第十九話 神の呪い
やはりと言うべきか、家の中は明かり一つない暗闇だった。
元の世界なら蛍光灯のスイッチを探すところだが、こちらではそんな都合のいいものはない。勝手が分からない他人の家を手探りで進むのも無謀だ。
こういうときに便利なのは、やはりあの呪文である。
「光の如く」
暗唱できるほどに馴染んだ呪文を唱え、小さな光球を作り出す。
玄関の近くにマリアエレナの姿は見当たらない。断続的に聞こえる呻き声を辿って奥に進むと、玄関と同じく半開きの扉に行き当たった。
「マリアエレナさん。大丈夫ですか?」
光球を引き連れたまま扉を開ける。眩い光に照らされた部屋の中央に、誰かがうずくまっている。
いや――“何か”が、だ。
人体の半分をのたうつ蛇のようなモノが覆った何か。変貌した左半身には瞼のない眼球や牙を持つ裂け目が幾つも生え、それらの裂け目、いや、異形の口が呻き声の輪唱を繰り返していた。
その輪唱はまるで呪文のように、歌のように。俺の本能的な恐怖心を執拗に逆撫でする。
首が動き、人間の形を残した右半分の目と視線が合った。
マリアエレナだ。マリアエレナが苦しそうに顔を歪めている。その顔に驚きの色が浮かび、そしてすぐに怒りに染まった。
「……ッ! 見ない、で……! 見るな!」
異形の左腕が振り抜かれ、俺の身体と光球を鞭のように薙ぎ払う。
「がふっ……!」
受け身も取れずに薬品棚に叩き付けられる。ガラス張りの戸棚の向こうで薬瓶が暴れる音がした。
光球が弾け消え、部屋が再び暗闇に満たされる。
背中を打ったせいでまともに呼吸することもままならない。
何とか息を整えようとしていると、触手が右の足首に絡みつき、俺の身体を部屋の中央まで引きずっていった。
密度の高い重さが腹の上にのしかかり、小さな手の感触――人間の手が俺の首を掴む。
俺はしばらくの間、その手が俺の首を締めようとしているのだと気付くことができなかった。あまりにも力が弱々しく、しかも手が震えていたので、危害を加えられている気が全くしなかったのだ。
「見られ、た……見られ……」
熱い雫が頬に落ちる。マリアエレナは泣いていた。唯一残った右側の人間らしい目から涙を滴らせていた。
俺の中から恐怖心が急速に薄れていく。
奇怪な呻きは今も聞こえている。確かにそれは不快だ。本能的な嫌悪感と言ってもいい。
けれど、その嫌悪感をマリアエレナにも向けようという気にはなれなかった。
「……ごめんな」
謝罪の言葉が自然と口を突いて出る。状況はまるで分からないが、悪いのは俺の方だ。そもそも勝手に家へ上がり込んだのが悪い。それだけは間違いない。マリアエレナには何の非も無いのだ。
そして俺は、マリアエレナが見られたくなかったものを見てしまった。苦しんでいると誤解したという理由はある。だがそれでも謝るべきだ。
「勝手に入ったりして悪かった。だから、一旦降りてくれないか……?」
首に掛かる圧力が緩んだ。
「……これが……神の呪いに、背いた……末路」
変貌が喉にまで及んでいるのか。マリアエレナの声はひどく歪んでいた。
「日が沈め、ば……人として……生きられ、ない……」
一言一言、普段以上に絞り出すように、マリアエレナは語り続ける。
「マリアエレナも、ノルンに?」
「違……う……」
「私、は……隣の国から……逃げて、きたの……。それが、裏切りだと……」
暗いせいで見えないが、首を振っている気配がした。
「腕利きの魔法師なんだろ。どうしようもないのか」
「無理、ね……。神の力には……抗え……ない」
予想通りの返答だ。自分の力でどうにかできるなら既にやっているだろう。どうしようもないからこそ、マリアエレナはこうして苦しんでいるのだから。
「そのこと、フィオナは知っているのか?」
「え……え……」
あらゆる疑念が氷解した。家の周りを兵士に見張らせているのは、こうなった自分が外に出てしまわないようにするため。神の呪いとその反動を知っているのは、他でもない自分自身の実体験だから。
ひょっとしたら、フィオナが俺にここへ来ることを勧めたのも、俺が神の呪いを受けていると疑ったからなのかもしれない。
表向き、俺は記憶を失ったことになっている。
神の呪いの存在を知っている人なら『神に呪われたことを忘れているのではないか』『そのせいで知らないうちにタブーを犯してしまわないか』と不安に思ってもおかしくない。
「離す、から……すぐに、逃げて……。いつ、理性が、消えるか……分から、ないから……すぐに……」
「分かった。その前に、一つだけ試しておきたいことがあるんだ」
この変貌が偽装や変身に類するものだとしたら。
女神から与えられた力なら、神の力に抗えるとしたら。
「輝ける拘束の鎖」
触手の束と化したマリアエレナの左腕に光の腕輪を嵌める。
「あ、ああ……うあ……!」
腕の口が発する呻き声が薄れ、触手が震えながら縮んでいき、腹に掛かる重みもどんどん軽くなっていく。
変化は十秒と掛からずに終わり、俺にのしかかる重みも華奢な少女の体重程度にまで落ちた。
果たして俺の目論みは上手くいったのか。確かめるためには光が必要だ。
「光の如く」
淡い光球がマリアエレナの身体を照らし出す。華奢な四肢。透き通るように白い肌。細い腰と、ささやかな胸の膨らみ。下に隈の浮かんだ二つの瞳。
そこにあったのは、人の形を取り戻したマリアエレナの裸体だった。
「戻っ……た……戻れた……! 戻れた!」
裸から目を背ける暇もなく、覆い被さるように抱きつかれる。
約得だなんて思う精神的な余裕はこれっぽっちもない。かといって振り払うなんてとんでもない。
俺は石像のように固まったまま、マリアエレナが落ち着くのを待つことしかできなかった。




