安定志向の山田さんによる異世界転生(改稿前)(2)
(10)
木こりのイゴッソは、怠け者である。
カロン村では、木こりと石切り職人は特別扱いされていた。
ともに六百年前に現れた伝説の勇者、シェモンに関係のある職業だからだ。
特にイゴッソの仕事場である“シェモンの森”は、その名の通り、勇者の指示により作られた森で、歴代の木こりたちが大切に管理してきた。
イゴッソは伝統ある家系の跡取りだったのである。
だが彼は、幼い頃から自分の使命が窮屈だと感じていた。
森の中を歩き、木々の健康状態などを確かめる仕事は楽なのだが、樹木を伐採し、薪や炭を作る作業は嫌いだった。
もっと広い世界に出たい。こんなちっぽけな村など見捨てて、都会で楽しく暮らしたい。
そんな妄想を抱きつつも、実行に移す勇気もなく、また自己を研鑽することもなく、ただただ年を経てきたのである。
木こりは二人、ないしは三人で行う仕事だった。
イゴッソの場合、父親ととともに勤めてきたが、その父は出稼ぎに出てしまった。初老といえる年でありながら、皆が嫌がる役目に志願したわけは、イゴッソのためだという。
『ワシがおるから、お前は甘える』
イゴッソの父親は、寡黙で頑固な男だった。
束の間の自由を手に入れたイゴッソだったが、自分を変えることはなかった。うるさいお目付役がいなくなったとばかりに喜び、適当に仕事をこなしつつ、お気楽に過ごしていたのである。
そんな折、村長のヌジィからイゴッソに報告があった。
イゴッソの父親が戻るまでの臨時的な措置として、木こりをひとり増やすという。
名前はギーチ。最近何かと噂になっている異国人だった。
木こりは家系に与えられる職務だが、本人が病気や怪我をしたり、その家に跡取りがいない場合などには、村長が任命した別の人間があてがわれることがある。
そんなもの必要ないとイゴッソは断ろうとしたが、思いとどまった。
最近、薪の量が足りない、切り方が雑すぎる、乾燥のさせ方が甘いなどと文句を言う村人たちが増えてきており、この男を間に入れることで非難をかわそうと考えたのだ。
イゴッソは怠け者だが、怠けるために知恵をめぐらせる得意だった。
臨時の木こりは、家族を連れてやってきた。
清楚で可愛らしい妻、そして四人の子供たち。
恵まれた職についていながら、三十代の半ばにして結婚もしていないイゴッソは、忌々しいやつだと逆恨みした。
妻のネネという女が通訳をするらしい。今日は初日なので、子供たちとともに挨拶にきたのだという。
「ふんっ、木こりの仕事はつれーぞ。そんなひょろい身体で務まるのか?」
イゴッソは儀一を品定めするように観察した。
日焼けもしていないし、身体つきも頼りない。斧に振り回されそうである。
男の妻が「できるだけ頑張ります」と、通訳してきた。笑顔も断然かわいらしい。
この男をコキ使ってやろうと、イゴッソは思った。
まず案内したのは、村の中央にある寄り合い所。その裏手には倉庫が併設されている。
「ここに切り出した薪を積み上げろ。そうだな、だいたいこれくらいの高さまでだ。十日に一度、村の奴らが薪を取りにくる。配るのは村長の役目だから、期日までに薪を入れるだけでいい」
次の配給日は三日後。
薪の量は、まだ半分くらいしかない。
「よし、さっそく森に木を切りにいくぞ」
今日は挨拶だけだと思っていたのだろう。意外そうな顔をした儀一を見て、いい気味だとイゴッソは思った。
地馬に荷車をつけて、斧と鉈、そして苗木を積み込む。地馬とは六本足の頑強な馬だ。足は遅いが力は強く、バランスも安定している。
物珍しかったのか、子供たちが興奮してはしゃいだが、ねねがひと声かけると、「はーい」と返事して、大人しくなった。可愛らしいだけでなく、しっかり者らしい。
森へ向かう道中、ねねは儀一の側を片時も離れなかった。夫婦仲はよいようだ。
この男につらい仕事を全部押しつけてやろうと、イゴッソは心に決めた。
今年の伐採領域、森の南東側に到着する。
「いいか、ギーチ」
弟子を諭す師匠のような態度で、イゴッソは説明した。
「三日に一本は木を切り倒せ。でないと村の薪が足りなくなる」
伐採した樹木は枝葉を落とし、持ち運びできるくらいの大きさに切り分けて、荷車に積む。そして最後に苗木を植えて完了だ。
「細い枝や乾燥した葉も、火つけの時には役に立つ。ちゃんと村に持ち帰るんだぞ」
イゴッソは地馬と荷車を切り離した。
「オレには森の見回りという大切な仕事がある。しっかり手入れをしないと、森は機嫌を悪くして、どんどんやんちゃになっていくからな」
これは父親の受け売りである。
「見習いの木こりは、手と足で木を運ぶ決まりだ。せいぜい頑張りな」
そんな決まりなどない。
イゴッソは地馬の背中に飛び乗って胡座をかくと、ひらひらと手を振りながら森の中へ消えていった。
予想以上にひどい待遇だったが、監視されるよりはやりやすいだろうと、儀一は考えた。
「儀一さん、木の切り方も教えてもらえませんでしたが、だいじょうぶでしょうか」
心配するねねに、儀一はとりあえず頷く。
「一度、やっていますからね」
“オークの森”でのサバイバルの時、崖の手前で追い詰められた儀一たちは、大木を切り倒して丸太の橋を作ることで、絶体絶命の危機を乗り越えたのである。
正直なところ、それほど自信があるわけではなかったが、不安そうな顔をしたところで意味がない。うまくいかなければ、また考えればよいのだ。
「じゃあみんな、始めるよ」
「はーい!」
「……」
蓮、蒼空、さくらの三人は気合十分だが、ただひとり結愛だけは大人しかった。
この森で木を切り倒して、加工し、乾燥まで済ませてから、直接寄り合い所の倉庫まで運ぶ。最後に荷車をイゴッソに返すというのが、一番無駄のない工程だと思われた。
直径五十センチほどの樹木に狙いを定める。
まずは蓮。
「光斬剣!」
「全部は切らないように。パックマンの口みたいな切れ込みを入れるんだ」
「パックマンて、なに?」
儀一が蓮の右手を操りながら、慎重に切り込みを入れる。魔力の消費効率を考えて、二本連続で処理する。
次は蒼空。
「風打槌!」
風の塊が幹を叩き、
「みんな、気をつけて!」
軋み音と地響きを立てながら、樹木が倒れた。
こちらも連続で二本分処理する。
すぐさま儀一は、蓮の光斬剣で枝葉を切り落とし、幹を切断した。さらにピザをカットする要領で分割していく。あらかじめ薪のサイズを計っていたので、迷いがない。
続いて少し開けた場所に穴を掘る。これも効率を考えて、複数個所。熱を冷ます待ち時間を発生させないためだ。
マンションから持ち出したマスク、軍手、ゴム手袋をして、全員で薪や枝葉を運ぶ。
薪を地面に埋めて土を被せると、いよいよ結愛の番である。
「乾かした薪と炭を両方作ろうか。結愛君――」
だが、結愛は返事をしなかった。
こうなることは分かっていた。
でもやりたくないとは言えなかった。
あの時の光景が蘇る。
地面が真っ赤に染まって炎が吹き出す。
何もできず、何も考えられなかった。
唇をかみ締める。
気持ちが前に出ない。
魔法の練習をしている時も、結愛だけは参加しなかった。
少女の心情を、ねねは察していたようだ。
「儀一さん。あまり結愛ちゃんに無理をさせなくても」
ほっとしたのも束の間、
「いえ――」
儀一が結愛の前にしゃがみ込んだ。
結愛は怯えた。
儀一を失望させたと思ったのだ。
“オークの森”で自分たちを命がけで守ってくれたのに。お返しに、いっぱいお手伝いをしようと心に決めたのに。
怖がりだから。
勇気がないから。
何も、できない。
さっと儀一の手が上がって、結愛は目をつぶった。
「結愛君は、そんなに弱くないですよ」
予想に反して、優しく頭を撫でられた。
恐る恐る目を開けてみる。
「思い出して。君は“オークの森”で、誰の力も借りず、火の魔法でねね先生を守った」
まだ儀一に出会う前、二人組みの男に襲われた時。
そして三体のオークに襲われた時。
火の魔法を、結愛は自らの意思で行使したのだ。
「それは、勇気がなければできないことだよ」
穏やかな言葉が、身体の芯を揺さぶる。
「君は、魔法を使うことが怖いんじゃない。自分の魔法で他の人を傷つけてしまうことが怖いんだ」
――そう。
儀一に庇われた時、その背中が燃えてしまうのではないかと結愛は思った。
初めて怖いと思った。
誰かを傷つけるくらいなら、こんな力なんていらない。
「でもね、結愛君」
儀一は結愛の肩に手を置いた。
「君が魔法を使ってくれたから、ねね先生は助かった。僕たちは“オークの森”を抜け出すことができたんだ。そしてこれからも、きっと誰かを――結愛君の大切な人を、守ることができる」
「……」
「その時のためにも、君はいっぱい練習して、知っておかなくちゃいけない。炎の魔法の大きさと、強さを」
叱られていると、結愛は感じた。
ここで逃げ出してはいけないのだと。
「だいじょうぶだよ」
儀一は立ち上がると、薪を埋めた場所を指差した。
「今回は、薪に被せる土の量を増やしているし、炎の逃げ道として、穴をひとつ開けているからね。それに――」
儀一は微動だにしなかった。
「僕がいる限り、誰にも怪我なんかさせない。約束するよ」
「……」
結愛は何故か泣き出しそうになった。
だが、唇をひん曲げながらも、涙を堪えた。
「やる!」
怒りとも違う。悔しさとも違う。
何か形容のし難い熱いエネルギーが、小さな身体の奥底から沸き起こってきた。
「ゆあちゃん、がんば!」
さくらの応援に、こくりと頷く。
だいじょうぶ、すぐ隣には儀一がいる。
オークの森で儀一は命をかけて結愛たちを守ってくれた。その儀一が言うのだから、絶対に間違いなんて起こらない。
目標地点に狙いを定めて、一直線に杖を突き出す。
「――火炎球!」
地面から吹き上がる炎の渦を、結愛はきっと睨みつけた。
「のーむ!」
地面が盛り上がり、土偶のような土人形が出現した。
土の精霊、グーである。
「グーちゃん、お荷物、引っ張ってくれる?」
炭についてはかなりの熱を持っていたため、とりあえず発火で乾燥させた薪だけを村に持ち帰ることにする。
直径五十センチ、高さ十メートルはあろうかという樹木一本分。
水分が抜けて軽くなってはいるが、とても人の手では引けない重量だ。
しかしグーは、ゆうゆうと荷車を引いてみせた。かなりの力持ちである。
グーの左肩には蓮、右肩に蒼空。
そして背中にはねねが乗り込んだ。
儀一と結愛とさくらは荷車に積んだ薪の上に座っている。
少しバランスが悪いので、儀一が二人を支える形だ。
薪の作成に要した時間は、約一時間。往復の時間を入れても二時間足らず。
一日三回は通えるだろう。
目算ではあるが、二回分もあれば、寄り合い所の倉庫をいっぱいにできるのではないか。
これで村人たちに薪や炭が行き渡るだろうし、もちろん自分たちの分も確保することができる。
これから少しずつ気温も下がってくるだろう。
石造りの粗末な家と薄いシーツでは、子供たちが凍えてしまうかもしれない。広間には暖炉があるので、そこで火を焚いて、寒さをしのごうか。
そして、炭の使い道だが……。
「ね、おじさま」
今後のことを考えていた儀一は、結愛に呼ばれて我に返った。
「なんだい、結愛君」
「へへぇ」
結愛は儀一の肩を両手でつかむと、
「――大好き!」
その頬に口付けした。
「あ~っ」
それを見ていたさくらが、頬を膨らませた。
「ゆあちゃん、ずるい! さくらもちゅーする!」
「うわっ、さくら君。危ないから……て、あれ?」
「ちゅー」
「えっ、あたし? きゃー」
どたばた動き回る少女たちと、間に挟まれた途方に暮れている儀一の様子を、グーの肩に乗っていた蓮と蒼空が、じと目で見つめるのであった。
(11)
カミ子の窃盗疑惑を審議した“村会議”から、一週間。
カロン村での儀一たちの立場は、少々複雑なものになっていた。
タチアナとトゥーリの説得により、若い世代の主婦たちはおおむね好意的に接してくれるようになった。
ねねと子供たちがいたことも、大きかっただろう。儀一ひとりだけだったならば、打ち解けるのにもっと時間がかかったはずだ。
村の子供たちに関しては、順応が早かった。
食べ物がもらえるということで、朝十時になるとわらわらと寄り合い所に集まってくる。
「ネネおねーちゃん、あーそぼ!」
お目当は、おにぎりだけではなかった。
保育士の資格を持っているねねは、村にはあまりいないタイプのお姉さんだったのである。
十代の半ばくらいになると、村の女たちは子供の遊びを卒業する。周囲から大人として認識され、よい相手を探すために、子供っぽい行為を慎むようになるのだ。
だが、ねねは違った。
いっしょに遊んでくれるし、聞いたこともない歌を教えてくれる。
特に女の子たちには大人気で、べったりくっついてくる。
男の子たちは蓮と蒼空とともに行動するようになった。
時おり寄り合い所を抜け出して、石材置き場に行ったりもする。少年たちにとって、ひげもじゃのランボじいさんは、からかい甲斐がある相手だった。石材の上に登ったり作業場に忍び込んだりして、カミナリを落とされるのもしばしばだ。
一方で、他の村人たちは警戒心を緩めなかった。
村会議で面子を潰される形となったドランたちが、カミ子の窃盗行為を吹聴して回ったからである。
特に老人たちは閉鎖的な気質もあり、道端で出会っても挨拶もせずにそそくさと逃げ出す者もいた。
「あいつら、インチキしてやがる!」
村で唯一の酒場で愚痴をこぼしたのは、木こりのイゴッソである。
儀一が臨時の木こりになって以来、村人たちへの薪の配給量が増え、またその質も良くなった。不思議に思ったイゴッソが伐採地をこっそり覗き見したところ、儀一が子供たちに魔法を使わせて薪を作っていたことが判明したのだ。
「あんなのは木こりじゃねぇ。今に見てろ、勇者様がお怒りになるぞ!」
そう言って、酒場の女主人や客の不信感を煽ろうとしたが、彼の発言は効果がないばかりでなく、完全に無視された。
村で唯一の木こりということもあり、これまで村人たちはあからさまに不満をぶつけることができなかった。
しかしイゴッソがいなくても薪に困らないことが分かったので、誰も気を遣わなくなったのである。
そんな雰囲気をひしひしと感じて、イゴッソはいじけた。
しかし彼は、儀一を追い払って自分の職務をまっとうしようとは思わなかった。
「どうせやつは臨時の木こりだ。それまでは、せいぜい楽をさせてもらおうか」
イゴッソは儀一との接触も避けるようになり、森の管理という名の散歩に逃げ込むことになる。
結愛の魔法、火炎球で作った魔木炭を一番喜んだのは、ドワーフのランボだった。
「こいつは火がつきにくいが、高い熱を出せるし、火が長持ちする。鉄や陶器を作るのに最適なんだ」
ただし、魔木炭を焼成できるほど強い炎の魔法を使える魔法使いは滅多にいない。通常は複数人の魔法使いが一日がかりで作るのだという。
王都などの大都市では、木炭の卸問屋の組合が市井の魔法使いたちを囲っており、魔木炭の独占的な商売をしているらしい。
正式な販売ルートを通さない闇魔木炭は、組合に睨まれて、はじき出されることになる。
「まあ、こんな辺ぴな田舎村では関係ないがな」
ランボは「お礼に、何でも作ってやるぞ」と約束してくれた。
このドワーフの老人は、石切り職人であり、鍛治舎であり、陶芸家でもある。とても頼もしい存在だ。
儀一が最初に頼んだのは、瓦だった。
儀一たちに貸し出された家は、雨漏りがひどかった。
雨が降ると天井が染みて、すぐに水滴が落ちてくる。雨漏りする箇所を探し、器を総動員して受け止めるのだが、衛生上もよろしくはないだろう。
また冬ごもりの準備として、壊れた蝶番の修理や、釘などの金属製品も必要だった。
「いっそのこと、ランボじいちゃんに全部任せたら?」
タチアナの助言により、ランボに家の中を見てもらい、必要な部品をすべて作ってもらうことになった。
「金属や石材はなんとかなるが、木材や家具はな。ここまで痛んでいると、ギンに頼むしかないぞ。どうせ酒場で飲んだくれてるだろうから、連れてきてやる」
ギンはランボの酒飲み仲間だという。
現役時代は大工だったが、今は隠居して、趣味で家具作りなどをしているらしい。
ふらふらとした足取りでやってきたのは、赤っ鼻の老人だった。
「あ、エロじい、まだ生きてたんだ」
「相変わらず気が強いのう、タチアナ。ほれ、尻取――」
「ふん、じじいに触らせる尻はないよ」
「うほっ。トゥーリも久しぶりじゃな」
「それ以上、近寄らないでくださいね」
ギンはエロじいとも呼ばれており、おもに主婦層から敬遠されているらしい。
挨拶代わりに尻を触ろうとするからだ。
タチアナとトゥーリは、ねねにくれぐれも気をつけるようにと忠告した。
職業柄、木こりと大工の関係性は強い。
臨時の木こりの話はギンも聞いていたようで、仕事をしてくれるならば異国人であろうと構わないというスタイルのようだ。
交渉の結果、家の修理と足りない家具を作ってもらう見返りとして、指定された大きさの木材をいくつか提供することになった。
「村の人たちに配る薪以外は、木こりの持ち分となるの。だから問題ないわ」
そう教えてくれたのはトゥーリである。
「朝市にも出せるのよ」
朝市は五日に一度、寄り合い所で開かれる。
その時間帯は共同井戸で水を汲む村人たちも多く、村で一番にぎやかな場所となる。
余剰分の薪や炭を、儀一は朝市に持ち込むことにした。
物々交換の要領はよく分からないので、最初はタチアナとトゥーリに手伝ってもらう。
朝市は社交場のような役割も果たしているようだ。
村人たちと顔を合わせて挨拶をするだけでも、参加する価値はあるだろう。
こうして儀一たちが生活環境を整えている中、窃盗疑惑をかけられたカミ子が何をしていたのかというと……。
「ねぇ、カミ子ちゃん、お仕事いこうよ。おにぎり屋さんだよ」
マンション内のリビング。パソコンにかじりついているカミ子の背中を、さくらが揺すった。
「やだ。めんどくさい」
「いっつも暇そうにしてるじゃん」
結愛は呆れてるようだ。
カミ子は振り返りもしない。パソコンの画面を凝視しながら、理論的に説き伏せようとする。
「あのね、君たち。ボクは神様なんだよ? 神様は世界で一番偉いんだから、働く必要なんてないの。どこの世界に、あくせく生活費を稼ぐ神がいるのさ」
「神様っていっても、昔の話ですよね。今は僕たちと同じ人間のはずです」
鋭い指摘をしたのは、蒼空である。
「なぁカミ子、カミ子ってばさぁ。大人がいっしょじゃないと“シェモンの森”に入れないんだよ。今度、ポランとブッキが秘密の場所を教えてくれるんだ。頼むからさ、カミ子来てよ」
マウスを握る右手を、蓮が引っ張る。
「あ~、もう邪魔! ボクは今、忙しいの!」
極度の人間不信に陥ったカミ子は、引きこもりになっていた。
朝はねねが作ったおにぎりをつまみ食いして、昼食用のおにぎりも確保してから、パソコンの前に陣取る。
動画や小説投稿サイトを片っ端から閲覧しているようだ。
ねねが作った夕食をしっかり食べて、お風呂にも入る。
夜は蓮と蒼空のベッドで寝ている。最初は儀一のベッドに潜り込もうとしたのだが、それはさすがにまずいということになったのだ。
自堕落な生活はもう一週間も続いていたが、その日は儀一から話があった。
「実は神様に、お願いがあるんです」
「……」
デスクチェアをくるりと回転させると、カミ子は鷹揚に頷いた。
「言ってみたまえ、山田さん」
「ずっりぃ、おっちゃんだけ」
蓮が口を尖らせる。
「ふふん。ボクと山田さんは、ともに“村会議”を戦った仲だからね。いわば戦友。君たちとは絆の深さが違うのさ」
完全なるえこひいきである。
頼もしいことを口にしたカミ子だったが、すぐに条件を付け加えた。
「でも、人ごみの多いところには行きたくないなぁ。愚かな人間君たちには、もう会いたくないからね」
元神の身でありながら、ドランの策に嵌り食糧庫に閉じ込められた挙句、窃盗容疑までかけられたことが、トラウマになっているようだ。
そんなカミ子を安心させるように、儀一は微笑んだ。
「だいじょうぶです。人気のない場所ですから」
「それって、別の意味で危なくない?」
寄り合い所でおにぎり屋の準備を整えてから、一度全員で家に戻ってくる。マンション内の水道水を使って、さくらがムンクを呼び出した。
「あの、儀一さん――」
声をかけたねねは、しかし口をつぐんだ。
「ねねさん、みんなをお願いします」
何かを伝えるようにひとつ頷いてから、儀一は小さなバイクに跨った。キックでエンジンをかける。
“ホンダ・モンキー”。
赤と黒、チェック柄のシートが可愛らしい小型レジャーバイクだ。
“オークの森”から脱出する際に川底に沈んでしまったが、このバイクはマンションの備品であり、毎回復活する。
しかも、ガソリンまで戻るというおまけ付きだ。
「みんなも、ねね先生のこと頼んだよ」
「はーい!」
カミ子がヘルメットを被って、後ろの荷台に跨った。お尻が痛くならないように、荷台には座布団が巻きつけられている。
儀一の頭の上には、ムンクが着地した。
「ムンクちゃん、お仕事頑張ってね!」
さくらの応援に、うねうねと触手を動かす。
「じゃあ神様、行きますよ」
「りょーかい」
儀一が向かった先は――北の方角。
村から三キロほど走ると、丁字路にぶつかり、川幅三百メートルはあろうかという大河、“アズール川”にたどり着いた。
カミ子がふーむと唸った。
「こんなところに連れてきて、魚釣りでもするつもりかい? 悪いけれど、操水で縛ることができる水には制限があってね。魚のように素早くは動かせないし、網のような細かいものは作れないんだ」
「いえ、魚釣りではありません。今日はこの川を渡って“オークの森”に入ろうと思います」
ほほうとカミ子は感心してみせた。
“アズール川”の向こう岸には、巨大な樹木が生い茂る“オークの森”が続いている。
天気は曇り。はるか北にそびえる魔霊峰“デルシャーク山”は、雲の中に隠れているようだ。
「――って、なんで?」
びっくり仰天するカミ子に、儀一は理由を説明した。
“アズール川”を挟んで北と南では土壌が違う。北側に広がる“オークの森”には大地を耕す芋虫がたくさんいて、土地が肥えているそうだ。実際、オークの森ではたくさん収獲できたジュエマラスキノコが、“シェモンの森”ではひとつも採れなかった。
「だから、危険を冒してまで“オークの森”までキノコ狩りにいくのかい?」
「そうです」
儀一は肯定した。
「幸いなことに、一番近くのオークの集落はほぼ全滅しました。しばらくは安全なはずです」
「まあ、ね」
迂闊な神すら予想し得ない偶然が重なり、それは奇跡となって、儀一たちは“オークの森”を抜け出すまでに千体を超えるオークの集団を葬ることに成功したのだ。
「もし仮にオークの生き残りがいたとしても、ムンクが気づいてくれるはずです。また神様の特殊能力、感覚機能拡張があれば、音や匂いなどで分かるのではないでしょうか」
「あいつら、臭いからねぇ」
生き残りのオークたちと戦いになったとしても、ムンクやカミ子がいれば撃退できるはず。
いざとなれば、川を渡って逃げればよい。
カミ子は考え込んだ。
「でもさ、山田さんらしくないんじゃない? カロン村での生活も少しずつ軌道に乗り始めてるんでしょ? わざわざ危険を冒す必要はないんじゃないかな」
「お金がありません」
儀一はずばり言った。
生活するだけならば今のままでも十分だが、現金を稼ぐとなると難しい。魔木炭が売り物になることは分かったが、ドワーフのランボによると、おおっぴらに商売することは難しいかもしれない。
となれば、別の方策も試してみるべきだろう。
「冬になるとキノコは枯れてしまいます。ドランたちのこともありますし、村での生活も安定しているとはいえません。今のうちに稼いでおきたいんですよ」
「なるほどね」
カミ子は了承した。
もともと生と死に対する意識が希薄なこともある。
それに、風邪の看病に続いて“村会議”でも儀一に借りを作ってしまったので、ここで返しておこうと思ったのだ。
「で、どうやって川を渡るのさ」
「操水を使って、空気を閉じ込めたゴムボート、のようなものは作れないでしょうか」
「水で舟を作るの? 面白いこと考えるね」
インチキ占い師のように両手を複雑に動かしながら、カミ子は“アズール川”の水を操ってボートらしきものを形作った。
「ぱんぱかぱーん。水舟!」
ごく普通のネーミングである。
空気の浮力はかなり大きい。儀一とカミ子が乗り込んでも、水舟はびくともしなかった。
「じゃ、いくよ」
そのままカミ子が舟を操って、“アズール川”を渡っていく。
オールで漕ぐ必要のない便利な舟だ。
ほぼ透明なので、水の中の様子までよく分かる。船底のすぐ近くを大きな魚が身を翻す様子が見えた。
対岸につくと、儀一は腰袋から小さな白い塊を取り出した。
蒼空の四次元収納袋の中にひとつだけ残しておいた、ジュエマラスキノコである。
「神様、この匂いを覚えてください」
「あ~、ちょっと臭くて、くせになるかも」
子供たちが“臭キノコ”と呼んで不評だったジュエマラスキノコだが、カミ子にはたまらない香りだったらしい。
「感覚機能拡張で見つけられそうですか?」
「やってみないとなんともだね。操水」
カミ子は水舟を解体すると、ちゃぶ台のような台座を作成した。
足は八本ある。
「それは?」
「蜘蛛担架。移動用の台座。恐ろしく遅いけど」
カミ子は台座に飛び乗ると、正座を崩したような形で座り込む。
「地面に近いほうが、匂いは強いからね」
そのまま地面を覗き込むようにしながら、蜘蛛台車を“歩かせ”た。
「や、これは便利ですね」
「あんまり使い道はないんだよ。歩いたほうが早いし、けが人を運ぶ時くらいしか――ん?」
“オークの森”に少し入ったところで、カミ子が奇妙な匂いを感知したようだ。
少し掘り返して見ると、乳白色をした芋虫が出てきた。
「これって……」
「蛾の幼虫ですね」
“オークの森”でサバイバルしている時に、儀一も何匹か見つけたことがあった。鑑定したところ、落ち葉などを食べて育つ芋虫で、オークたちの主食らしい。実際、追っ手のオークたちが乾燥させたこの幼虫を携帯していたのを、儀一は確認している。
トゥーリが言っていた、大地を耕す芋虫だ。
「へぇ、オークたちの主食、ねぇ」
「かなり栄養があるらしいですよ」
丸々と太った芋虫に目を落としながら、カミ子が小声で「はっ、そういえば、オークキングがうまそうに」と呟いている。
「残念ながら、売り物にはなりませんね」
さて、あまり長居もしていられない。
周囲を警戒しつつ先へ進もうとした儀一だったが、
「――にがっ! おえぇぇっ」
振り向くと、カミ子が盛大に嘔吐いていた。
(12)
おにぎりを乗せた盆の隣に陶器製の看板を立て掛けると、ねねはいつもより早く寄り合い所をあとにした。
そして家に帰ると、洗濯物を干しながら儀一の帰りを待ち続けた。
子供たちが手伝ってくれたので、すぐに手持ち無沙汰になる。
「ねね先生、ジブリ見ていい?」
「いいわよ」
蓮に許可を出したものの、
「ねね先生もいっしょに見よ」
さくらの誘いには笑顔で首を振った。
「私はいいわ。もう少しここにいるから、みんなで見てらっしゃい」
何を見ようかと楽しそうに相談しながら、子供たちがマンション内に入っていく。
ねねはふっと息をついた。
目を閉じ、唇を軽く噛む。
彼女は必死に耐えていた。
儀一が戻ってこないかもしれないという恐怖に、である。
昨日の夜、儀一はこれからの予定をねねに説明した。
“オークの森”に入って、ジュエマラスキノコを探すのだという。
ねねは自分の耳を疑った。
“オークの森”は、何度も死を覚悟し、絶望した場所だ。
実際、儀一と出会っていなければ、自分と子供たちは何もできずに殺されていただろう。
かろうじて、本当にかろうじて、全員が無事に生き残ることができたのである。
カロン村にたどりついてからは、“オークの森”での出来事を思い返そうとはしなかったし、必要がなければあえて話題に出すこともなかった。
それは子供たちも同じである。
しかし儀一は、雨漏りする天井は直さなくてはならない、という感じで、さらりとねねに伝えてきたのである。
もちろん理由も説明された。
生活の安定性を確保するためには、この世界のお金が必要であること。オークたちが全滅した今が、もっとも安全な時期であること。水属性魔法を使えるカミ子と水の精霊ムンクがいれば、大抵のことは切り抜けられること。危険があればすぐに逃げる予定だが、少人数の方が機動力が発揮できること。
だから、カミ子と二人で“オークの森”に入るのだという。
儀一に何かあったら、それこそ取り返しがつかない。
生きているだけで、今のままで十分だ。
あえて危険を冒す必要などない。
次々と儀一を引き止める言葉が浮かんだが、ねねは口に出すことができなかった。
儀一は自分など考えも及ばない先のことまで視野に入れている。その上で方針を立てたのだろうし、実際そうやって“オークの森”でも生き残ってきた。
いつだって儀一は正しかった。
自分の心配事など、すでに想定済みだろう。
だから今回も問題はないはず。
しかし、今になって――
誰もいない庭でひとり、ねねは立ちすくんでいた。
しゃがみ込んで泣き出しそうになるのを、必死で堪えていた。
とにかく無事でいて欲しい。
怪我をせず、戻ってきて欲しい。
もし儀一の身に何かあれば……。
暗い思考に捕らわれながら、どれくらい時間が過ぎただろうか。
唸るようなエンジン音が聞こえた。
「儀一さんっ!」
ねねは弾かれたように駆け出して、門の外に出た。
小さなバイクに無理やり二人乗りしている。
儀一とカミ子だ。
「おうい、二宮さ~ん!」
カミ子は後ろの荷台に立って、儀一の肩につかまっていた。
片手で手を振ったせいでバランスを崩したのだろう。慌てたように儀一の首にしがみつく。
「おわっ! 山田さん、落ちる、落ちる!」
「ですから、立ったら危ないと――」
「ぎゃぁああ、あっはっは!」
“モンキー”はふらふらになりながら、門の前に到着した。
大きく息をつき、儀一がスタンドを立てる。
「おかえりなさい、儀一さん、カミ子さん」
「ただいま――」
「とうっ!」
儀一を押しのけるようにして、カミ子が飛び降りた。
「ちょっと聞いてよ、二宮さん! 芋虫を見つけたんだけど、めちゃくちゃ苦くってさ。やっぱり生はだめだね。一匹だけ持って帰ってきたから、料理してくれない? 油で揚げたらきっとうまいと思うんだ」
困ったような顔で受け答えしながらも、自分の心の中に儀一の無事を喜ぶ以外の感情が混じっていることに気づき、ねねは愕然とした。
「わぁ!」
儀一がつかんでいるものを見て、子供たちは目を丸くした。
それは、体長五十センチはあろうかという魚だった。
色は桃色で、鼻の先が豚のように突き出ている。
「これはね、ムンクが捕まえたんだよ」
儀一が鑑定しねねが解読したところ、オークフィッシュという魚らしい。
もちろん食べることができる。
“オークの森”での作業を終えて、水舟で“アズール川”を渡っている途中、儀一は水の中を滑るように移動する魚影を何度も見かけた。カミ子に確認したが、やはり水操では捕まえられないという。
“アズール川”の水深は、深いところで三メートルくらいある。流れも速いので、釣りや投網も難しそうだ。
この世界に来てから、儀一は魚を食べていなかった。
油の乗った切り身の塩焼き。大根おろしに醤油。
そして、炊きたてのご飯と味噌汁。
そんな食卓の光景を思い浮かべていると、頭の上に乗っていたムンクがぷるりと震えて、触手を川の中に伸ばした。
――ピチャン、ビチビチ。
そして驚くほどあっさりと、オークフィッシュを捕まえてきたのである。
ムンクはさくらにお願いして借り受けていた。オークが近づいてきた時の対策として、探知機の役割をお願いしていたのだが、これは思わぬ収獲だった。
『ありがとう、ムンク。さくら君もきっと喜ぶよ』
焼き魚を前にさくらがばんざいしている姿を思い浮かべると、ムンクは興奮したように触手をうねらせて、立て続けに十匹ほど捕獲してきた。舟の中が魚で一杯になり、運べない分はリリースすることになったのである。
儀一の予想通り、食べることが大好きなさくらは、大喜びでムンクに抱きついた。他の子供たちも次々とムンクを褒め称える。照れているのか、ムンクの触手が複雑に動き回り、がんじがらめになった。
ただひとり、面白くなかったのはカミ子である。
「ふ、ふんっ! そんなものはおまけさ。さあ、山田さん。ボクの素晴らしい活躍の成果を、子供たちに見せてあげたまえ」
儀一がテーブルの上に置いたのは、ガラ麦の藁で作った細長い入れ物だった。ちょうど納豆を包む藁のような形をしている。
「なにこれ?」
蓮が藁を開いて、出てきた白い球体のひとつを摘み上げた。
匂いを嗅いでみると、
「うわ、くっさ!」
「あー、“臭キノコ”ですね」
ずっと四次元収納袋に収納していた蒼空は、すぐに気づいたようだ。
結愛とさくらが少し身を引く。
その様子を見て、蓮がにやりと笑った。ジュエマラスキノコを持ったままにじり寄る。
「ちょっと、こっちこないでよ」
「れん君、くさーい」
結愛とさくらが逃げ出して、蓮が追いかける。蓮の暴挙を止めようと、蒼空も追いかける。きゃーきゃー叫びながら、子供たちはテーブルの周囲をぐるぐる駆け回った。
「みんな、食べ物で遊んではだめよ。でないと――」
穏やかな笑顔のねねに、しかし有無を言わせない迫力で説得されて、一気に収束する。
独特の香りがするジュエマラスキノコは、子供たちに“臭キノコ”と呼ばれ、嫌われていた。しかも“オークの森”ではごろごろ採れたので、ありがたみも薄い。
「さくら、ムンクちゃんの魚がいい」
サクラの言葉に、蓮、蒼空、結愛の三人も次々と賛同する。
「ふ~ん。あ、そう」
子供たちの評価にぶちキレたカミ子は、もうひとつの成果物を披露することにした。
それは、丸々と太った乳白色の芋虫だった。
まだ生きていて、カミ子の手の中でうにうにと動いている。
「ほらほら、君たち。もっとよく見せてあげるよ~」
考えることが蓮と同じレベルである。
子供たちは悲鳴を上げて、本気で逃げ出した。
翌日から、食卓の主役として魚が登場するようになった。
焼き魚、煮魚、スープ、鍋……。
良質なたんぱく質である魚は、朝市でも人気の商品だ。
野菜、卵、ミルクなどの食材と交換することにより、子供が成長する上での必要な栄養を確保することができた。
ちなみにカミ子が捕まえてきたニームの芋虫は、ねねが恐る恐る素揚げにしたのだが、
「……う~ん。まあ、う~ん」
以降、カミ子が持ち帰ることはなかったので、おそらくまずかったのだろう。
ねねはマンション内の料理機材――ガスコンロや電子レンジなどを使わずに料理を作り始めた。
まずは火である。
火おこしセットで種火を作り、枯葉や藁で包むようにして息を吹きかける。火がついたら竃に移して、乾燥させた枝とともに薪を投入する。
これがコンロの代わりとなる。
弱火と強火を切り替える場合、薪を崩したり追加したりする必要があるので、かなり手間がかかる。
調理場にはフライパンや鍋を使う丸型の竃の他に、四角い石焼き竃もあった。これはパンを焼くためのオーブンだ。魔木炭を壁際に散らして、中央にパン生地を置いてじっくりと焼く。
パン生地の作り方や竃の使い方は、タチアナとトゥーリに教えてもらった。
手間はかかるが、炎で直接炙った魚や焼きたてのパンは美味しい。
子供たちにも大好評だ。
マンション内の設備に頼らず生活すること。
それは儀一の指示だった。
「何らかの事情でマンションが使えなかった場合、食事もできなくなるようでは困りますので」
もっともな理由ではあるが、儀一が頻繁にカロン村を離れるようになったことも、無関係ではないだろう。
儀一はカミ子とムンクを連れ立って、危険な“オークの森”に通うようになった。
五日に一度は“シェモンの森”で木こりの仕事もするが、それ以外は毎日だ。
ねねの心境は複雑だった。
寄り合い所のおにぎり屋については、ねねと子供たちが担当することになり、さらにもうひとつ悩ましい問題が発生した。
「よう、ネネ」
ドランである。
初対面の時から嫌われているのではないかと感じていたが、カミ子の食料窃盗疑惑の直後から風向きが変わったようで、頻繁に声をかけてくるようになったのだ。
「ほらよ」
その日ドランは、毛むくじゃらの塊を放り投げてきた。
それは荒野鼠の屍骸だった。
「きゃっ!」
ドランたちはカロン村の周囲に広がっている荒地に出向き、荒野鼠の狩りをしていた。
この鼠の毛皮はとても丈夫だが、毛が短く黒灰色で光沢もない。毛皮としては売り物にはならないらしい。
餌の少ない土地に住むので、肉付きも悪く筋張っている。
しかし村では贅沢品だった。
ねねを怖がらせたドランは、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「泥棒猫の仲間じゃあ肩身も狭いだろう? 朝市でも相手にされないはずだ。腹をすかせたガキどもに食わせてやりな」
「い、いえ。あの――」
ムンクが食べきれないほどの魚を捕ってきてくれるので、必要はない。
そう言おうとしたのだが、
「ふっ、じゃあな」
さっと手を上げると、ドランは踵を返して去っていった。
(13)
「あの女を、オレのものにする」
寄り合い所の大広間で胡坐をかきながら、ドランは宣言した。
「あの女って、誰だよ?」
「ネネだ」
「いつも外でオニギリを配ってる?」
「ああ、そうだ」
「正気かよ!」
「異国人だぜ?」
驚くヨリスとダーズに向かって、ドランは不敵に笑った。
「関係ないね。ちっと細っこいが、色白でいい女だ。この村にいる芋くさい女たちとは違う」
「そりゃ、まあ。そうだけどよぉ」
「ちょっと待て。あの女、旦那と子持ちじゃねぇのか? さすがにまずいだろう」
「いや」
ドランは腕を組んだ。
「この前、タチ姉――タチアナとトゥーリが、ネネと話しているところを聞いたんだ。どうやら結婚はしていないらしい。子供もよその子だろう」
ドランには作戦があった。
ねねは異国人であり、この村では肩身の狭い思いをしている。しかも同居人であるカミ子には、盗人の疑惑がかかっている。“村会議”では曖昧な形で終わったが、食糧庫の果物に手を出したのは事実だ。
ドランは知り合いの老人たちに、異国人の疑惑を吹聴して回った。彼は村長の孫であり、子供の頃はガキ大将だった。「元気があっていいねぇ、ドラ坊」と、案外老人たちの受けがよかったのである。
現在残っている村人の半数以上は老人。これで異国人たちはさらに住みづらくなったはず。朝市でも無視されて、物資を交換することもできないだろう。
困っているところに、すかさず手を差し伸べてやるのだ。
ドランの作戦は、奇しくも儀一の“おにぎり配布作戦”と同種のものであった。
しかし、自ら相手を追い詰めていくところが決定的に違う。
信頼を得るのではなく、屈服させることが目的なのだ。
「誰だってひもじい思いはしたくねぇし、させたくもねぇ。子供を養っているならなおさらだ」
だが、自分のもとに来れば村の者になれる。
しかも、村長の孫の嫁だ。
「どうだ、悪くない話だろう?」
ヨリスとダーズは懐疑的だった。
「そううまくいくか?」
「男と女ってのは、ほら。条件だけじゃなくてよ、好き嫌いの問題とか、あるんじゃねぇの?」
ドランの自信は揺るがなかった。
「あんなひょろりとした男には、負けねぇよ」
目下、彼が敵対視しているのは、儀一である。
カロン村は勇者の伝説が残る地であり、村の男たちは幼い頃から剣術を習い、身体を鍛える慣習が受け継がれていた。
そして女たちも強い男を好む傾向にある。
ドランは村で一番体格がよく、力も強い。
「もしあいつが邪魔するようなら、相手になってやる」
「でもよう」
ヨリスは怯えた。
「あの金髪の女が出てきたら、どうする?」
以前ドランたちは、カミ子にちょかいをかけた時に水属性の魔法でこてんぱんにされたのである。
剣術を身につけ、どれだけ身体を鍛えたとしても、魔法には敵わない。間合いを詰める前にやられてしまうからだ。
「なあ、ドラン」
ダーズが忠告した。
「あいつらにはもう、関わらないほうがいいんじゃねぇの?」
前回の“村会議”以来、カミ子は村人たちの前に姿を現していない。ほとぼりが冷めるのを待っているのだろうが、ひょっとすると復讐を企んでいるのかもしれない。
一向に煮え切らない仲間たちの態度に、ドランは激昂した。
立ち上がって、仲間たちを怒鳴りつける。
「お前ら、びびってんのか? 情けねぇぞ!」
ドランはすでに心に決めていた。自覚こそしていなかったが、それは過去の自分への復讐でもあった。
子供の頃、ドランは年上のトゥーリに憧れていた。おしとやかで、子供の世話が好きで、優しいトゥーリに。
だがトゥーリは、別の男と結婚した。
その男は格好つけで性格も悪かったが、腕っ節だけは強かった。
子供だったドランはとても敵わなかった。
自分が弱かったからトゥーリを奪われたのだと、幼いドランは思った。
そうでなくては辻褄が合わない。
納得ができなかったのである。
異国人であるねねは、どことなくトゥーリに似ているような気がした。いや、トゥーリよりも繊細で、儚く思えた。
今の自分は強い。当時のあの男よりも。
だから今度こそ自分のものにするのだ。
暗く深い憎しみの炎を宿す瞳に睨まれて、ヨリスとダーズは口を噤むしかなかった。
みんな無事に生活できているだけで、幸せ。
感謝しなくてはならないと、ねねは思った。
「いってらっしゃい」
朝、儀一とカミ子を笑顔で送り出す。
おにぎり屋は順調だった。朝十時くらいに開店して、正午くらいには全部無くなってしまう。
一番のお客さんは、子供たち。
タチアナによると、村のほとんどの子供がここに来ているようで、まるでお祭りのように賑やかだ。
みんな最初出会った頃より身体つきがふっくらとして、元気になったような気がする。
「おねーちゃん、お歌おしえて」
「だめ、あたしと遊ぶんだから」
「もー、けんかしたら、めって、この前いわれたでしょ。みんな、な、か、よ、く!」
女の子たちはみんな可愛らしい。
「おーい、ネネお姉ちゃん。こっち見て」
「どうしたの、ブッキ君」
「お尻とったぁ!」
「――きゃっ!」
男の子になると、困った子も出てくる。
「ポ、ポラン君?」
どうやらカロン村では、こっそり忍び寄って年上の女性のお尻にタッチする遊びが流行っているようだ。
お尻を触ったのはポランという少年で、正面のブッキは囮役だったらしい。年齢は二人とも六、七歳くらい。
「ポラン! ブッキ!」
「さいてい」
「あっちいって!」
女の子たちが少年たちを追い払う。
「へへん、ひっかかったひっかかった」
「ブッキ、作戦成功だ。ずらかるぞ!」
ポランとブッキはそろって後ろを向き尻を叩くと、風のように逃げていく。
その後ろ姿を、ねねは呆然と見送っていた。
「スキあり! お尻と――」
「蓮、あんたまで何やってんの?」
続いてねねの背後に忍び寄ってきたのは、蓮。
その肩を掴んで、冷たい声をかけたのは、結愛である。
男の子たちの行動を不思議そうに見つめていたさくらが、少し離れた場所にいた蒼空に聞いた。
「そら君もねね先生のお尻、さわりたいの?」
「い、いえ。違います! ぼ、ぼくは蓮たちを止めようと」
蒼空はぶんぶん首を振った。
「おい蒼空、作戦失敗だ。ずらかるぞ!」
「さ、作戦ってなんだよ? ぼくはやめたほうがいいって言ったろ。みんなの前で、きちんと訂正――」
「ねね先生に変なことしたら、燃やすわよ!」
「うわー、結愛が怒った!」
「ち、違うんだぁ!」
蓮と蒼空があたふたと逃げていく。
「あれ、いっちゃった」
さくらだけがひとり、きょとんとしている
「あっはっはっ! 相変わらず大人気だね、ネネは」
「懐かしいわね、“尻取り”。私もよくやられたわ」
笑いながらやってきたのは、タチアナとトゥーリだった。
三人で縁側に座って、話をする。
「ああいう悪ガキはさ、その都度きちんと懲らしめてやらないとつけ上がるわよ」
「あなたの場合、お仕置きが厳しすぎて、男の子たちが震え上がっていたものね」
トゥーリによると、タチアナは“尻取り”してきた男の子を強引に捕まえると、ズボンと下着を脱がせて、晒し者にしたらしい。
「最後は誰も私を狙わなくなったから、トゥーリを囮にして、一網打尽にしてやったのさ」
「もう、あなたって人は……」
この世界の男の子たちは、日本の保育園の子よりもやんちゃ。わんぱく小僧という言葉がぴったりかもしれない。
「ポランはね、ドラ坊――ドランの弟なんだよ」
と、タチアナが教えてくれた。
「そう、なんですか」
最近のドランとのやりとりを思い出して、ねねの気持ちは沈んだ。
このところドランは毎日寄り合い所にやってくる。しかも朝の十時に、狙い済ましたように。
食べ物を無理やり渡そうとしたり、村を案内するといって誘ってきたりするのだが、ねねはすべて断っていた。
理由も必要性もなかったからである。
どうやら好意を持たれているらしいのだが、正直、ねねは困り果てていた。
「どうしたの、ネネ? 浮かない顔して」
「い、いえ」
タチアナにとって、子供の頃のドランは弟のようなものだったという。こんなことを相談するのは、さすがに気がひけた。
「ところで、ギーチさんは?」
周囲を見渡しながら、トゥーリが聞いてくる。
「儀一さんは、カミ子さんといっしょに――その、出かけています」
ねねの声のトーンは、少し憂いを帯びたものになった。
「それは、困ったわねぇ」
「儀一さんに、何かご用ですか?」
「いえ、そうではなくて」
悩ましげにため息をつくトゥーリ。少し顔を寄せて、じっと見つめてくる。
「ひとつ聞いてもいいかしら?」
「はい」
「ギーチさんって、何者なの?」
「え?」
村の女たちの間で、今、儀一のことが話題になっているのだという。
カロン村に滞在する条件としてジュエマラスキノコを提供し、寄り合い所でおにぎりの無料配布を始めた。
カミ子が窃盗容疑をかけられた“村会議”に颯爽と現れると、明らかに彼女を操る形で弁護し、ドランたちをやりこめた。
臨時の木こりに志願するや否や、ほんの数日で薪の供給状態が劇的に改善された。さらには、よく燃えて長持ちする不思議な炭まで提供されるようになった。
そして、今度は魚である。
朝市に大量の魚を出品して、かなり破格の条件で売ったり、物々交換に応じてくれている。
この村に住み着いてまだひと月ほどだというのに、この謎の異国人は、村人たちの生活に大きな影響を与えているのだ。
「ひょっとして、どこかの国の王子様?」
最初、儀一やねねが着ていた服の仕立てのよさには、行商人のマギーも驚いていた。生地は薄く色も鮮やかで、まるで王侯貴族のような服だという。だからトゥーリの誤解も、それほど的外れなものではないのかもしれない。
ねねは一瞬、儀一が王冠を被っている姿を想像した。
「ネネさんがお姫様? とか」
そして儀一の隣には、ドレス姿の自分。
「い、いえ! 違います!」
ねねは真っ赤になって、どう説明したものかと迷った。生前の儀一の職業は公務員だ。これを今知っている単語で表現すると、
「儀一さんは、年貢を取る人、でした」
「お役人?」
「それです。お役人です」
「へえ、なんかそれっぽい感じはするかな」
タチアナは納得したようである。
「村にはあまりいないタイプの男性よね。佇まいや話し方が、洗練されているというか、都会的というか」
トゥーリによると、おもに十代の若い女性たちが儀一に興味を持っているそうだ。タチアナとトゥーリから情報を聞き出そうと、躍起になっているのだという。
「でも、心配はいらないわ」
トゥーリはねねを励ました。
「あの娘たちには、ちゃんと釘をさしておいたから。現実をちゃんと見なさい。ギーチさんの隣には、もうすてきな人がいるでしょう? 勝ち目はないわよってね」
「……」
ねねは困った。
「私と儀一さんは、そういう関係では、ないんです」
それに今、儀一の隣にいるのはカミ子だ。
夜、子供たちがベッドに入ってから、リビングにランプをひとつ灯して、儀一とふたりで話をしている。それはねねにとって一番心が休まる時間だった。話の内容は、今日一日の活動報告や明日の予定について。
それだけで十分だと、ねねは思った。
「儀一さんは、すごい人なんです」
“オークの森”で、儀一は足手まといでしかなかったはずのねねと子供たちを、命がけで守ってくれた。救ってくれたのは命だけではない。恐怖と絶望で打ちひしがれていた心に、安らぎと希望を与えてくれたのだ。
「尊敬、しているんです」
その表現が、一番しっくりくるだろう。
「ネネさん?」
自分はどんくさいし、カミ子のような力もない。“オークの森”に行ったとしても、足手まといにしかならない。
だから、余計なことは考えるべきではない。
儀一を信じて、彼の無事だけを祈っていればよいのだ。
「だから私は、今のままでいいんです」
ねねはにこりと笑った。
笑ったつもり、だった。
「そう」
トゥーリの目が細まった。
「じゃあどうしてあなたは、泣きそうな顔をしているの?」
(14)
「いってらっしゃいませ」
何やら言い争いながらバイクに乗り込んだ儀一とカミ子を見送ってから、ねねは寄り合い所へと向かった。
「よう、ネネ」
いつものように、ドランが待ち構えていた。
蓮、蒼空、結愛、さくらの四人が、ねねの周囲を固める。
初対面の時にねねが差し出したおにぎりを振り払ったことを、まだ怒っているのだ。
「ふん、何にもしねぇよ。村のもんなら、誰だって食っていいんだろう?」
ドランはおにぎりとひとつ手にとり、かぶりつく。
「なぁ、村の西にある森、知ってるか?」
「“シェモンの森”ですか?」
「ああ、もう寒くなったから、食べ物は少ないだろうが、紅葉がきれいなんだ」
「……」
ドランはおどけたような口調で誘いをかけてきた。
「森の真ん中に小さな泉があってな。そのほとりに“オークの像”があるんだ。六百年前に作られた古い石像だ。言い伝えでは、その上に座るといいことがあるんだと。今度、いっしょに――」
「い、いえ!」
ぞっとするような悪寒を感じて、ねねの表情は強張った。
「結構です。そこはもう、タチアナさんとトゥーリさんに案内してもらいましたから」
「……そうか」
ドランはじっとねねを見つめてから、
「ちっ」
舌打ちを残して、寄り合い所の中に入っていった。
ねねはほっと安堵する。
「ねね先生」
気遣わしげな顔で、結愛とさくらがくっついてくる。
子供を心配させてはいけない。
「さあ、今日も頑張って、おにぎりを配りましょう。村のみんながお腹をすかせて待っているわ」
ぱらぱらと子供たちが集まってきて、寄り合い所は賑やかになってくる。
お昼前くらいには、タチアナとトゥーリが娘たちを連れてきた。
「ユア、サクラ!」
「遊びにきた。……ごほっ」
アイナとミミリだ。
年も近いこともあり、結愛とさくらとは大の仲良しである。庭の片隅に生えている草花で花の冠を作っている様子は、見ていて微笑ましい。
今日のタチアナとトゥーリは、儀一の話題を出さなかった。
それは気遣っているようでもあり、ねねが出す答えを待っているようでもあった。
「二人で相談したんだけどさ。靴、いらない?」
唐突に、タチアナが聞いてきた。
「靴、ですか?」
「ネネさんの靴、ちょっと走りづらそうに思えたの。それにずっと同じものを履いていたのでは、すぐに傷んでしまうわ」
トゥーリに指摘されて気づいた。
服に関しては、行商人のマギーから数着手に入れたものの、靴の予備はなかった。“オークの森”にいた時と同じ靴を、いまだに履いていたのである。
「だから感謝の印に、みなさんに靴をプレゼントしようと思って」
「そ、そんな――」
物があふれ返っている現代日本とは違う。服や靴だけではない。板一枚、釘一本でさえ貴重品なのだ。そのことを、ねねはカロン村での生活で知った。
それに、タチアナとトゥーリのおかげで、この村でも知り合いができた。同年代の主婦たちが信頼して子供を預けてくれるようになった。
逆に、こちらが感謝しなくてはならないくらいだ。
そのような趣旨のことをねねが伝えると、タチアナが呆れ顔になった。
「はぁ、これだから」
何かを確信したかのように、トゥーリが頷く。
「ねねさんは、遠慮しすぎなのよ。もっと大胆に、そして我儘にならないといけないわ」
靴は店で買うのではなく、自作するのだとトゥーリは言った。
素材は荒野鼠の革。カロン村周辺に生息している鼠で、その毛皮は色艶も悪く防寒性もいまいちで、売り物にはならない。だから、それほど高価なものではないそうだ。
「トゥーリさんは、靴屋だったんですか?」
「お店を出しているわけではないのだけれど、生活費の足しにしようと思って始めたの」
タチアナが何故か得意げに自慢した。
「トゥーリの作る靴は長持ちするし、靴ずれもしないって評判なんだよ」
オークの森では靴ずれに悩まされたねねである。
とてもありがたいと思った。
「では、魚を――」
「いらないわ」
せめて魚と交換しようと考えたのだが、即座に断られた。
「私はね、ネネさん。あなたに感謝しているの。お返しをしたい。でも、私にできることといったら、これくらいしかない」
やや自虐的に、トゥーリが微笑む。
「だから、これは友人としてのお願いよ、ネネ。私が心を込めて作った靴を、もらってくれないかしら」
「……トゥーリさん」
「トゥーリでいいわ」
ねねは泣き出しそうになった。
この世界に来て初めて友人ができたのだ。
「ありがとう、ございます。トゥーリは、私の大切な、お、お友達です」
言葉に詰まって思わず口元を押さえると、トゥーリが軽く抱きしめた。
うんうん頷きながら二人の様子を見つめていたタチアナだったが、
「え、ちょっと待って。私は?」
何かに気づいたように、急に焦り出す。
「ね、ねえ、トゥーリ。私も手伝えることあるでしょ。っていうか、手伝わせなさいよ。ひとりだけずるいじゃない!」
「ふふ。さあ、どうかしら?」
「タチアナさんも、お友達ですよ」
「いや、そんなおまけみたいなやつじゃなくて! それに、私もタチアナでいいし。ああ、もうっ、いじわるしないでよ!」
ねねは久しぶりに、心から笑うことができた。
いつもであれば、大広間から不自然なくらい大きな気合の声が聞こえてくるのだが、その日は静かだった。
朝のやりとりでドランがふてくされてしまい、稽古が中止になったようだ。
寄り合い所の敷地内には共同井戸があり、稽古を終えたドランたちは、下着一枚になって派手に水浴びをする。ねねとしては居づらくなるので、正直、ほっとしていた。
正午過ぎ。子供たちの昼食も終わり、客足も途絶えた。
そろそろ店じまいの準備をしようかと考えたところに、ポランがやってきた。
「ネネおねーちゃん」
「どうしたの、ポラン君」
「じいちゃんが、オニギリ持ってきてくれって」
「おじいさん? ヌジィさんが?」
「うん、そう言えって」
村長のヌジィは、時おり寄り合い所にやってきては、「何か困ったことがあれば、いつでも言いなされ」と、ねねにひと言かけて去っていく。何度かおにぎりを勧めたのだが、「わしにはちと重くてのう」と、遠慮されてしまった。
「いくついるの?」
「んー、知らない」
「今すぐ?」
「知らない!」
面倒くさそうに言って、ポランは走り去った。早く遊びたくて仕方がなかったようだ。
ねねはおにぎりの配達も行っている。そのほとんどがタチアナの案内によるものだったが、村長の家ならば知っている。
盆にいくつかおにぎりを乗せていると、
「ねね先生、配達にいくの?」
結愛がやってきた。
先ほどまでいたはずの場所に目をやると、さくら、アイナ、ミミリの三人が、おままごとをして遊んでいた。
子供というのは集中力の塊だ。それは想像力がまだ育っていないからともいえる。認識し、予測し得る世界が狭い。だから、ただ道を歩いているだけでも、ふらふらと危なっかしい。
しかし結愛は、六歳の女の子にしては驚くほど周囲に目が行き届く。
そのことは、儀一も認めていた。
おそらく結愛は、さくらたちと楽しく遊びながらも、ポランたちの動きに気を配っていたのだろう。“尻取り”防止のためである。
そしてねねがおにぎりを盆に乗せている姿を見て、気づいたのだ。
寄り合い所の外に出るならば、護衛をしなくてはならないと。
「そうよ、村長さんのところに」
「あたしもいく!」
ねねは儀一から、決してひとりで行動しないようにと、繰り返し注意を受けていた。
他の子供たちは夢中で遊んでいるようなので、それならばと結愛に頼むことにする。
村長宅は、それほど離れていない。歩きで十分もかからないだろう。
しかし、その道すがら、人気のない場所にさしかかった時。
――ざざっ。
突然茂みが揺れて、男たちが飛び出してきた。
それは、ドラン、ヨリス、ダーズの三人だった。
「ちっ、あいつ」
ドランが派手に舌打ちした。
「ひとりで来いって、伝え忘れやがったな」
言葉の意味を咀嚼して、ねねは顔を青ざめさせた。
ポランはドランの年の離れた弟だ。
ドランは弟を伝言役で使って、自分を誘い出したのではないか。
「その。村長さんが、おにぎりを持ってきて欲しいと」
「へっ、じじいはな」
にやにやと笑いながら、ドランがゆっくりと近づいてくる。
「異国の食いもんを、嫌ってるよ」
目つき、表情、歩き方、気配――ねねは既視感を覚えた。
それは“オークの森”でのこと。
助けを求めたはずの二人組みの男に、ねねは襲われたのだ。
我知らず、身体が硬直する。
逃げなければならないと考えながらも、足が動かない。
「おい、ドラン。本当にやるのかよ」
「金髪女が出てきたら……」
ヨリスとダーズはやや及び腰の様子だ。
「お前らは、あのガキをつかまえておけばいい。あとはオレがやる」
苛立たしげに指示を出すドラン。
その前に、小さな影が立ち塞がった。
ねねを庇うように両手を広げたのは、結愛だった。
「じゃますんなよ、ガキ。今からオレたちは、大人の話を――」
ドランの足元に指先を向けて、結愛が叫んだ。
「発火!」
ためらう素振りなど欠片もなかった。
地面から一瞬火柱が上がり、ドランが後ろに飛びずさる。
「わっ! な、なんだ?」
「発火――発火!」
「わっ、おわっ!」
次々とドランの足元に火柱が上がり、どんどん離れていく。
「ねね先生にへんなことしたら、ゆるさない!」
怒りに満ちた声で宣言する結愛。
くるりと振り返ると、ねねの手をつかんだ。
「ねね先生、いこっ」
「ま、待ちやがれ!」
獲物を取り逃がすという焦りが、恐怖を忘れさせたのだろう。
ドランが一歩踏み出そうとしたその時、結愛が振り向き、叫んだ。
「火炎球!」
少女の指先から大人が抱えきれないくらいの大きさの火の玉が飛び出して、ちょうどドランと結愛の中間地点に衝突した。
一瞬の間を置いて、激しい炎の渦が立ち昇る。
「……あ、あ」
炎には誰も巻き込まれていない。
だが、熱風に煽られたドランは、身体を支える力を失ったかのように、ぺたんと尻餅をついた。
やや後方にいたヨリスとダースは顔を真っ青にして、がたがたと震えている。
「こ、このガキも、魔法使いだ」
「だからやめろって言ったんだ、関わるなって。オレはもうごめんだぞ」
「た、頼む。助けてくれ。な、なぁ。これは、ドランが言い出したことなんだ。オレたちは無関係なんだよ」
「そうだ。ドランのやつが、勝手に――」
無言のまま結愛が人差し指を向けると、ヨリスとダーズは言葉にならない叫び声を上げて、一目散に逃げ出した。
ただひとり取り残されたドランを見下ろしながら、結愛が冷たい声を発する。
「追いかけてきたら、燃やすわ」
それは魔法の練習の時に、結愛が何度も口にしていたキメ台詞だった。
しかも、バシュヌーン語である。
台詞や口調、表情まで儀一が指導しており、真面目な結愛は教えられた通りに実行したのだ。
「ねね先生、いこっ」
練習では、相手が驚いている間に逃げ出すことになっていた。
しかし、ねねの身体は反応しなかった。
結愛のあまりにも冷静な対処に、驚いてしまったのだ。
しかしねねは、自分の手をつかんでいる結愛の手が、かすかに震えていることに気づいた。
手だけではない。腕も、肩も。
少女の全身が小刻みに震えていた。
以前、魔木炭を作る過程で使う魔法を誤り、間一髪のところを儀一に救われてから、結愛は自分の魔法を恐れるようになった。
『そしてこれからも、きっと誰かを――結愛君の大切な人を、守ることができる』
自信を失いかけていた少女に、儀一は言った。
『その時のためにも、君はいっぱい練習して、知っておかなくちゃいけない。炎の魔法の強さと、その大きさを』
恐怖が消えたわけではない。
目を逸らし、投げ捨てたわけでもない。
ねねを――大切な人を守るために、少女は勇気を振り絞って恐怖を克服したのだ。
小さな身体の中に、今まさに羽を広げようとしている、しなやかで真っ直ぐな心を、ねねは見い出した。
美しいとすら思った。
ねねは気づいた。
震えながらも毅然とした結愛の姿に、教えられた。
もっと素直になればいい。
自分の心と向き合って、勇気をもって一歩踏み出す。
それが、大切なのだと。
「ねね先生、早く」
「ちょっと待って」
ねねは結愛を安心させるように微笑むと、ドランに向かってゆっくりと近づいていった。
「――ひっ」
カミ子に続いて二度目の魔法を体験したことで、完全に戦意を喪失しているようだ。大きな身体を縮こませるようにして後ずさる。
「ドランさん」
ねねは子供に言い聞かせるように言った。
「私たちは、魔法を使って“オークの森”を抜けてきました。オークの大群と、命がけで戦いながらです」
「……」
「戦いは終わりました。今はただ、静かに暮らしたいだけなんです。ですから、これ以上私たちに関わらないでいただけますか? もし稽古の邪魔になるようでしたら、おにぎりを配る場所を変えますから」
そちらから手を出してこない限り、魔法で攻撃したりもしない。
ねねが約束すると、ドランはこくこくと頷いた。
「わ、分かった」
「では――」
立ち去ろうとしたところで、もう一度振り返る。
「あ、それから」
「ひっ」
自分自身に宣言するかのように、ねねは言った。
「私、好きな人がいるんです」
(15)
「さむ~いっ!」
外に出た瞬間、カミ子は叫んだ。
それもそのはず、彼女が着ているのは派手な純白のドレスで、防寒性など皆無なのだから。
寒い寒いと連呼しながら、マンションの中に戻ってくる。
「ちょっと山田さん、人間って恒温動物だったよね?」
「そのはずですけど」
「身体がさ、ぜんっぜんあったまらないんだけど。こんなんで生きていけるの?」
「寒くなったら着込むんですよ。収納ボックスの中に半纏がありますので、出しましょうか?」
午後八時までであれば、マンション内の服を着て、そのまま外出することも可能だ。
「それって白い? キラキラ光ってる?」
「茶色だったかな? 無地です。ああそれと、ラクダの股引もありますよ。これは祖父の形見で、本物です」
「……いらない」
儀一たちはマンション内のリビングで出かける準備をしていた。
ねねがおにぎりを作り、儀一がその手伝いをしている。子供たちは着替えと歯磨きで、わいわいと忙しい。
おにぎりをラップで包みながら、儀一が言った。
「今日はちょっと冷えるみたいですね。ここ二、三日、収穫量も落ちてきましたし、キノコ狩りは終わりにしようと思います」
「え? もういいの?」
「はい、とりあえずは」
“オークの森”でのキノコ狩りは、計十日間実施した。獲得したジュエマラスキノコは、すでに二百個を超えている。
「神様のおかげで、想定以上の成果を上げることができました。しばらくは、ゆっくりと――」
「ご褒美っ」
山田さんは戦友だ、借りを返したいなどと口にしながら、きらきらと期待に満ちた目で対価を要求してきたカミ子に、儀一は一瞬、言葉に詰まった。
「えっと、カロン村で手に入るものなら」
「う~ん。それなら、お酒がいいね」
儀一とねねは顔を見合わせた。
「いやぁ、酔いどれっていうの? 内臓に負担をかけてまで楽しむってのがさ、刹那的というか、いかにも人間っぽいよね。それと、千鳥足? あれは一度やってみたい。ネクタイを頭に巻いて、こう、ふらふらと。ほら、折り詰めの寿司を指先でつまんでるでしょ。ボクの考察では、あれがバランサーの役割を果てしてると思うんだ」
折り詰めの寿司に、そんな機能などない。
「アルコールは、あまりお勧めできませんが」
翌朝、二日酔いになって人間の身体に文句を言うカミ子の姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
だが、こういう時のカミ子は意固地になる。
「とにかく酒! ボクはね、山田さん。人間活動を楽しむために、わざわざ身体まで作ってこの世界に転生してきたんだよ。まずは、飲食でしょ!」
儀一はねねに聞いた。
「朝市に出ていましたか?」
「見たことはありませんが、酒場のジューヌさんは、おにぎりを食べにいらっしゃいますよ。今度お会いした時に、魚と交換してもらえるか聞いてみます」
カロン村唯一の酒場の店主は、三十代の未亡人の女性だった。
寄り合い所では、やれひとり身は寂しいだの、子供がいないのは寂しいだのと、ねねに愚痴ばかりこぼしている。かなりストレスが溜まっているようだ。
「さすがは二宮さん。ついでに、魚じゃないほうの肴も頼むよ。あ、もちろん魚でもいいけどね」
「はい」
内心儀一は、やれやれと呟いた。
“オークの森”でのキノコ狩りをやめたのは、寒さのために収穫量が落ちたこともあるが、他にも理由があった。
昨夜、ねねがドランの件を報告してきたのである。
弟のポランを使ってねねを誘い出し、襲おうとしたこと。
結愛が火の魔法を使って守ってくれたこと。
そしてドランに、今後一切関わらないで欲しいとお願いしたこと。
ドランには以前から言い寄られていたそうで、早めに報告ができなかったことを、彼女はしきりに謝ってきた。
謝るのは自分の方だと儀一は言った。
ドランは最初から異世界人である自分たちに敵意を持っており、そのことを隠そうともしなかった。
カミ子に水属性魔法で叩きのめされ、“村会議”では、逆に不名誉な疑惑まで押しつけられた。
このままおとなしく引き下がるはずがない。
しかし儀一は、ドランの恨みの矛先が、自分かカミ子に向けられるだろうと考えていたのである。
少し考えれば分かることだった。
ねねとドランの行動範囲は、寄り合い所で重なっている。トラブルが発生する可能性は十分に予測できたはず。
それなのに、注意を払わなかった。
冬になると“オークの森”のキノコは枯れてしまう。今のうちに収穫しなければと、つい目先の利益を優先させてしまったのだ。
そして、ねねが悩んでいることにも気づけなかった。
これは大反省である。
“オークの森”でのキノコ狩りは中止し、しばらくはいっしょに行動する。
儀一の決断を聞いて、ねねは瞳を潤ませながら喜んだ。
しっかり者とはいえ、彼女はまだ二十二歳。
日本であれば、社会人一年目の新人である。
やはり、心細かったのだろう。
「じゃあ山田さん、二宮さん。ボクは二度寝するから、お酒の件、よろしくね」
堂々と宣言してから、カミ子は寝室に入っていった。また引きこもりの自堕落な生活へ戻るんだろう。
おにぎりが完成すると、子供たちとともに寄り合い所へ向かう。
幸いなことに、ドランたちの姿はなかった。
「おー、めずらしく旦那がいるぞ」
「あら、ほんとね……」
昼前にやってきたタチアナとトゥーリは、冷たい視線を儀一に向けてきた。
「ねねさんから、聞きました。靴を作っていただけるそうで。ありがとう、ございます」
ねねに寂しい思いをさせながら、金髪美女と二人きりで遊び回っている色男。そんなふうに思われているとは露とも知らず、儀一はバシュヌーン語を使って礼を述べた。
やや緊張した様子で、ねねが説明する。
「タチアナ、トゥーリ、実は……」
ねねは昨日のドランたちの件を、二人に話した。
これは儀一が強く勧めたことである。
いくら手を引くことを約束させたとはいえ、ドランの気が変わることも考えられる。その時には、ねねだけでなく子供たちにも危険が及ぶ可能性があるのだ。
いくら魔法があるとはいえ、不意打ちには弱い。
自分たちで身を守ることも大切だが、ここはねねと交流のある主婦たちに事情を話して、ドランたちに注意を払ってもらうべきだろう。
「あんの、クソがきがぁ!」
話を聞いたタチアナが豹変した。
「タ、タチアナ?」
「ちょっと、家から木刀とってくる」
慌てたようにねねは止めた。
ドランは自分たちに手を出さないと約束してくれた。今後、同じことが起きなければいいのだ。タチアナとドランが争うことはない。
「甘いわね、ネネ」
トゥーリは表情を消し、ぞっとするほど冷たい声を出した。
「ああいう輩は、きっちりしめないと。村の守護者たる勇者様も、お嘆きになるわ」
だが、タチアナよりは冷静のようだ。
「とはいえ、“村会議”にかけたとしても、ドランたちを村から追放することはできないでしょう。本人が認めたとしても、よくて謹慎ってところかしら? 村長と対立することになるし、ドランの恨みも深まるかもしれない。それは、ネネとしても望むところではないのよね?」
「は、はい。そうです!」
こくこくと、ねねは頷いた。
寄り合い所では、稽古にきたドランたちと接触する可能性がある。
とりあえず、おにぎり屋の場所を移したいという意向を、ねねが伝えた。
少し落ち着いたのか、タチアナが思案する。
「それなら、あそこしかないね」
その場所とは、村の南側にある石材置き場だった。
広さは十分だし、道具類を保管している小屋もある。それに、ドワーフのランボは力持ちで、ああ見えて正義感が強い。
何かがあったとしても、ねねたちを守ってくれるだろう。
「……というわけなんだ。じいちゃん、頼んだよ」
タチアナの要請に、ランボはひげを震わせた。
「なんでじゃ!」
冬ごもりの準備。
などというものを、ねねや子供たちは経験したことがない。
儀一は日本海側の生まれで、大学に進学するまでは、雪囲いや雪かき、屋根の雪下ろしなどを手伝っていた。
ぼんやりと雪が発光して、空と大地の明るさが逆転する神秘的な夜や、すべての音が消え去った静寂の世界を知っている。
しかし、インフラ環境が整っていない場所での冬は初めてだった。
近くに川がないので、雪かきも大変だろう。
家の耐久性も心もとない。
一番の心配は、寒さへの対策である。
幸いなことに、ランボとギンの協力により、雨漏りがひどく廃屋同然だった家の修理は完了していた。
それに、大量の魔木炭もある。
儀一はランボに頼んで、陶器製の火鉢を作ってもらうことにした。
「器の中で炭を燃やすのか? 表面がすぐ熱くなっちまうぞ」
「中に灰を入れて、灰の上で燃やすんです」
子供がいる家なので、火傷には注意しなくてはならない。格子状の蓋も作ってもらうことにする。
テーブルに大きなシーツを被せて、その中に火鉢を入れると、火鉢コタツの完成だ。
「ほほう、こりゃあったかそうだな」
ランボも感心したようで、いつの間にか自分用の火鉢も作ってしまった。
火鉢コタツと暖炉を併用して、あとは厚着をすれば、ある程度の寒さはしのげるのではないか。
さらに儀一は、冬の間の仕事についても考えた。
カロン村の人々は、外での活動が難しい冬の間に織物をしたり、籠を作ったり、あるいはトゥーリのように靴を作ったりするそうだ。
いわゆる内職である。
冬の間に売り物を作れないかと、儀一は考えた。
魔木炭、ジュエマラスキノコに続く第三の商品。
それは――
「魚の燻製、ですか?」
「はい。ねねさんは作ったことがありますか?」
「一度だけありますけど、家庭用の燻製キットを使いましたので、本格的なものは……」
“アズール川”でムンクが捕まえてくるオークフィッシュは、燻製にしたものが珍味として好まれるらしい。
このことを儀一は鑑定の能力で知った。
つい先日、鑑定の熟練度が百に達したことで技能レベルが上がり、状態盤に表示される情報に追加されたのだ。
今は日干しにして朝市に出しているが、保存期間は短い。
煙で燻す燻製は、魚肉の酸化や細菌の発生を抑えることができるので、かなり長持ちする。
冷蔵庫のないこの世界では、賞味期限の長さはそのまま商品価値につながるはず。
魚は蒼空の四次元収納袋に入りやすい形状をしている。頭と尻尾を紐で繋げれば、かなりの量を保管することができるだろう。
「インターネットで検索すれば、基本的な作り方は分かると思います」
問題は、燻製を作るための機材と材料である。
スモークチップに適した木材は、いくつか試す必要があるだろう。
燻製室は、インターネットの画像をプリントアウトしたものを、元大工で家具職人であるギンに見せて、作ってもらうことにした。とはいえ、複雑な構造ではない。クローゼットのような木の箱である。
質のよい紙とあまりにも精巧な画像に、ギンは驚いたが、酒飲みの老人なので細かいことは追求されなかった。
報酬は後払いでかまわないという。
「完成した魚の燻製、三匹分でどうじゃ?」
酒のつまみにするのだろう。
(16)
燻製にはおもに熱燻、温燻、冷燻という三種類の調理方法がある。
熱燻は八十度を超える高温で、十分から一時間くらい軽く燻すもの。蒸し焼きに近く、どちらかといえば風味付けという意味合いが強いようだ。保存期間は二、三日で、それほど長くもたない。アウトドアなどで手軽に楽しむ人が多い。
温燻は三十度から六十度くらいの温度で、数時間から一日程度燻す。ベーコンやソーセージなど、我々が一般的に認識している燻製とはこの方法を指す。塩加減によっては、常温で一週間以上もつものも作れる。
冷燻は十五度から三十度の低温で、一週間から一ヶ月という長期間に渡って燻す。煙を冷やす必要があるので、大がかりな設備を使うか、気温が低い時期に屋外で作る。保存期間は一番長いが、時間と手間がかかる調理方法だ。生ハムやドライソーセージなどがある。
「この他にも、燻製液に漬けて乾燥させる、液体燻製という方法もあるようですが、これは低コストで大量生産をする食品加工業界で用いられる手法です」
「燻製にも、いろいろな種類があるんですね」
マンション内のリビング。インターネットから印刷した資料をもとに儀一とねねが話し合っていると、再び引きこもりになったカミ子が邪魔をしにきた。
「よし、山田さん。すべてに挑戦するんだ。そしてボクの酒の肴を充実させてくれたまえ」
ちなみに子供たちは、ねねお手製のバシュヌーン語ドリルで書き取りの練習をしている。
「ギンさんに作ってもらっている燻製室は、温燻用の設備です。まずは一般的なものから始めようと思っています」
「うんうん、いいね。楽しみだね」
儀一はにこりと微笑んだ。
熱燻は保存期間が短く、商売用には向かないし、冷燻は作るのに時間がかかる。失敗したら目も当てられない。儀一としては他の方法を試すつもりはなかった。
魚の燻製を作るには、下処理、漬け込み、塩抜き、乾燥、燻煙といった工程がある。
制作期間は約二日間。
「はい、私がやります!」
ねねが元気に宣言した。
日干しの場合は魚を捌いて干すだけだが、燻製は時間と手間がかかる。
商売用となればなおさらだ。
「や、ねねさんにはおにぎりを作っていただいてますし。これ以上負担をかけるわけにはいきません。僕がやります」
“オークの森”でのキノコ狩りを終えた今、手の空いた自分がすべき仕事だと儀一は考えていた。
「負担なんかじゃありません。私は、儀一さんの役に立ちたいんです」
ねねが訴えかけてきた。
「今でも十分すぎるくらい役に立ってますよ。おにぎり屋だけでなく、家事全般と、バシュヌーン語の先生までお願いしているんですから。そうだ、しばらくは僕がおにぎりを配布しますので、ねねさんは少しお休みをとられたら……」
「私は、お休みなんかいりません!」
儀一は意外に思った。
仕事に関しては時おり頑固な部分を見せるねねだが、少し意固地になっているような感じを受けたのである。
しかし、仕事の分量がねねに大きく振り分けられているのは事実であった。それに、二十日間以上にも渡る“オークの森”でのサバイバルに続く慣れない村での生活は、目に見えない疲労となって蓄積されているはず。
さすがに調整が必要だろう。
「僕たちがカロン村に着いてから、まだふた月です。たったそれだけの間に、ねねさんはタチアナさんやトゥーリさんと親交を結び、信頼を得ました。村の子供たちもすっかり懐いています。これは、当初僕が想定していたよりもずっとよい状況なんですよ。だからこそ僕は、比較的自由に行動することができました」
「でも、私はドランさんのことを報告しませんでした。儀一さんにきちんと報告していれば、あんなことにはなかったはずです」
「買いかぶりすぎですよ」
事前に懸案事項を洗い出して、そのすべてに手を打つ。儀一の手法は、あくまでも確率の変動でしかない。
「僕にできることなんて、たかがしれています」
カロン村の人々に取り入るため、儀一はおにぎりや薪、炭、魚など、様々なものを提供した。しかし、条件だけで信頼が得られるほど甘くはない。献身的なねねの行動があればこその現状である。
「そんなことありません! 儀一さんがいてくれたから、私たちは――」
「これこれ、君たち」
カミ子が苛々しながら口を挟んだ。
「それはなにかね? 夫婦漫才というやつかね? 子供たちも見ていることだし、もっと穏やかに解決はできないのかね?」
「すいません」
珍しくカミ子に諭される形で、儀一は謝った。
「まったく、なんだい君たちは! 目の前にボクがいるってのに、勝手に盛り上がって。無理やり見せつけられるこっちの身にもなってもらいたいものだね!」
ちゃぶ台では、子供たちがひそひそ話をしていた。
「さくら、分かんないの? あれが三角かんけーよ」
「さんかくけい、知ってるよ?」
「違います。三角関係というのは、男ひとりと女二人がおりなす、恋の戦いです。いわゆる、しゅらばですね」
「へー。だれが勝つんだ?」
「そんなの、ねね先生に決まってるじゃん。だってカミ子だよ」
「う~ん、こればかりは反論できませんね」
「カミ子だからなぁ」
「カミ子ちゃん、かわいそう」
「――こら、そこ!」
カミ子は子供たちを指差した。
「神であるボクが、人間相手にそんなことするはずないだろう? しかも負ける前提ってなんだい? ありえないよ!」
「まあまあ、神様」
当事者である儀一は、いつの間にか取りなす側に回っていた。
「燻製作りは、ねねさんと二人でやろうと思います。それで、どうですか?」
儀一はねねに聞いた。
「は、はい。ごめんなさい」
ねねは頬を染め、小さくなっていた。
「今日からムンクにも、おにぎり屋に来てもらうよ」
朝食時、儀一は子供たちに伝えた。
「えー、ほんとに?」
さくらが期待に満ちた目で見上げてくる。
村人たちが怯えるからという理由で、これまでムンクを人前に出すことを避けていた。だが、さくらが精霊を呼び出せることは“村会議”でも報告されている。今後のためにも、村人たちに少しずつ慣れてもらったほうがよい。
そして精霊の存在は、ドランたちに対する抑止力にもつながるはずだ。
「グーちゃんもいい?」
さくらの問いかけに、儀一は少し考え込んでから、
「いいよ」
と、許可を出した。
土の精霊グーが移動すると、地面の足が接地している部分に二本の線が入る。寄り合い所の敷地内を荒らすわけにはいかないが、野ざらしの石材置き場であれば問題ないだろう。
午前十時。
石材置き場でおにぎり屋を開く。
タチアナのごり押しにより、ランボの倉庫をひとつ貸してもらえることになった。
「ほう、水の精霊か。珍しいものを連れているな」
ランボはさくらの頭の上に乗っているムンクを見ても、恐れたりはしなかったが、
「のーむ!」
さくらがグーを呼び出すと、さすがに口をぽかんと開けた。
「つ、土の精霊まで。その子供が使役しとるのか?」
「精霊のこと、詳しいですか?」
儀一がバシュヌーン語で聞く。
「ふん、ドワーフは妖精だからな。人間よりも少しだけ精霊に近い。魔力がないから精霊魔法は使えんが。それにしても、この精霊たちはちょっと変だぞ。あまりにも自然すぎる」
ねねが通訳すると、子供たちが騒ぎ出した。
「よ、妖精って、うっそだろ!」
「背中に羽がないし、おなかも出ています。明らかに詐欺ですね」
「こんな妖精やだ。不潔だし」
「ひげもじゃ、もじゃもじゃ!」
妖精に対する幻想を壊された子供たちは、口々に文句を言った。ランボの存在自体を責めるような、そんな雰囲気すらあった。
「ガキどもは、なにを騒いどるんだ?」
「えっと」
さすがにねねはも、何も言うことができなかった。
おにぎり屋の場所が変わったことは、タチアナとトゥーリが周知してくれている。しばらくすると、村の子供たちがわらわらと集まってきた。
「わー、なにこれ」
「へんなのがいる!」
「人形? うわ、動いた?」
最初、子供たちはムンクとグーの姿を見て驚いたが、さくらが自分の友達だと紹介すると、あっさり警戒心を解いてしまった。それどころか好奇心全開といった様子で近寄ってくる。
ねねがしっかりと言い聞かせた。
「精霊さんはペットではないし、道具でもないわ。分かりづらいかもしれないけれど、みんなと同じで、喜んだり悲しんだりするの。だから、みんなで仲良くしましょうね。そうすれば、きっとお友達になってくれるわ」
「はーい!」
これは儀一の指示でもあった。
精霊は人間の思考を読むことができる。それは感情をも読み取れるということだ。悪戯心や出来心で精霊をからかったりすると、どのような反応を示すか分からない。
一応さくらには、精霊が怒ったら止めるようにと注意しているが、子供たちに対して、最初に友愛や敬意という意識を植え付けておく必要があると考えたのだ。
だが、ねねがいる限り問題は起こらないだろう。
元保育士のねねは、子供たちから好かれており、集団としての規律まで与えているのだから。
午後一時。
おにぎり屋を撤収して家に帰ると、儀一はすぐさま“モンキー”で“アズール川”へと出かける。
お供はムンクだけ。
後ろの荷台にはランボから借りた小型の荷車をつなげている。荷台の上には氷水を入れたプラスチック製の収納ケース。これはマンションの押し入れの中で、冬服をしまっていたものだ。
「ムンク、今日は三匹お願いできるかな?」
頭の中で魚を三匹思い浮かべると、ムンクはぷるりと震えて、触手を水の中に入れた。
――パシャン、ビチビチ。
謎の早業である。ものの五分とかからずに、ムンクは三匹のオークフィッシュを捕まえた。手づかみなので、まったく傷はついていない。
「すごいなぁ。マグロ漁をしたら、大儲けできるかもしれない」
何とはなしに呟くと、ムンクが俄然やる気を出したように、触手を川に入れようとした。
「ああ、ちょっとタンマタンマ! そんなに大きな魚は運べないよ」
川幅三百メートル、深さ三メートルもある大河である。鮫のような大型の魚がいてもおかしくはない。
午後一時半。
家に帰ると、庭で遊んでいた子供たちとグーが駆け寄ってきた。
「おかえりなさい!」
これは儀一の出迎えというよりも、ムンクと遊ぶためである。
精霊であるムンクやグーは、世界の法則が違うマンションの中に入ることができないのだ。
「お帰りなさい、儀一さん。さあ、始めましょう!」
リビングでは、気合十分のねねが待っていた。
収納ケースから取り出したオークフィッシュを、まな板の上に乗せる。
「開きにしますか、それとも三枚におろしましょうか?」
「そうですね。魚の形が残っていた方が、吊るしやすいかもしれません」
ウロコを取り、はらわたやエラ、血合いなどを取り除く。淡水の魚なので、水道水でよく洗う。
次に塩水に浸け込むのだが、漬け込み液には酒や香辛料、ハーブなどを入れると風味が増すようだ。
マンション内の調味料は、十二時間が経過すると消えてしまう。それでは意味がないので、この世界のものを使うしかない。
今のところ朝市で手に入ったのは、塩だけだった。
“石切り山”には塩分濃度の高い泉があり、その水を蒸発させると塩が取れるらしい。集めた塩は食糧庫に保管されて、ガラ麦とともに村人たちに配給されている。
「神様、起きてください。水を出していただけますか?」
準備が整うと、儀一は寝室のベッドで昼寝をしていたカミ子を起こす。
「う~、創湧水……」
ランボに作ってもらった四角い陶器製の器を、水で満たしてもらう。
「お疲れ様でした」
「ふわぁ。おやすみぃ~」
カミ子の昼の仕事はこれで終わり。あとは食べてネットして寝るだけ。
髪はぼさぼさだし、服は乱れ、腹が出ている。子供たちの評価は下がる一方だ。注意しても聞く耳を持たないので、気が変わるまで待つしかないだろう。
「儀一さん、塩はどれくらい入れますか?」
燻製の賞味期限は、塩の量で決まる。たくさん塩を使えば賞味期限は長くなるが、塩は貴重品だし、あまりにも塩辛いと風味を損なってしまう。
「とりあえず、五パーセントくらいの濃度でいきましょうか」
香草、香辛料の件も含めて、今後いろいろと試行錯誤していく必要があるだろう。
漬け込む時間は、約八時間。
マンションが消えて、子供たちを寝かしつけた後も作業は続く。
午後十時。
「神様、起きてください。水を出していただけますか?」
儀一は藁ベッドで寝ていたカミ子を起こす。
「う~、創湧水……」
いくつかの桶に水を溜めてもらう。
「お疲れ様でした」
「おやすみぃ~」
カミ子の夜の仕事はこれで終わりである。
漬け込み液を捨てて、魚を真水に漬け込む。桶の水を入れ替えながら、一時間ほど塩抜きするのだ。
午後十一時。
塩抜きが終わると、魚に藁を編んだ紐を通して、屋外で乾燥させる。
こちらはしっかりと十四、五時間。
翌日、午後一時。
おにぎり屋を撤収して家に帰ると、いよいよ燻煙――煙で燻す工程に入る。
燻製室の天井付近に魚を吊るし、床には火鉢をセットする。火鉢の上には薄い鉄板を置き、その上で木屑を焦がすのだ。
木屑は蓮の光斬剣で薪を薄く削って、わざわざ作ったもの。木材の種類によって香りも変わってくるらしい。
室温に気をつけながら八時間ほど燻す。
そして、午後九時。
ようやく完成である。
(17)
何度も絶望した。
無理だと思った。
弱音を吐かなかったのは、守るべき存在――四人の子供たちがいてくれたから。自分に保育士であることを言い聞かせて、子供たちを守ることだけ考えた。
それはある意味、ごまかしのようなもの。
決して心が強いわけではない。
だから“オークの森”で三体のオークに囲まれた時、ねねは恐怖のあまり動くことができなかった。
『人間だ、こんなところに人間たちがいるぞ!』
『人間のメスだ、そして子供が四匹! ご馳走だ、逃がすな、囲め!』
『メスは生け捕りにしろ。犯しつくしてやる。子供は殺せ。今夜のご馳走だ!』
翻訳の能力が魔物たちの会話を理解させてしまう。
終わったのだと、ねねは思った。
生きたまま地獄を見るくらいなら、子供たちと運命を共にしよう。
オークが投げた石が当たり、意識が朦朧としていたねねは、子供たちを抱きかかえながら死を待った。
しかし――
『わあああああ!』
その光景を、ねねは不思議な気持ちで見つめていた。
鮮やかな花火の光とともに現れたスーツ姿の男は、ヘルメットとゴーグル、そしてグローブを身につけており、両手に花火を持っていた。
男はたったひとりで、ねねと子供たちを助けるために、死地へと飛び込んできたのである。
そんなことが起こるはずがない。
もしそんな人がいるのならば、映画の中のヒーローだけだ。
『さ、みんな、ここは危険だ。逃げるよ』
これ以上ないくらい差し迫った状況だというのに、男は落ち着き払った声で指示を伝えてきた。茫然としているうちに肩を担がれ、歩き出す。
夢ではない。
どうやら現実らしい。
あなたは、誰?
――本当に?
問いかけることもできず、ねねは意識を失った。
それが、山田儀一との出会いだった。
結局のところ、“オークの森”でのサバイバル中、ねねは料理以外では何も役に立てなかった。
靴擦れをおこして、迷惑すらかけた。
すべてを予測し、方針を決定したのは儀一だ。
ねねはただ従うだけでよかった。一番つらいはずの仕事を、責任を、すべて儀一に委ねてしまったのだ。
だから今度こそ、役に立たなくてはならない。
そんな決意を胸に始まったカロン村での生活。
ようやく落ち着きかけたところで、儀一は再び“オークの森”に入ると言い出した。安全な今のうちに、ジュエマラスキノコを収穫するのだという。
そして彼の隣にいたのは、カミ子だった。
不安ともどかしさと、ほんのわずかな苛立ち。
ねねは自分の感情に愕然とした。
儀一はすごい人だ。自分など思いもよらないことを平然とやってのける。
だから、邪魔をしてはいけない。
儀一の考えていることが実現するのであれば、手助けをするのは自分でなくてもよいはず。
頭の中では分かっているのに、どうしても心が苦しい。
鬱屈とした気持ちを隠し続けたねねだったが、
『火炎球!』
否応なく気付かされることになった。
自分を助けるために火の魔法を使った結愛。まだ六歳でしかない少女が、恐怖から目をそらすことなく、勇気を奮い立たせ、真っ直ぐに行動してみせたのである。
眩しいくらいに美しい姿だった。
それに比べて、自分は……。
そう、最初から分かっていた。
儀一に対する感謝や尊敬の念を隠れ蓑にして、思考を止めていただけ。
本当は、どうしようもないくらい――
儀一のことが好きだったのである。
自分を救ってくれたヒーローに憧れたのではない。
遠くの景色を眺めている時の穏やかな目や、少し間延びしたような口調。そしてゆったりとした仕草。子供と接している時の戸惑ったような表情や、興味のある話になると饒舌になるちょっと面白いところ。
そんな儀一が、好きだった。
彼の一番近くにいたい。
誰よりも役に立ちたい。
そのためには……。
もっともっと頑張ることだと、ねねは考えた。
オークフィッシュの燻製作りは、まずまずの滑り出しを見せた。
最初に出来たものが、かなり美味しかったのである。
燻製に適しているというだけあって、魚そのものにうまみがあるようだ。
「ちょっと薄いかな?」
しかし、儀一は納得していないようだ。
「美味しいと思いますけど」
「常温で保存することを考えると、少し塩辛いくらいでちょうどいいかもしれません」
カロン村の人たちにも燻製の作り方について聞き取りをしたが、あまり有益な情報は得られなかった。ほとんど交易をしない辺境の地なので、保存食は塩漬けか干物が多く、手間のかかる燻製はあまり作られないようだ。
唯一経験があったのは、カロン村で飲み屋を営んでいるジューヌである。流行病で夫を亡くした三十代の未亡人で、よくねねに愚痴をこぼしに来る。食材が手に入ると、時おり燻製を作って店の客にふるまうそうだ。
「私が作るのは、荒野鼠の燻製がほとんどだから、参考になるか分からないわ。それでもいいの?」
「ぜひ、お願いします」
期待するように目を輝かせたねねを見て、ジューヌは疲れたようにため息をついた。
「やっぱり、ネネさんは若いわぁ。私なんかとは輝きが違うもの。笑顔とか、お肌とか。はぁ、年の差よね」
「ジューヌさんは色気があって、すてきですよ」
ねねが全力で励ますと、未亡人は苦笑した。
「わかったわ、教えてあげる。もしオークフィッシュの燻製ができたら、仕入れさせてもらおうかしら。うちの店でも出したいの」
「お酒と交換、できますか?」
交渉したのは儀一である。
カロン村で飲まれているお酒は、ガラ麦とジュキラ芋を材料にしたものがほとんどらしい。
「ギーチ君、だったわね? 若いうちから飲みすぎるとよくないわよ。うちの亭主もお酒で身体をこわして、最後は苦しみながら……ううっ」
「僕ではなく、別の人です」
マンション内に引きこもって人前に姿を現さないカミ子は、カロン村ではほとんど認知されていない。
「あら、そう」
ジューヌはけろりと泣き止んだ。
「美味しい燻製ができたら、とっておきのと交換してあげる」
「いえ、安物でお願いします」
あまりよい酒を与えて、カミ子に味をしめられても困る。
ジューヌから、スモークに適した木材といくつかの香草を教えてもらうことができた。
一度に試せるのは一パターンのみ。ほとんど手探り状態なので、とにかく試してみるしかない。
よいものを作らなくてはと、ねねは思った。
儀一は魚の燻製を売り物にしようと考えている。
おそらく先を見据えてのことだろう。
燻製作りの他にも、おにぎり屋や木こりの仕事、それに家事や子供たちの世話もしなくてはならない。
ねねは一切手を抜かなかった。
無理を言って手伝わせてもらっているのだ。他の仕事がおろそかになってしまえば、儀一を失望させてしまうだろう。
大量のおにぎりを作る朝に加えて、午後、家に帰ってからも目まぐるしくなった。
燻製の作業は重なる。儀一が持ち帰ってくる魚を捌いて塩水に漬け込むとともに、前日から干していた魚を燻す作業に入るのだ。
鉄板の上に木屑を乗せ、火鉢で熱を加えていく。煙の量や室温が急激に変わると、品質にまで影響を及ぼしてしまう。
炭での炎の調整は難しい。
子供たちにバシュヌーン語を教えつつ、ねねは三十分ごとに庭の片隅にある燻製室を確認することにした。
子供たちに夕食を食べさせ、お風呂に入れてからも作業は続く。
漬け込みをしていた魚の塩抜きをして、軒下に干す。
また、燻煙が終わった魚を取り込んで、燻製室の後片付けをする。
出来上がった燻製の味見をして、今後の方針を立てる。
大変だが充実していると、ねねは感じた。
儀一とともに作業をして、話し合う時間が大幅に増えた。
心が、軽い。
「ねねさん、無理はしないでください」
「だいじょうぶです。平気ですから!」
嘘ではない。無理などしていないし、疲れてもいない。
好きな人と働けるのだから、むしろ元気が湧いてくるくらいだ。
嬉しいことは重なり、トゥーリからプレゼントを渡された。
「こういう感じで、どうかしら?」
約束の荒野鼠の革で作った靴である。
製作者であるトゥーリが少し自信なさそうにしているのは、初めて作る形の靴だったからだ。
「わぁ、すてきな靴です」
「これが、スニーカー? で、よかったのよね?」
元になった靴は、儀一が召喚したマンションの下駄箱にあったスニーカーだった。
こういうものが作れませんかと、儀一がトゥーリに渡したのである。
スニーカーはマンションの付属品扱いなので、午後八時になると消えてしまう。何度も渡す必要があるのだが、その代わり切り刻んでバラバラにしても問題はない。
トゥーリには魔法で作った幻の靴と説明していた。
「とりあえずネネの分だけ作ってみたの。履いてみる?」
色は黒ずんだ灰色。派手さはないが弾力があり、少しだけ伸び縮みする。靴ひもも荒野鼠の革だ。
「ぴったりです。それに、軽い」
「それならよかったわ」
「ネネ、ちょっとスカートの裾、上げてみて」
タチアナがねねの全身を観察した。
「へぇ、おしゃれだね。都会の人みたいだ」
「機能的でもあるわ」
自分の仕事に納得したように、トゥーリが言った。
「これなら森の中を全力で駆け回っても、足をいためないでしょうね」
カロン村の人たちが履いている靴には、留め金や結びひもなどはついていない。全力で走るとすぐに脱げてしまう。
「……ねぇ、トゥーリ?」
タチアナが用件を口にする前に、トゥーリは断った。
「だめよ」
「何も言ってないじゃない」
「あなたがピコピコ鳥みたいな声を出すのは、欲しいものがある時だけ。スニーカーは、ギーチさんと子供たちが先」
「ちぇっ」
カロン村で飼育されているピコピコ鳥は、愛くるしい声で鳴く。
儀一も靴の出来栄えに感心したようだ。
「ねねさん、走れそうですか?」
「試してみますね」
もともと足が遅いのでたいしてスピードはないが、これまで履いていたパンプスよりは動きがましだ。ジャンプをしても問題ない。
そんなことをしていると、結愛、さくら、アイナ、ミミリの四人が集まってきた。水の精霊ムンクはさくらの頭の上に乗っている。先ほどからグーの姿を見かけない。男の子たちと近くを走っているのだろう。
「えーと、ネネお姉ちゃん、なにしてるの?」
結愛がバシュヌーン語で聞いてきた。
最近、お外ではなるべく日本語を使わないという約束をしたので、頑張っているようだ。
「あー、あたらしい靴だ!」
興奮したさくらはもろに日本語である。
「へんなかたち!」
「ひもがついてる」
カロン村では珍しい靴を見て、アイナとミミリは興味津々といった様子。
ねねは子供たちに、トゥーリ――ミミリのお母さんに作ってもらったことを伝えて、嬉しそうに自慢した。
「この靴を履いたら、とっても足が速くなったわ」
「ほんとう?」
アイナが目を丸くする。
「ええ」
「いっしょに、遊ぶ」
ミミリが提案した。
「えーと、えっとね。さくら、あれ。バシュヌーン語でなんていうんだっけ?」
結愛がさくらに聞く。
「“尻取り”?」
「ちがーう!」
アイナとミミリがそろって口にする。
「“オークさんが転んだ”!」
「あー、言おうと思ったのにぃ」
「いいわよ」
わっと歓声が上がった。
ちなみに“オークさんが転んだ”とは、“だるまさんが転んだ”をねねがこの世界ふうにアレンジしたものである。
「あーあ、すっかり元気になっちゃって」
「ちょっと、はしゃいでいるような気もするけれど、ね」
タチアナとトゥーリが、意味深な視線を儀一に向ける。
久しぶりに、ねねは子供たちと駆け回った。
(18)
「歯ごたえが足りんぞ。もっとがっつり燻したらどうだ?」
「ちと薄い、もっと塩気がほしいのぅ」
石材置場にある、倉庫兼おにぎり屋。
文句を言いながらもがつがつと燻製を食べ、酒を飲んでいるのは、ランボとギンである。
この二人は飲み仲間で、村では変わり者として有名だった。片や頑固爺、片やエロ爺である。ともに職人ということもあり、不思議と馬が合うようだ。
燻製の試食役を儀一がお願いしたのだが、この老人たちは酒豪であり、大食漢でもあり、なおかつ遠慮というものを知らなかった。
それでも儀一は文句を言わず、にこにこしていた。
酒飲みは塩気を好む。彼らに合わせて味付けを完成させれば、保存期間的にも問題がなくなるだろうと考えたのだ。
それに、酒を飲んでいる時はだらしなくても、仕事に関しては手を抜かない職人気質の老人たちが、儀一は嫌いではなかった。
「おーい、ギーチ。聞いとるのか?」
「聞こえてますよ、老ドワーフどの」
儀一は軒先にいた。火鉢に鉄網を乗せ、薄い板を使って炭に空気を送りながら燻製を焼いていた。
「ギーチ、つまみがなくなったぞい」
「もうすぐ焼けます。少しだけお待ちを、ご老体」
燻製を焼くだけでなく、酌をして聞き役にもなる。文句を言わず、笑顔を絶やさない。老人たちは「若いくせに、礼儀を心得ておるな」と、ご満悦の様子。
見かけは二十歳でも、儀一の精神年齢は四十二歳だ。営業経験もあり、酒の接待役はお手もの。
「ギーチ君、試食を頼む相手、間違えてるんじゃないかしら。ねえ?」
悩ましげにため息をついたのは、未亡人のジューヌである。彼女にも試食してもらい、アドバイスをもらっている。
「ネネさん?」
「え? あっ、ごめんなさい!」
少しぼうっとしていたねねは、我に返って謝った。
「珍しいわね。考えごと?」
「は、はい、だいじょうぶです」
ねねは反省し、気合を入れ直した。
燻製作りを始めて、五日目。
作業時間を調整している関係で、睡眠時間がやや不規則になっている。ベッドで寝ていても燻製のことが気になって、確かめに行くこともある。儀一や子供たちを起こさないようにこっそりとだ。
「体調が悪いなら、早めに相談した方がいいわよ。私の旦那なんて、ずっと隠していたから、気づいた時にはもう手遅れで……」
儀一に相談したら、きっと休みをとるよう勧められるだろう。もしかすると、燻製作りを一時中断するかもしれない。
ねねの心配は、現実のものになった。
「今日は、お休みにしましょうか」
翌日、何の前触れもなく、儀一がそう言ってきたのである。
「たまにはマンションでゆっくりするのもいいかもしれません。お茶でも飲みながら、録画した映画でも……」
ずっと儀一を見続けていたねねだから、分かった。
儀一は無意味なことをしない。必要があると考えたからこそ、休む決断を下したのだと。
しかし、自覚症状はほとんどなかったし、儀一に疲れた様子など見せていないはずだ。
理由を聞くと、儀一は困ったように頭をかき、あくまでも可能性の問題ですと前置きした上で、説明してくれた。
「……“状態盤”?」
「そうです。特殊能力というボタンを押すと、特殊能力ウィンドウが開いて、魔力の量を表す円が表示されるのですが」
その色は、魔力が満タンの状態が青、魔力が減ると緑、黄色、オレンジ色、赤色と変化し、魔力を使い切ると黒色になって、気絶する。
だが、その色合いは一定ではない。
満タンの状態でも、青色と緑色の間を移ろうように微妙に色が変化するのだ。そのリズムは、鼓動の速さと関係があることを、儀一は突き止めていた。
「最近、ねねさんの魔力円の色合いの変化が、少し大きいような気がするんです」
驚いて、ねねは自分の“状態盤”を確かめた。魔力の円は青色から黄緑色まで、ゆっくりと変動してたいた。
指摘されなければ気づかない程度の変化だ。
「これは神様に確認したのですが、魔力量は体調や精神状態に影響 を受けることがあるそうです。ということは、逆にこの魔力円から体調を確認することができるかもしれない。このところねねさんは働き詰めでしたし、お休みを取ったほうがよいと思いました」
“オークの森”を抜けてからは、魔法の練習する時以外“情報盤”を確認する必要はなかったはず。
それでも儀一は、わずかな変化を見逃さない。
自分や子供たちを守るために、儀一がどれほど気を配り、注意深く観察しているのかが、よく分かった。
本当であれば感謝すべきことなのだろう。
しかしねねは不安を感じていた。
このままでは、儀一の隣にいられなくなる。
また、役立たずになってしまう。
若干の寝不足はあるかもしれないが、体調の変化はない。すべての仕事をこなしているし、ミスもしていない。
それに、儀一も確信を持っているわけではないようだ。
「儀一さんは、心配のしすぎです」
ねねは何でもないという顔をした。
「もうすぐ冬になります。雪が降ったら、お魚が獲れなくなるかもしれません。できるだけ早く、レシピを完成させないと」
「それは、そうですが」
「儀一さんは、危険を承知の上で“オークの森”に行きました。だから今度は、私にも頑張らせてください。体調が悪いと感じたら、きちんと報告しますから」
ですから、信じてください。
ねねは懇願し、最終的に儀一は了承した。
それからねねは、これまで以上に気合を入れて精力的に活動した。
少しでも疲れた様子を見せたら、終わりだと考えたからだ。
本人は自覚していなかったが、それはもはや強迫観念に近い意識となっていた。
ほどなくして、唐突に限界がくる。
その日ねねは、少し意識が霞みがかっているような気がした。しかし気分はよかった。ようやく納得ができる燻製が出来たのだ。
タチアナとトゥーリも呼んで、試食してもらったが、これならば売り物になると、お墨付きをもらうことができた。
「約束通り、お酒をあげるわ。安いやつ」
ジューヌが陶器製の酒瓶を儀一に渡した。
最近、カミ子からの催促がうるさい。「たまには外に出ないと身体に悪いですよ」と儀一が注意すると、「酒を飲むまでは引きこもってやる!」と、逆ギレされてしまった。
これで少しは大人しくなるだろう。
「おーい、ギーチ」
「つまみがないぞ、うぃ~」
相変わらず飲んだくれのランボとギンは、すでに燻製の味に満足しているようで、ただ食いの客と化していた。
今後は物作りで対価を支払ってもらうことになるだろう。
「今、焼きますよ」
軒先にいた儀一が答えて、
「あ、私も手伝います」
ねねが向かおうとした、その時。
「――あっ」
ねねがへたり込んだ。
急激に視界が暗くなり、意識を失いそうになったのだ。
「ネネさん!」
ジューヌが悲鳴を上げる。
「だ、だいじょうぶです。たいしたことは――」
「ネネ、起き上がっちゃだめ!」
タチアナがしゃがみ込み、ねねの背中を支える。
「顔色が真っ青よ。血の気が引いているわ」
トゥーリが心配そうに覗き込んだ。
「そういえば、ネネさん、ちょっと変だったわ。ぼうっとして。疲れていたのかしら」
ジューヌの話を聞いて、タチアナの表情が強張る。
「ねねさん、だいじょうぶですか?」
「ギーチ、あんた!」
軒下からあたふたと駆けつけてきた儀一を怒鳴りつけた。
儀一がねねに仕事を押し付けて、金髪碧眼の美女――カミ子と出かけていたことを、タチアナは知っている。またねねに無理をさせたのだろうと考えたのだ。
「いっしょにいたなら、気づいたはずよ」
トゥーリの声は氷のように冷たい。
彼女はねねの恋を応援していた。儀一のために、ねねは健気に頑張り続けていた。
その想いを、儀一は裏切ったのだ。
「こんなになるまで、ほうっておくなんて」
「――やめて、くださいっ!」
必死に、ねねは叫んだ。
再びめまいに襲われたが、構わず説明する。
「わ、私が、悪いんです。儀一さんは、私に、休めといいました。私が、言うことを聞かなかったから。私が、悪いんです。だから――ごめんなさい。タチアナ、トゥーリ、お願い。私が、私は……」
涙があふれ、頬を伝わり、流れ落ちる。
最後の方は「ごめんなさい、ごめんなさい」と、うわごとのような呟きになってしまう。
「ねねさん、しゃべらないで」
儀一はねねの手をとると、背中を向けながらしゃがみ込んだ。
「タチアナさん、手伝ってください」
「え? ああ」
ねねをしっかりと背負う。
「このまま家に帰ります。申し訳ありませんが、子供たちをお願いできますか?」
「え、ええ」
思わず頷いてしまったトゥーリに礼を言うと、儀一はすべてを置き去りにして、全速力で走り出した。
荒い息遣いが、耳元に聞こえる。
そして風の音。
かなり気温は低いはずなのに、不思議と暖かい。
「ねねさん、息を、詰めないでください。意識しながら、ゆっくりと呼吸を――してください」
儀一が普段とは違う切羽詰まったような声をかけてくる。
ねねは素直に従った。
「そうです! 人は緊張すると、し、自然と呼吸が小さくなります。おそらく、野生の本能が、はっ、呼び覚まされるからでしょう。呼吸音を消し去って、周囲の気配を探ろうと、するんです。でもそれでは、酸素が足りなくなります。ゆっくりと、はぁ、はぁ、意識して――」
途切れ途切れの説明。内容はよく分からなかったが、儀一が取り乱している様子が、何故か嬉しかった。走っている儀一のほうこそ、深呼吸してほしいと思った。
石材置き場から家まではかなり距離がある。
ねねを背負ったまま、儀一は一度も止まることなくたどり着いた。
「マンションは、神様が寝ているか」
儀一は自分の寝室の藁ベッドにねねを寝かせた。
少しずつ、ねねは冷静さを取り戻していた。
同時に、再び申し訳ない気持ちが膨れ上がってくる。
「わた、私っ、役に、立てなくて」
「そんなに思いつめないでください。今は、ゆっくり休むことが先決です」
マンションで水を持ってきますと言って、儀一は立ち上がった。
くるりと背を向けられた瞬間、
「あ……」
そんなはずないのに。
ねねは見捨てられたと感じだ。
思わず出した手が、硬直する。
指の関節がこわばり、がたがたと震え出す。
「ねねさん?」
儀一が戻ってきて、ねねの手を握る。
「ご、ごめんなさいっ!」
親に叱られた子供のように、ねねは謝った。
儀一の気遣いを断って、結局迷惑をかけてしまった。大切な友人であるタチアナとトゥーリに、儀一を責めさせてしまった。
すべての原因は、自分が頑固で、分からず屋だったから。
わがままだったから。
神父に罪を告白する咎人のように、ねねは儀一に独白した。
情けなくて、申し訳なくて、涙が止まらなかった。
指の硬直が、解けない。
「はっ、はっ、はっ……」
気がつけば、身体の表面がぴりぴりと痺れている。
ねねは混乱した。
息苦しい。うまく呼吸ができない。
このままでは――
「落ち着いて。おそらく、過呼吸です。落ち着いていれば、じきに収まりますから」
儀一はねねの頭を抱きかかえた。それから、気持ちを落ち着かせるように、とん、とんと、優しく背中を叩く。
「だいじょうぶ。少しずつ、楽になりますから」
ねねはすがりつくように、儀一の手を握り締めていた。
十分、二十分と時間が経過するにつれて、儀一が言うように息苦しさが和らいでいく。
「落ち着きましたか?」
「……はい」
しかし、申し訳ないと思う気持ちはますます膨らんだ。
「私、迷惑ばかりかけて。何の役にも……」
「ねねさん」
背中を叩く手が止まる。
「そんなの、関係ないですよ」
「え?」
ねねを抱きしめながら、囁くような声で儀一は言った。
「僕たちは“オークの森”で出会い、生死をかけたサバイバルを乗り越えました」
その過程で生まれたのは、確かな絆。
「血のつながりこそありませんが、僕は、ねねさんや子供たちのことを、大切な家族だと思っています。役に立つ、立たないで、評価をしたり、見切りをつけたりはしません。それは、ねねさんも同じだと思います」
その通りだとねねは思った。
自らすすんで家のお手伝いをしてくれる子供たち。正直、ひとりでやった方が効率がよい場合もある。それでも、子供たちの気持ちや行動が嬉しい。
「ねねさんは、僕のために――無理をして頑張ってくれました。このような時に不謹慎かもしれませんが、僕は嬉しかったんです」
「儀一、さん」
家族は時に助け合い、時に迷惑をかけ合うもの。
そこに貸し借りなどない。
「ねねさんの気持ちは、いっぱい伝わりました。嫌だなんて少しも思っていませんよ」
儀一は文句を言ったり、注意したりはしなかった。
「だから、今度は僕の番です」
ただ自分の望みだけを、伝えてきた。
「ねねさんが元気になるまで、そばにいさせてください。もっと、わがままを言ってください。たくさん、迷惑をかけてください。それを僕は、望んでいるんです」
「――っ」
たまらず、ねねは涙を零した。
先ほどまでの冷たい涙ではない。安堵と嬉しさと、そして鮮烈な感情の込められた、狂おしいまでに熱い涙だった。
もうだめだとねねは思った。
もう気持ちが抑えられない。
こんな状況でこんなことを口にするのは卑怯だ。
儀一を困らせるだけ。
でも。
――それでも。
「儀一さん」
ねねは儀一の胸から離れた。
穏やかな微笑を浮かべている儀一をじっと見つめる。
「本当に、迷惑をかけてもいいですか?」
こくりと儀一が頷く。
軽く唇を噛み締めて、息をひとつついてから。
「私は、儀一さんのことが――」
ごく短い言葉で。
ねねは自分の気持ちを伝えた。




