おいなりさま
むかしむかしの、すこし昔のお話し。
ほんの瞬く間の出来事。
目の前に現れた真っ白な狐。艶やかな毛並みに覆われた3つの尾。
その場で腰を抜かした男に、狐はまるで人間がそうするように、口角を持ち上げた。
「不味そうな人間よ。貧相な供え物もさることながら、腹の足しにもなるかどうか……」
「お、お待ちくだせぇ! お供えが足りないとあらば、すぐにでもお持ちいたしやす!」
地を這うような低い声音に男はぎょっとした。慌てて額を地面に擦り付けて叫ぶ男へ、白い狐は目を細めた。
「ほおほお。そのほう、我が満足できる供え物を用意できると申すか」
「わ、わしは豆腐屋でして……」
「まさか貴様、我が油揚げ程度で満足するような、低級な狐どもと同じとは思うておるまいな」
さぁ、と男の顔が青ざめた。がたがたと小さく丸まった背が震えだす。
「愚か者め……! あの様な薄っぺらいもので、この見目にも麗しい我が満足するはずがなかろう……!」
途端に狐は、3つの太い尾を広げ、牙を向いた。男は平に謝り続ける。風もないのに木々がざわざわと騒いだ。
「お命だけは……! どうかお命だけは……!」
「貴様……! 豆腐屋でありながら! 我にいなり寿司の1つも出せぬと申すか……!」
我はいなり寿司を欲しているのだ!
狐はごろんごろんとその場で転がり回った。
「いなり寿司じゃ! 我はいなり寿司が食べたいのじゃ……! 油揚げだけでは足りぬ! 甘辛く煮込んだお揚げと、それを引き立たせる酢飯の絶妙な割合を所望しているのだ……! 油揚げではない! いなり寿司を供えよ……!」
嫌じゃ嫌じゃ! 我はいなり寿司が食べたいのじゃ! いなり寿司を所望する! いなり寿司じゃ! いなり寿司じゃ!!
白く艶やかな毛並みが乱れるのも構わず、狐は男の前で駄々をこね続けた。
「お前さん……お稲荷さまでなく、他の悪どい狐に化かされて、からかわれてやいないかい……?」
「かもしれんがなぁ……」
妻から手作りのいなり寿司を受け取り、男はもう一度、稲荷の社へ供え物をするため家を出た。
その年。男の畑は、たいそう豊作だったそうな。