワは左目を見開いて笑っている。
「……サクライの下で使いっ走りがんばって、そんなことやってて恥ずかしくないの」
笑み浮かべたままクロイワは立ち上がった。
キルカの隣に座っていたルナも、静かに立った。
話しながら頭がどんどんこんがらがっていくのを感じた。言葉が出ていくたびに、胸の奥が重くなって、次々とそれを吐き出したくなった。
目の奥がびくびくと震えて、いたい。
「ほんとに……ほんとになんなんだよおまえ……、なんで、なんでおまえみたいなやつにトマリさんが刺されなくちゃいけないの……!」
クロイワはキルカの目の前に立ち、黙って見下ろしてくる。
蠢く右目の花、ゆがんだ左目が、キルカをじっくりと捉える。
「――そんな顔でにらまれたって関係ない! あたしは……あたしは絶対、おまえのこと……――っ!!」
クロイワは右手で素早く、喋っていたキルカの両頬を潰すように指で挟んできた。歯が、その指に潰された内頬に、ぎちりと触れた。
そしてすぐに左手から何かを取り出して、キルカの首に押し当てた。
「もういいか」
冷たい、硬い感触がした。
「誰のせいでこうなってんのかわかってねえのか」
ルナが一歩前に出た。キルカは首が動かせなくて、鼻から荒い呼吸が漏れる。
「俺の右目。お前のせいでやられてんだろ?」
「クロイワさん」
ルナが呟くがクロイワは無視した。
「それにそこにいる『白目』のガキも、昨日ボコったバイトのザコも」
マリアも、ハルトも?
「サクライさん蹴散らして逃げたお前のせいで、全部噛み合わなくなってめちゃくちゃになってんじゃねえのか? あ!?」
クロイワは、キルカの頬を潰す指に力を込めた。
痛くて、顔を離したくて、だけどそうするともっと痛くなる。頬越しの指に噛みつけもしない。頭突きもできない。
唾液を飲んだ。こくりと動いた喉に、冷たい感触が触れていた。
「……あー、違うな。そもそもだ、そもそも……」
クロイワはキルカの顔を押し上げるように力を込めてくる。
首が硬くこわばって縮み、息ができなくなる。
「お前のイカれた母親と、無駄死にした親父のせいか」
「……!!」
「クロイワさん。もういいでしょ」
ルナはクロイワの手首をつかんだ。
キルカの頬を掴む力が弱まって、キルカは首を振ってクロイワから離れた。
身体がふらついて、腰が抜けたみたいに背後のソファにぼすんと座った。マリアがすぐにキルカに身を寄せてくる。
つい呼吸が荒くなった。何を言われたのか忘れないよう、落ち着くためにたくさん息をした。
クロイワはキルカの首に押し付けていた左手のスマートフォンをポケットに入れる。つまらなそうにキルカを見下ろして、次にはルナを睨みつけた。
「なんだよツノ女。お前には何しても誰も文句言わねえんだぞ」
ルナは無表情でじっとクロイワを見つめた。
だめだ。
キルカは混乱しながらも、クロイワに向かって尚も立ち上がろうとした。
すると隣にいたマリアが、拘束された両手をキルカの前に伸ばし、キルカが立つのを制してきた。
「キルちゃんおちついて」
小声で優しい声で囁いた。
「マ、リ……?」
しかしマリアは、キルカが今までの見たことのない表情で、化粧をくずして、涙を流しながらクロイワを見あげていた。
静かに深く、肩で息をして。
眉間に深い皺を刻んで、顎に力を込めて震えていた。
そんな顔しないでと、言いたかった。
ソファに座るキルカとマリアをよそに、ルナとクロイワが睨み合う。
その間もクロイワの右目に生える花は、もぞもぞと蠢いていた。
「どうせ船んなかは暇なんだ。役割もないお前を身綺麗にしとく理由はねえんだよ」
クロイワはルナの金髪のショートヘアを頭のてっぺんから鷲掴みにした。そのままルナの首を持ち上げるようにして、じろりとその首に鼻先を寄せる。
「キモい顔で見んな」
ルナは怯まない。クロイワはあからさまに馬鹿にした笑顔を見せつける。
「あそう? だったらその生意気な顔――」
スマートフォンが鳴った。
クロイワはルナの髪を掴んだまま、すぐに自分のスマートフォンを手に取った。
「――はい俺。……はい…………は、い……」
クロイワは一瞬、時間が止まったように静止した。
「はい! はい、すみません!」
次には瞳を丸く見開いて、ぱっとルナから手を離す。
「はー、なるほどそうですか! わかりました急ぎます! 勿論ですよすぐ対応します!」
背筋を伸ばしている。
その異様な切り替えの速さにキルカは鳥肌が立った。
つい先ほどの怒りや尊大な態度が『まるで存在しなかったかのように』、あからさまに舎弟ぶった、芝居がかった素振り。
ヤクザや半グレの下っ端は遊廓時代にも見てきたが、クロイワの態度はまさにそうだ。それが右目の花を蠢かせているから、あまりに不自然で気持ち悪い。
「……了解です! 大丈夫です、こっちもやられてますから」
その返事が面倒な客の相手をしているハルトみたいだと思って、キルカは余計に不快になった。
「え? ……あー、ルナ? いますよ。出れると思います。はいはい、じゃ、よろしくお願いしまぁーす」
クロイワは通話を切ってスマートフォンを仕舞い、正面にいたルナの肩を軽く突き飛ばしながら、控室のドアに向かう。
「……ツノ女。ちゃんと見張っとけよ」
「知らねーよ自分でやんな」
「おいてめえマジで……。すぐ電話くるから出ろよ」
クロイワはため息をついてから控室を出ていった。
ドアの外の廊下のすぐそばに誰かいたのか、何かしらを話をして、すぐに早歩きする音が遠くに離れていった。
「あー、もう」
ルナは深くため息をつき、革のスツールにどすんと深く腰を下ろした。
黒ジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。唇を強く結びながら、クロイワに乱された金髪ショートヘアを手櫛で荒々しく直した。
「ねぇ、ルナ」
「なに」
キルカが声をかけると、ルナは面倒くさそうに天井を見上げた。大きく口をあけて、熱のこもった息を吐く。
「……逃げたほうがいいよ。なんかごちゃごちゃしてるっぽいし、うまくいけば逃げられるんじゃないの。こんなの付き合ってたら、ルナがおかしくなっちゃうよ……」
キルカは思ったことをそのまま口にした。
ルナは何度か頭をかきむしって、キルカを睨んだ。
「そうじゃないでしょ」
ルナはがっかりしたような表情で言った。
キルカは急に心臓が縮んだ気がした。
遊廓にいたとき、同じ言葉を言われたことがあったから。
「っ……。だって、っ、さっきの話してる感じ、なんか絶対ヤバいじゃん。このままじゃ、ルナまで……」
ルナは拳を握った。座っている自分の膝上あたりを、その拳で何度か叩いた。
キルカはなにも言えなくなって、少しの間うつむいてから、ルナの顔を見た。
不貞腐れたような表情と目があった。
「キルカは。わたしは関係ないから、こっからさっさと逃げたらいいって言ってんの」
「ちがう、そうじゃないよルナ……、そうじゃなくって……ルナが……」
「……そうじゃなくないんだよ」
言葉がまとまらない。このままこうしていても絶対に悪いことしか起きない。さっきクロイワに言ったみたいに、勝手に口が動けばいいのに。
「ルナ……」
ほどなくして、ルナのスマートフォンが鳴った。
「はいルナ」
スマートフォンを耳に当てた。
「あー、はい。わかりました」
ルナは髪をとかすように手で撫でつけながら、またため息をついた。
並んでソファに座るキルカとマリアを見て、座ったままテーブルに身を乗り出し、スマートフォンを置いた。
「はいサクライさん。スピーカーにした」
キルカが目を丸くしてルナを見ると、ルナは口を閉じたまま、腕を組んで背筋を伸ばしていた
マリアがキルカの腕を軽く掴んでくる。
『元気にしてたかよ、キルカ』
適当に他人を見下しているような、軽薄な声が聴こえた。
久々に聞いたその声は、あのときからぜんぜん、変わりがなかった。




