不幸な勇者と幸運のゾウ
(1)
“獣の森”ティタン。
遥かなる太古に森の管理者と人間の王とが交わした相互不可侵の盟約は、人間界において伝説として継承されていた。
彼の森、覚悟なき者の立ち入りを禁ず。
枝木の一本、木の葉の一枚とて、奪うことなかれ――
覚悟とは、自分が生まれ育った世界を捨てる覚悟であり、死ぬ覚悟でもあった。
不用意に森の中に立ち入った人間は、たとえ殺されたとしても文句を言えない。
森の管理者としては、何ら責任を持たない。
だから不用意に立ち入るな、ということだ。
ティタンの森は、世界の大地の約一割という広大な領域を有している。
別名“獣の森”と呼ばれている通り、数多の種類の野性動物が生息しているのだが、中には魔王の力すら凌駕する伝説の幻獣や魔獣もいるようで、盟約があろうとなかろうとも、興味本位で立ち入ろうとする者はいなかった。
だが、覚悟のある者であれば別である。
その日、己の死に場所を求めて。
とある傷心の勇者が、ティタンの森へと足を踏み入れた。
当然のことながら、迷っていた。
そもそも道などないのだから迷うも何もないのだが、マルテウスは自分の位置を見失い、進んでいるのか戻っているのか、あるいは同じところをぐるぐると回っているのか、よくわからない状況に陥っていた。
それでも落ち着いていたのは、どちらにしろ結末は変わらないという、達観した思考があったからである。
行き着くところまで行って、野垂れ死ぬ。
あるいは、獣たちに食い殺される。
それだけは確定事項だった。
ティタンの森に入って、すでに五日目。
森の中には決して見飽きることのない景色が広がっていた。
何気なく生えている木々は、そのほとんどが樹齢千年を超えるのではないかと思えるほど幹が太く、複雑な形状をしている。
葉の形は様々。小さな葉がびっしりと生えたものから、人の顔よりも大きな葉を茂らせているものもある。
ただひとつ共通しているのは、枯れた葉が黒色になること。
だから、地面だけは黒炭を敷き詰めたように黒い。
鮮やかな葉の色と地面の色とが、より一層のコントラストを生み出してるのだ。
「ここへ来て、よかった」
記憶も感情も、何もかもを置き去りにして、ただ風景のみを視界に映す。
自分自身も雄大な森の一部となり、静かに溶け込んでいく。
もちろんそれは、マルテウスの錯覚に過ぎなかったが、少なくとも、壊れかけた心の平静を保てるだけの効果は十分にあった。
今の自分は一介の名も無き冒険者だと、マルテウスは考えていた。
冒険とは、まだ見ぬ景色を求めること。
未知なものへの挑戦、探検である。
原動力は好奇心のみ。
他人の評価など気にしない。
命すら顧みない。
そういった意味では、明確な目的があり勇者などと呼ばれていた頃よりも、よほど冒険者らしい生活を送っているのではないか。
やや自虐的に、マルテウスは笑った。
どうせ誰も聞いてやしない。
森の獣だって叫び合っている。
だから遠慮なく、大声で笑うことにした。
無口で無愛想、まったくお前は面白みがないと、仲間のひとりに茶化されたこともあった。自分には重大な使命があるのだから、無駄なことは――それこそ笑顔すら作る必要はないと、当時のマルテウスは考えていた。
だが、それも終わりだ。
使命は果たしたのだから、無駄に興じてもよいだろう。
「わっはっはっはっ!」
ひとりで下手くそな笑いを披露していると、少し離れた位置にある潅木が揺れた。
一瞬で気持ちと表情を引き締め、背負袋を地面に下ろす。腰に吊るしていた愛剣を手に、身構える。
やや開けた空間の先、巨大樹の隙間を埋めるように茂る背丈の低い木々。
それらを押しつぶすようにして、灰色の塊が飛び出してきた。
まん丸とした体格に、太い足。
頭部には団扇のような耳と細長い鼻がついている。
「ぱぉー!」
そして、特徴的な鳴き声。
一見した動物の名前を、マルテウスは記憶の中から呼び起こした。
実際に目にしたことはなく、古い文献の挿絵で見かけたくらいだ。遥か南方の国で神の使途として崇められている、神聖な動物。
確か、ゾウとかいう名前だったはず。
文献では、その身体は岩山のように大きく、大蛇のような形をした鼻は、地面にまで届くほど長い、とのことだったが。
「子供か!」
森の獣にしては大きいが、岩山というほどでもない。鼻は長いが、口から突き出ている牙は小さく、目がくりくりとしている。
何よりも、無警戒な口の開き方とその中に見え隠れしている可愛らしい桃色の舌から、赤子のような印象をマルテウスは受けた。
だが、子供とはいえ、その体重は巨漢のマルテウスの三倍はあるだろう。
まともに突進を受ければ、ただでは済まない。
「くるのか?」
いや、様子がおかしい。
何か別のものに追い立てられているようだ。
やがて、潅木の茂みから別の影が飛び出した。
子ゾウよりも大きい、それはフクロウの頭部を持つクマのような魔獣だった。
梟頭熊だ。
鮮やかな黄色の目に分厚く鋭い嘴。四足で歩行しており、前足にはびっしりと羽毛が生えそろっている。
子ゾウはマルテウスの姿に驚いたようだが、目を瞑り恐怖を振り払うかのようにして、彼の脇を通り過ぎていった。
そして梟頭熊は、巨大な黄色の丸い目――その中の黒色の瞳を動かさなかった。まるでマルテウスのことを取るに足らない枝木のように思っているようで、子ゾウの姿を捉えたまま、真っ直ぐに突っ込んでくる。
この森の生態系がどのように成り立っているのかは分からないが、明らかに梟頭熊は捕食者であり、子ゾウは被捕食者だった。
梟頭熊は極度の空腹状態で、この狩りに命を懸けているのかもしれない。巣では子供たちが腹をすかせて待ってるのかもしれない。
それでもマルテウスは、子ゾウを助けることにした。
正義でも悪でもない。
自然の摂理などどうでもよい。
幼い子供だから、守る。
その決断は完全なる我侭であり、そのことをマルテウス自身、はっきりと自覚していた。
疑問の余地などなかった。
彼の心の奥に生々しく残っている悔恨の傷が、単純な理由を後押しして、無粋な行動に駆り立てたのだ。
マルテウスは長剣の刀身を身体の陰に隠すと、静かに呼吸を整えた。
腹の下に意識を集中させ、全真に神気を巡らせる。
その気配に危険を感じたのか、梟頭熊の瞳が動いた。
後ろ足を大胆に使って突進を止めると、二本足で立ち上がる。
その背丈は、人間の中では巨漢を誇るマルテウスの二倍以上。上空から覆いかぶさってくるような感覚だ。
先端に鉤爪のついた太い腕が、斜めに振り下ろされた。
一撃でも受けたら、終わる。
マルテウスが身に着けている皮鎧など、まるで意味をなさないだろう。
だが、心と身体の準備はできていた。
梟頭熊の攻撃を避けると同時に、長剣で切りつける。
体重が乗らない斬撃のため破壊力には欠けるが、その刀身は鋭い切れ味を見せて、梟頭熊の羽毛に覆われた腕を浅く切り裂いた。
痛みによって開かれた嘴から、野太い絶叫が響き渡る。
マルテウスは焦らなかった。
梟頭熊の攻撃は重いが、単調である。間合いも計れないし、フェイントもない。
破れかぶれの体当たりさえ気をつければ、まともに喰らうことは無いだろう。
だが、相手は魔獣だ。
膨大な獣気と無尽蔵の体力がある。
じっくりと焦らず、最小限の動きで、確実に削り取る。
ひとつの、一対一の戦いとしては呆れるほどの時間をかけて、マルテウスは梟頭熊を弱らせていき、最後に、切り株のような太い首の真ん中を貫いてとどめを刺した。
大量の血を流しながら、どうと魔獣が倒れる。
「梟頭熊か。冒険者組合の目撃情報は、ここ十年間で二、三件くらいしかなかったはずだぞ」
さすがは“獣の森”である。
マルテウスは刀身を梟頭熊の毛皮でぬぐい、貴重な飲み水を使って、血のりを洗い流した。
元来、寡黙できれい好きな性格である。
厚手の布でしっかりと刀身をふき取り、鞘を被せる。
それから梟頭熊の死体を見下ろした。
「さて、こいつをどうするかな」
珍しい魔獣である。毛皮を剥ぎ取れば、びっくりするくらいの売値がつくだろう。肉の味は分からないが、珍しい食材には違いない。これも高く売れるはず。
だが、今のマルテウスに金など必要なかった。
少しだけ悩んでから、マルテウスは梟頭熊の背中の部分の肉を切り取り、皮袋に入れて持ち歩くことにした。
およそ、三日分の食料だ。
ここに留まっていれば、死体の匂いを嗅ぎつけて別の魔獣がやってくるかもしれない。
早々に立ち去るのがよいだろう。
「悪いな。恨み言はあの世で聞く」
梟頭熊の死体に語りかけてから、マルテウスは背負袋を担ぎ、先へ進もうとした。
そして、後方から聞こえた物音に振り返った。
「――お前は?」
マルテウスはあっさりと警戒を解いた。
茂みから顔を出したのは、先ほどの子ゾウだったのである。
「逃げたんじゃなかったのか?」
臆病な動物だと思ったのだが、好奇心もあるようだ。
「お前を襲った魔獣は倒した。俺も、お前を襲ったりはしない」
子ゾウは長い鼻を揺らしている。
「暗くならないうちに、お前も家族のところに帰れよ」
人の子供にかけるような台詞を口にしてから、マルテウスは子ゾウに背を見せて歩き出した。
大樹の葉に隠れて確認できないが、太陽はずいぶん傾いているようだ。
森の夜は早い。ぐずぐずしていると、あっという間に暗闇に閉ざされてしまう。
マルテウスは梟頭熊の死体から離れつつ、適当に身を隠せる場所を探すことにした。
飲み水が残り少ない。
幸いなことに、この森には果実を実らせている木々が多いので、水分不足で動けなくなることはないが、できれば贅沢に顔を洗いたいところである。
(2)
命を捨てる覚悟でティタンの森へと入ったマルテウスだったが、手放さなかった持ち物がある。
それは愛用の装備一式と、とある古代遺物だった。
古代遺物とは、およそ七百年ほど前の人間の王国で作成されたもので、現在では製造方法が失われている貴重な魔法工芸品である。神気を送り込むことにより、様々な魔法効果を発現させることができる。
古代の遺跡からごくまれに発掘されることがあり、一攫千金を狙う冒険者たちにとっては、まさに夢の宝物といえるだろう。
マルテウスが所有している古代遺物はただひとつ。
その作品には、“隠れ家”という名前がつけられていた。
形状は円柱形で、片手に乗るくらいの大きさ。
材質はなめし皮、のようなもの。
これに神気を込めると、みるみるうちに巨大化して、大人の人間が十人くらい入れるテントになるのだ。
古代遺物に造詣の深い仲間の魔法使いによると、“隠れ家”には、空間属性魔法の魔法言語が刻み込まれているらしい。長々と詳しい説明をしてくれたのだが、難しそうだったのですべて聞き流した。
冒険者としては、使い方と効果が分かれば十分だと思ったからだ。
“隠れ家”を使えば、労力をかけずに短時間で寝床を確保できる。テントの中は何もない空間だが、壁面は分厚く、床の絨毯はふかふかで、なかなかに寝心地がよい。しかも、天井からぶら下がっている球状の物体――“発光球”に神気を込めると、ぼんやりと明かりがつくおまけつきだ。
人里を離れて長期間旅をするには、うってつけの道具といえるだろう。
茂みに囲まれた空間に“隠れ家”を設置したマルテウスは、その前で焚き火を焚き、簡単な食事を終えていた。
思っていたよりも梟頭熊の肉は美味だった。
筋張ってもいないし、獣の匂いもしない。
しかし、なんとも落ち着かない食事だった。
原因は、木陰からそっとこちらを覗いているつぶらな瞳のせいである。
どう考えても木の幹よりも身体の方が大きくて、隠れきれていないのだが、本人は隠れているつもりらしい。
それは、先ほど助けた子ゾウだった。
追い返すのも可哀想だし、野生の動物を焚き火に誘うのも変だ。
そのうちどこかへ行ってしまうだろうと思い、黙々と食事を続けていたのだが、子ゾウは木の陰でずっとうろうろしていた。
しびれをきらして、マルテウスは声をかけた。
「おい、こっちにくるかあっちに行くか、どちらかにしろ。落ち着かん」
すると子ゾウは人間の言葉を理解したかのように、のそのそとやってきた。
鼻の先に木の実をつかんでいる。
それをすっと差し出してきた。
「くれるのか?」
ティタンの森に棲む幻獣や魔獣は力が強いだけでなく、知能も高いと聞いたことがあった。助けてもらったお礼のつもりなのだろう。
「ありがたくいただこう」
子ゾウは鼻を縦に振った。食べるように促すような仕草だ。
マルテウスは服で果実を拭いてひと口かじった。
甘い。果汁が溢れ出てくる。
肉を食べて喉が渇いていたこともあり、マルテウスは夢中で果実を食べた。
「ああ――うまかった。ごちそうさん」
子ゾウはスキップするような足取りで、森の中へと消えていった。
なかなか律儀な子ゾウもいたものである。
マルテウスは焚き火の後始末をすると、テントの中に入った。
すでに日は暮れている。
今日はゆっくりと寝て、明日から水場を探そう。
床の上に寝転がりながらそんなことを考えていると、どすどすという足音が近づいてきて、入口の幕がそっと開いた。
ころりと果実が転がり込んでくる。
「……」
再び足音が遠ざかり、また近づいてくる。
そのたびに果実が増えていく。
果実の数が十個を越えるとさすがにいたたまれない気持ちになって、マルテウスはテントの外で待ち構えることにした。
「おい。もういっぱいもらったから、十分だぞ」
子ゾウは何かを期待するかのように、鼻を揺らした。
「家族のところに、帰ったらどうだ?」
少ししゅんとしたように、鼻を下げる。
「はぐれたのか?」
その後幾つかの質問を繰り返して、どこかへ行くように促したのだが、子ゾウは立ち去ろうとはしなかった。
マルテウスはため息をついた。
「俺と、いっしょにいたいのか?」
「……ぱぉ」
「勝手にすればいい」
根負けである。
マルテウスがテントの中に入ると、子ゾウもいっしょに入ってきた。
入口はぎりぎり通ることができたのだが、子ゾウの身体は泥だらけだった。きれい好きな家主としては、げんなりする思いである。
「俺は疲れたから寝るぞ」
“発光球”を操作して光を消すと、マルテウスは隅の方に横たわった。
翌日、大蛇に絞め殺される悪夢から目覚めたマルテウスは、自分の首に子ゾウの鼻が巻きつけられているのを発見した。
臭い。
泥と土と落ち葉の匂いがする。
自分のすぐ隣に子ゾウが寝ていた。横倒しになって腹をこちらに見せている。野性の動物にしてはだらしない姿だ。
「寝相が悪かったら、潰されてるぞ」
気持ちの悪い寝汗を拭きとって、マルテウスは起き上がった。
朝日を浴びながら体操をする。
これがマルテウスの日課である。
念入りに間接をほぐし、筋肉を温めていく。
それから剣の素振りをする。
しばらくすると、子ゾウが起きたようで、どたばたしながらテントから出てきた。
「ぱぉーん」
「よく眠れたようだな」
朝食は昨日子ゾウが運んできた果実だ。
マルテウスはひとつだけ。残りは子ゾウが全部食べてしまった。
マルテウスとしては苦笑するしかないといったところである。
さて、これからどうしたものか。
自分の冒険には先がない。魔獣が現れても逃げるつもりはないし、勝ち続ける見込みも少ない。梟頭熊程度であれば何とか戦えるが、それでも二体以上いたら負けていただろう。
一方の子ゾウは、どうやら群れからはぐれたらしい。
牙は小さいし、爪は大地を踏みしめるためにあるようだ。逃げ足はなかなか速かったが、動きはどんくさい。オオカミなどに見つかっていれば、取り囲まれて殺されていただろう。
この広大な森で群れに戻れるとは思えなかったし、このまま放っておいたら魔獣に捕食されるだけだ。
先がないのは自分と同じ。
「ならば、好きにすればよいか」
どうせ責任などとれやしないのだから。
マルテウスは“隠れ家”に神気を送り込んで小さくすると、背負袋の中にしまって、出発の準備を整えた。
「死ぬかも知れんが、いっしょにくるか?」
「ぱぉ」
さて、呼び名はどうしよう。
自分には絶望的に名付けのセンスがないことを、マルテウスは自覚していた。
子供ができたときも、他人に聞きまくり、散々悩んだ挙句、何がよいのかまったく分からなくなった。結局、国で一番よく使われている無難な名前に決めた。悩んだ意味がなかった。自分が決めるなどと見栄を張ることなく、最初から妻に任せておけばよかったと後悔したくらいである。
「……パオでいいか?」
「ぱぉ」
決定である。
森の中の探索中、二体の魔獣に出くわした。
それは邪牙狼というオオカミで、梟頭熊よりは体格が劣るものの、その分動きが俊敏だった。
二体同時に襲いかかってきたら、一瞬で終わっていただろう。
だが、美味しそうな獲物である子ゾウと、長い鉄の刃を持つ邪魔な人間がいたことで、邪牙狼たちの注意力が分散され、連携が乱れた。
一体がパオに飛びかかろうとしたところに、マルテウスが鋭い突きを入れる。邪牙狼は信じられない動きを見せ、剣戟をかわすと同時に、マルテウスの長剣に噛みついた。
これには驚いたが、相手の動きは止まった。
マルテウスは腰に挿していた予備の短刀を引き抜いて、邪牙狼の目に突き刺した。
さらにもう一体の邪牙狼が飛び掛ろうとしていたので、短刀を投げつける。突き刺さりはしなかったが、間合いをとらせることに成功した。
その隙に、目を貫かれて絶叫している邪牙狼の首に、長剣を突き刺した。
無傷な方の邪牙狼は逃げなかった。
仲間をやられたことに大きな怒りを感じているようで、牙をむき出しにして、涎を飛び散らせながら、感情の命ずるままに飛びかってきたのである。
こうなると、梟頭熊と同じパターンになる。
攻撃をかわし、切りつけ、少しずつダメージを蓄積させていく。血を流していけば、邪牙狼の最大の武器である俊敏さが鈍り、とどめを刺す機会を狙いやすくなる。
焦らず、ゆっくりと時間をかけて、マルテウスは邪牙狼を倒した。
呼吸を整えながら、マルテウスはオオカミの返り血をぬぐった。
「なんとか、生き延びたな」
囮となるパオがいなければ、もっと苦戦していたことだろう。
邪牙狼もなかなかに珍しい魔獣である。冒険者組合の目撃情報では、年に数回あるかないか。獰猛な性格で、食欲は旺盛。群れを成すと周囲の町や村の脅威になるため、すぐさま冒険者たちによる討伐隊が組まれる。勇者時代のマルテウスも邪牙狼退治には何度か駆り出されたものだ。
貴重な毛皮は台無しにしていまったが、そもそも売るつもりはない。梟頭熊の肉も残っていたので、そのまま打ち捨てることにした。
しかし、汗もかいたし、返り血も浴びた。
「水浴びをしたいところだな」
「ぱぉー」
その言葉に反応したのはパオである。
鼻の先を使ってとある方向を指し示すと、自分についてこいとでもいうかのように、先導して歩き出した。
この子ゾウは鼻が利くのか、探索中に色々な食べ物を発見してくる。
果実や木の実はもちろんのこと、地面に埋もれた芋類やキノコまで、鼻の先を器用に使って掘り起こし、まるで褒められることを期待するかのように、マルテウスに差し出してくるのだ。
いっしょにいると食料に困ることはなさそうだと、密かに感心していたのだが、水場を探すこともできるのだろうか。
かなりの距離を歩いたところで、小さな泉が出現した。
驚くほど水が澄んでおり、流れはない。まるで鏡のように、湖面には森の景色が鮮やかに写し出されていた。
どうやら湧き水のたまり場のようである。
パオは興奮したように泉に入ると、鼻を使って水を吸い上げ、口の中に流し込んだ。便利な鼻である。
泉の深さは膝くらい。周囲に獣の気配はない。
これならば問題はないだろう、
マルテウスは背負い袋と愛剣を下ろすと、服を脱いで素っ裸になった。
予想以上に水は冷たく、身体が引き締まるようだ。
久しぶりに身体の汚れを洗い流す。
「ちょうどいい。お前もきれいにしないとな」
これ以上“隠れ家”を汚されてはたまらない。
マルテウスは背負袋の中から厚手の布を取り出すと、水を含ませて、パオの身体を擦った。
こびりついていた泥が落ちると、白っぽい肌が出てくる。
パオも気持ちがよいようで、鼻で水を吸い上げては、背中にかけて汚れを洗い流した。
乳白色のきれいな色。団扇のような耳の縁の部分と尻尾の先、そして足のつま先部分が、淡い桃色。
何ともカラフルな色合いである。
「よし、きれいになったな」
パオが何かに気づいたようだ。
素っ裸のマルテウスに鼻を近づけて、確認しようとする。
腹部の下の辺り。
「おい、それはお前の鼻とは別物だ」
「ぱぉ?」
(3)
マルテウスの朝は、正確かつ早い。
時計がなくても決まった時間になると自然に目が覚める。深酒などをして寝坊した時には、定刻を過ぎると悪夢を見るので、気合で起きるようにしているくらいだ。
最近は定刻通りで起きても、その限りではないのだが。
倒れてきた木の幹に挟まれたところを、魔獣の大群が押し寄せてくる。そんな悪夢から目覚めたマルテウスは、胸の上に乗っていたゾウの鼻を脇にのけると、物音を立てずに起き上がった。
こぎれいになったパオを横目に、“隠れ家”を出る。
まずは体操だ。
両手を大きく広げたり、足をがに股に広げたり、傍から見ていると格好がわるいそうで、仲間たちには不評だったマルテウス体操である。
間接がほぐれ、筋肉が温まると、愛剣で素振りを行う。
刃が立てる風切音で、その日の調子を感じ、整えていく。
今日は絶好調のようだ。
納得できる素振りを納得できるまで続けたところで、朝の鍛錬は終了。上半身の汗を拭き取った。
「そういえば、近くに水辺があったな」
昨日パオが見つけた湧き水の溜まり場のことだ。
水辺には動物たちが集まってくるので、少し離れた場所に“隠れ家”を設置していた。
今後も都合よく水場が見つかるとは限らないので、今のうちに存分に使っておこう。
森の中の朝は気温が低く、冷たい霧が立ち込めている。裸になって全身水浴びをするのは、さすがにつらい。せめて顔と頭だけでも洗おうか。
そう心に決めて水場に向かったマルテウスだったが、水面に顔を写しながら髭でもそろうかと考えている時に、後方から衝撃を受けて泉の中に叩き落された。
「パォー!」
やってきたのは乳白色に桃色を散らしたカラフルなゾウ、パオだった。
「お前、何するんだ!」
さすがに文句をつけると、パオもまた泉の中に入ってきた。何故か不満そうな目をして、鼻をマルテウスの腕に巻きつけてくる。
その仕草で、マルテウスは気づいた。
朝起きて隣に自分がいないことに気づき、この子ゾウは心細くなったのではないか。
やはり、精神は幼い子供なのだろう。
「荷物を置いたまま、どこかに行くはずがないだろう?」
「……ぱぉ」
「お前も、もう少し早く起きるように努力しろ。自分の力でな」
予期せぬ連れができたからと言って、生活のリズムを崩すつもりはなかった。
それに、同じ“隠れ家”で寝ていたかつての仲間たちは、マルテウスが起こすことを期待して、定刻で目覚める努力を完全に放棄していた。
自分は父親でも母親でもないし、世話好きでもない。
わずらわしい人間界から抜け出してきたというのに、些細なことで鬱憤を溜め込むのはごめんである。
服を脱いで水を絞り、ついでにパオの身体も洗ってやる。泥はきれいに落ちているので、手で軽く擦るだけで十分だろう。
朝食は昨日パオが見つけて差し出してきた木の実と果実である。
背負袋の中に大量に保管しておいたのだが、ほとんどパオが食べてしまった。文句をつけられる立場でもないし、マルテウスは好きにさせることにした。
食料をせっせと溜め込むのは、土地に縛られている者だけ。
命を失えば、すべてが無駄になる。
「美味いものを見つけたら、また頼むぞ」
「ぱぉ」
どうせ目的地もないのだから、どちらへ向かっても同じである。パオが食料や水場を見つけたなら、そちらへ向かえばよいのだ。
適当に方針を定めて、マルテウスは出発した。
森の様相は様変わりしていた、
巨大樹が少なくなり、幹の細いしかし背丈の高い針葉樹がまばらに生えている。太陽の光が地表まで届くので、彩り豊かな草花が美しい絨毯を形成している。
森の中にしてはめずらしく、心地よい風が吹いていた。
「のどかなところだな」
びっしりと鞘のついた蔦植物を、パオが運んできた。
マメ科の植物のようだ。
「食べられるのか?」
「ぱぉ」
飲み水も補給できたので、今夜は鍋にしようか。
そんなことを考えていると、遠くの方の地面が波打って見えた。
こちらに向かって押し寄せてくるようだ。
それは、ネズミの大群だった。
大きさはネコほどもある。茶褐色の毛色で、針のように尖っている。顔の部分だけが白く、碧石色の小さな目が光っていた。尾は灰色で、長い。
その数、三百を超えるだろうか。
「小玉鼠?」
この魔獣の最大の特徴は、激しい衝撃を受けると爆発四散して、針のような毛を周囲に撒き散らすところにある。得物が傷つき、動きを止めたところを、集団で襲いかかるのだ。
倒すならば、切り裂くしかない。
小玉鼠の群れは、真っ直ぐにこちらに向かってくる。
火事や他の魔獣といった脅威から追い立てられているのかと疑ったが、彼らは明確な目的を持っているようだった。
すなわち、狩りである。
「おい、パオ。あそこにある木の周りをぐるぐる回ってろ。絶対に立ち止まるなよ」
「ぱぉ」
下手に暴れられて小玉鼠が爆発したら、目も当てられない。
敵の数と間合いを考えると、短刀を使うのが最善なのだが、近距離で爆発されると、毛針は避けられないだろう。長剣で勝負するしかないようだ。
本来、罠を仕掛けて殲滅させる魔獣である。
まともに立ち向かえば、まず蹂躙される。
しかし、見晴らしのよいこの場所では身を隠せないし、登れるような木もない。
無茶を承知で戦うしかなかった。
「――シッ」
最初に飛び掛ってきた小玉鼠を、マルテウスは真横に切り裂いた。
立ち止まっていてはすぐに取り囲まれる。マルテウスは走りながら長剣を振るい、一体一体を確実にしとめていった。
目の焦点は固定せず、領域全体にぼんやりと置く。
「パォーン!」
視界の片隅では、パオが三分の一ほどの数の小玉鼠に追い立てられながら、どたどたと樹木の周りを走り回っていた。
今は心の中で応援するしかない。
マルテウスは俊敏な動きで立ち位置を確保し、長剣を煌かせる。
それは朝の訓練に似た感覚だった。
考えている暇などない。敵を殺すという単純な行為に心と身体を委ねる。
「――シッ、――シッ」
身体の動きが軽い。頭の中は妙に落ち着き払っている。
集中力が増しているのか、相手の動きが先読みできるようだった。
マルテウスは自分の周囲にいた小玉鼠を、一体も爆発させずに殺しきると、悲哀に満ちた鳴き声を上げ続けているパオのところに駆けつけ、さらなる斬殺に身を投じた。
戦闘開始から、どれだけの時間が経過しただろうか。
「……ぱぉ」
不意に細長い鼻が伸びてきて、マルテウスの首に巻きついた。
気がつけば、草花が風に揺れていたのどかな景色は、血しぶきで彩られた凄惨な光景へと変わっていた。
乱れた呼吸に、荒々しい神気。
周囲に動くものがいないことを確認して、マルテウスは長い呼吸とともに神気を霧散させた。
「終わったか」
また、生き延びることができたようだ。
一度の戦闘で、これだけの数の魔獣を倒したのは初めてかもしれない。
一体一体はそれほど強くはないのだが、鋭い歯を持っているので、足や腕などをかじられると、厳しい戦いになる。それに、小玉鼠の表皮は固い。針のような固い毛が刃物の通りを悪くするのだ。
おそらく、ひと振りたりとも失敗しなかった。
もはや自分の役目は終わっているというのに、日頃の鍛錬の成果がここにきて現れてきたのだろうか。
マルテウスは血塗られた長剣の汚れを洗い流すと、小玉鼠を一体だけ解体し、肉を剥ぎ取った。
梟頭熊の肉が残り少なくなっていたので、補充したのである。
血の匂いが染みついた領域を、急いで離れる。
やがて、周囲を潅木に囲まれた、ちょうどよい場所を見つけた。
「少し疲れたな。お前も休め」
「ぱぉ」
あれだけ激しい運動をしたにも関わらず、マルテウスはそれほど疲れていなかった。
どちらかといえば、心を落ち着けて頭の中を整理したいと考えたのである。
ひょろりとした木の根元に胡坐をかき、呼吸を整える。
隣にはパオが横たわり、安心しきったように鼻を伸ばして、目を閉じていた。
先ほど倒した小玉鼠の数は、三百六十三体。
すべての太刀筋を、マルテウスは克明に覚えていた。
久しぶりに身体を洗って、しっかりと食事をとり、ぐっすり眠ったことで、調子がよかったのだろうか。
もし小玉鼠が倍の数いたとしても、無傷で倒せたという、奇妙な自信があった。
これは慢心だろうか。
いや、今の自分に功名心はない。
自分の実力や才能に対する期待もない。
ただの、厳然たる事実である。
その証拠に心は冷え切ったままだ。
しばらくの間、マルテウスは自分が起こした奇跡の太刀筋を思い起こしていたが、それも面倒くさくなって、半眼になったまま思考を停止させた。
パオの穏やかな寝息。
草花の揺れる音。
そして、ごくかすかな、獣の足音。
胡坐をかいたままぴくりとも動かないマルテウスのもとに、ネコ科の獣が忍び寄っていた。
大きさは大人の男が抱えられるくらい。毛色は青く、光の加減によって微妙に色彩が変わる。耳は尖っており、その先に長い毛が生えている。尻尾は長く体長とほぼ同じくらいある。
大きな楕円形の目が特徴的だった。
左の目が黄水晶。
右の目が紫水晶。
左右の目の色が違うオッドアイだ。
それは、人間界において全知猫と呼ばれている、伝説の幻獣だった。
全知猫は自信満々の足取りで、マルテウスの前に進み出た。
自分が捕まるとは欠片ほども考えていないようだ。
そして彼女は、あっさりと捕まった。
「ギニャー!」
「うん?」
マルテウスは視界に入ったものに反射的に手を伸ばし、その首根っこを捕まえた。
それは青色の毛並みを持つ美しい猫だった。
「ほう、きれいだな」
「ニャニャ!」
「ふむ、しっぽがふさふさだ」
身体のバランスを取るための大切な部分を握られ、全知猫は混乱したように暴れまくったが、首根っこを掴まれているので牙も爪も届かない。
そうこうしているうちに逆さ吊りにされる。
「ん? お前、メスか」
「ギニャ~!」
全知猫が絶叫した。
「こら、暴れるな。別に食べたりはしない。食料は十分にあるからな。さっきネズミを――」
『無礼者っ! 離しなさい!』
頭の中に直接言葉が飛び込んできて、マルテウスは驚いた。
涼やかな女性の声、のような印象である。
「なんだ、この声は?」
『ええい、この――不埒者っ!』
全知猫は身体を丸めると、ばねのように一気に弾けた。
両足による蹴りが、マルテウスの顔面に炸裂する。
ようやく自由を取り戻した全知猫は、空中で一回転すると、なめらかな動きで着地した。
そして、頭の中に響く声で命令した。
『死になさい!』
(4)
全知猫はぷりぷり怒っていたが、逃げ出そうとはしなかった。
まったくもって礼儀作法がなっていない。思考もしていないのに突然動くなど、言語道断である。深く反省しなさい。そんなような趣旨の文句を、マルテウスの頭の中に直接響かせたのである。
「分かった分かった。だから、頭の中でぎゃーぎゃー喚くのはやめてくれ。頭痛がする」
『謝りなさい』
まるで教師のように命令してくる。
内心、何が悪かったのだろうかと首を傾げながら、マルテウスは「すまなかった」と頭を下げた。
眠っていたパオが起きたらしく、鼻の先を全知猫に伸ばしたが、ぺしんと肉球で叩かれた。
『情けないわね。それでも私と同じ幻獣なの? 人間などと馴れ合って。恥を知りなさい、恥を!』
「……ぱぉ」
なんだか面倒くさそうなやつだと、マルテウスはげんなりした。
こういう口うるさい女の相手をする時には、適当に相槌を打ちながら、聞き流すのが一番だ。
マルテウスはそう考えた。
『何ですって?』
オッドアイの双眸が、ぎらりと睨んでくる。
全知猫は、他者の思考を読むことができる。だから狩りをする場合は、意図せぬ偶然に頼るしかない。そんな伝承をマルテウスは思い出した。
そして、全知猫の美しい青色の毛皮は、立派な屋敷が建つほどの価値があるのだと。
『何ですって?』
「いや、すまん。お前をどうこうするつもりはない。俺に金は必要ないからな」
間もなく夕暮れ時である。
マルテウスは焚き火を熾しながら、全知猫に用件を聞いた。
『珍しい動物がいたから、見学に来たのよ』
「ああ、パオのことか」
『幸星象もそうだけれど、どちらかといえば、あなたね』
「俺か? 人間など掃いて捨てるほどいるだろうに」
『少なくとも』
全知猫は長いしっぽを自分の首に巻きつけた。
『ここ二百年、あなたたちがティタンと呼んでいるこの森の、“細杉”の領域まで入り込んだ人間は、いなかった』
死に場所を求めて森に入り込んだ人間は、みな森の入口付近、“黒土”の領域で獣や魔獣に食われたのだという。
『単に運がよいだけかと思ったけれど、人間にしては力も強いようね。おかげで私も、新鮮な肉を手に入れることができたわ』
梟頭熊、邪牙狼、小玉鼠との戦いを、全知猫はずっと観ていたようだ。
『でも、あなたの幸運もここまで』
森で拾った薪にようやく火がついたが、まだ若木だったようで、煙が立ち込める。
マルテウスは涙目になり、むせ返るような咳をした。
「どういうことだ?」
ごく普通に野生のネコと会話をしていることに、マルテウスは違和感を覚えた。
しかし、人間の言葉が分かるゾウもいるのだから、それほど不思議なことではないのだろう。
『その子よ』
「パオがどうした?」
子ゾウのパオは火に慣れていないようで、焚き火には近づいてはこない。しかしマルテウスから離れたくもないようで、微妙な距離を保っていた。
「そういえば、幸星象と言ったか。それがパオの種族なのか?」
『そう。この森で一番の嫌われ者』
全知猫曰く、幸星象はこの森に住む幻獣、魔獣の中で、最も“存在力”の大きな幻獣らしい。
「存在力?」
『あなた、生き物をたくさん殺したでしょ? 生き物を殺すたびに、少しずつ強くなっていった。それは、あなたが相手の“存在力”を奪ったから』
「経験値のことか?」
人間が強くなるには二つの方法がある。
ひとつが鍛錬で身体を鍛えること。
そしてもうひとつは、敵を倒して経験値を稼ぐことだ。
冒険者組合では、人間の敵――魔族などを倒すと、経験値という要素が手に入り、冒険者としての力がアップするのだと教えている。
マルテウスは目の前に立ちはだかった数多の敵を倒して、勇者と呼ばれるほどに強くなったのである。
「つまり、パオを倒せば強くなれるわけか」
『だからこそ、森の魔獣たちはこの子を放っておかない』
そういえばここ三日ほど毎日のように魔獣に襲われている。“獣の森”ではこれが当たり前なのだと思っていたのだが、一応の理由があったわけだ。
「そもそも、幻獣と魔獣とはどう違うんだ?」
『あきれた。あなた、そんなことも知らないの?』
全知猫はオッドアイの双眸を細めて、「にゃあ」と鳴いた。
『幻獣は、森から生まれいでし者。知的で優美な存在よ』
胸を張ってぴんと尻尾を伸ばす。
その隣で、焚き火の熱で温まったパオが、だらしなく欠伸をしている。むにゃむにゃと口を動かして、目を閉じた。
『そして魔獣は、私たち幻獣を食べて、“存在力”を得た野生の獣たち。多少は知恵もつくけれど、より多くの“存在力”を得ることしか考えていない――ようするに、乱暴者のケダモノよ』
自然の摂理である弱肉強食以外にも、そんな争いがあったとは知らなかった。
『だからあなた。その子を見捨てなさい』
全知猫は冷たい口調で命令した。
『“細杉”の先は、“蔦壁”。人間ごときでは太刀打ちできないほどの魔獣が、うようよしているわ。間違いなく死ぬわよ」
「……」
『どのみち、幸星象は、長くは生きられない。少しばかり“探索”の力は持っているけれど、基本的には他の獣の力になるためだけに存在している、そんな幻獣なの。守ることに意味はないわ』
マルテウスは苦笑した。
「そいつはちょうどいい」
『……』
「俺は、意味のない人間だからな」
最愛の妻と最愛の息子。
その両方を守ることができなかった。
勇者などという名前には、意味がない。
自分などは凡夫以下の存在でしかない。
心の奥底から染み出てきた怒りと悔恨、そして憎悪の感情に、全知猫がびっくりしたように目を剥いた。
「確かに、パオは長く生きられないかもしれないな」
焼け付くような感情を押さえつけながら、マルテウスは淡々と言葉を紡いだ。
「だが、死ぬのは――俺の後だ」
『……』
「少なくともあいつは、俺よりも長く生き残る」
たとえ一瞬の差であっても。
それは自分の命を賭けてパオを守るという、マルテウスの宣言だった。
『あなた、もう終わっているのね?』
思考が、行動原理が確定している。
誰が何を言おうとも、決して変わることはないだろう。
「そうだ。文句あるか?」
『いえ』
美しい青色の毛並みを持つ幻獣は、まるで人間のように両肩を竦めて、尻尾を地面に垂らした。
それから、再び眠りに落ちた子ゾウの方に視線を移した。
『この子、パオと言ったかしら? 幸星象は魔獣たちを惹きつける厄介者だけれど。それでも少しは――よいことがあるかもしれないわ』
「よいこと?」
『そのうちにね』
マルテウスは焚き火に鍋をかけた。
水を入れ、昼間にパオが見つけた豆科の植物と芋、そして最後の梟頭熊の肉を入れて煮込んでいく。
調味料は貴重な塩を少々。
味は保障しかねる。
「そういえば、お前の名前は?」
今更ながらに、マルテウスは聞くことにした。
『******』
「ん? 今、なんと言った?」
雑音とも叫び声ともとれる発音。
『私たちには、それぞれを認識するための呼び名はあるけれど、人間には聞き取りづらいかもしれないわね。あなたの言葉で好きに呼ぶことを許してあげるわ』
初対面の時からそうなのだが、このネコは偉そうだ。やけに頭の回転が早く気位が高い、あのお姫様のようである。
マルテウスは先ほど全知猫を捕まえた時の鳴き声を思い出した。
「ギニャー、でいいか?」
『死になさい!』
自分には壊滅的に名付けのセンスがないことを、マルテウスは自覚していた。
それから思い付く限りの単語を口にしたのだが、全知猫はなかなか納得しなかった。
好きな言葉で呼ぶことを許すといったくせに、我侭なネコである。
最後は面倒くさくなり、もう名前はいいかと投げやりになったのだが、逆に全知猫はむきになり、名前を付けるまではどこにも行かないと居座った。
『私をこれだけ待たせておいて、ひとりで食べる気ではないでしょうね?』
マルテウスは梟頭熊と豆と芋のシチューを皿に盛って、そっと全知猫に差し出した。
それから料理を食べきるまで名前を検討し、その結果。
リュンと呼ぶことになった。
(5)
全知猫はマルテウスが作った料理を平らげると、森の中へと姿を消した。
気の強い女が苦手なマルテウスは、内心ほっとした。
焚き火の後始末をして、すっかり寝入ってしまったパオを起こし、“隠れ家”の中に入る。
小腹が空いたのか、パオは昼間に収穫した果実を食べ始めた。
「絨毯を汚すんじゃないぞ」
象の口は下を向いているので、果物の果汁がこぼれてしまう。
そこでパオがとった行動は、“隠れ家”の外へ出るのではなく、ごろりと寝転がり仰向けになって果実を食べることだった。
確かにこの体勢であれば絨毯は汚れないが……。
「もはや野生の動物には見えんな」
柔らかそうな腹は丸出し。四本の足は所在なく宙をさ迷っている。ひとつ食べ終えると、パオは寝転がったまま鼻を使って、次の果実をまさぐる。
このままでは、パオはだめな象になってしまうのではないか。
マルテウスの頭に悲観的な将来像が思い浮かんだが、そもそも長く付き合えるわけでもないし、教育をする立場でもない。深くは考えないことにした。
「朝食の分は残しておくんだぞ」
「ぱぉ」
マルテウスは先ほどのリュンとの会話を思い起こした。
パオは幸星象という幻獣らしい。
“存在力”なるものが大きく、野生の動物や魔獣たちに狙われやすい。それゆえに、仲間である幻獣たちからは嫌われている。
傍にいると、巻き込まれる可能性が高いからだ。
戦闘能力や身を隠す能力が皆無なのだから、森の入り口付近――弱い魔獣たちしかいない場所でおとなしくしていればよいと思うのだが、リュンの話ではそう簡単にはいかないようである。
ティタンの森の生き物には、それぞれの“存在力”にふさわしい住処があり、自分がいるべき場所へ自然と向かうようになっているのだという。
人間界においても、金持ちが住む場所と貧乏人が住む場所には、明確な区別がつけられてている。貧民街で成功した者は富裕街に住処を移し、富裕街で落ちぶれた者は貧民外へと住居を移す。
それと同じようなものだろうか。
『そんな感じよ』
とのことだった。
果実を三つほど食べ終えてから、もうひとつ食べようか、それとも明日の朝食用に残しておこうかと、迷う素振りを見せているパオに対して、マルテウスは苦笑した。
「お前も、少しは強くなれ」
「ぱお?」
パオの鼻が伸びてきて、マルテウスの腕に巻きつき、ぐいぐいと引っ張ってくる。
「ほう、力比べをしようというのか?」
こういった遊びは嫌いではない。
パオの鼻は人間の大人の腕ほどもあり、筋肉の塊である。体重があるので引き合いをするには有利だ。
だが、現役を終えたとはいえ、マルテウスは限界まで肉体を鍛え上げた冒険者である。数多の魔族を倒し、莫大な経験値――リュン曰く“存在力”を得たことで、人間離れした力を出すことができる。
しっかりと両足を踏ん張り、腕にぐぐっと力をかけていく。
仰向けになったまま逆にひっぱられて、パオは驚いたようだ。
勝ち負けよりも、相手にしてもらえたことが嬉しかったのだろう。興奮したように何度も挑戦してくるパオを相手に、マルテウスもまた楽しそうに付き合っていたが、急に何かに気づいたような顔になった。
「さあ、もう寝るぞ」
「ぱぉー」
「いっぱい遊んだろ。明日も早いんだ」
パオの抗議の声を無視して、“発光球”を消す。
自分に子供と戯れる資格などない。それは、記憶の中にある本物への冒涜に他ならない。
思考を凍結して横になったマルテウスの背中に、パオの鼻が何度か押し付けられたが、マルテウスは眠ったふりをした。
重苦しい空気。
身体が鉛にでもなったかのよう。
思い出してはいけない記憶を、マルテウスは考えてしまう。
自分は使命を果たすために故郷を飛び出した。
生活費を稼ぐためではない。古代遺物を見つけて一攫千金を狙うためでもない。ただ人間界の平和を守るために、マルテウスは冒険者になったのだ。
若い頃はすべての時間を鍛錬に当て、身体を作るために真面目に食事をとり、酒などは一切飲まなかった。
地方を回り魔族を倒すたびに、マルテウスの名声は大きくなっていった。
そしていつしか、“勇者”と呼ばれていた。
その後は大きな濁流の中に飲み込まれたような感覚である。
大神殿からは戦聖女が、魔法研究院からは賢者が、そして盗賊組合からは若手幹部が名乗りを上げ、マルテウスの仲間となった。
王族や貴族たちもこぞって支援を表明した。
マルテウスは自分の虚像が膨れ上がっていく感覚に、眩暈と吐き気のようなものを覚えた。
くだらない式典や祝事行進、そして晩餐会の数々。
人々が笑顔になるのであればと我慢し続けていたが、やがて限界に達した。
らしくもなく悩み、落ち込み、酒に溺れてしまった。
そんなマルテウスを救ってくれたのが、いきつけの定食屋の看板娘だった。
美人だが、気が強い。
何故か涙目になりながら、怒りの言葉をぶちまけてきた。
「昔のあんたは、他人の目なんか気にしなかっただろ? 世界の平和を守ると言って、剣を振り回していた。みんなに笑われても、ちっとも気にしなかった。それがなんだい、情けない! ちょっと他人の目が変わったからって、おたおたして。あんたはずっと、面白くもない顔をして、黙々と剣を振り続けて――世界を守ってりゃいいんだよ!」
敵を倒すことしか知らなかったマルテウスは、珍しく別の方面でも努力して、看板娘を妻に迎えた。そして翌年には息子が生まれた。
知り合いにはどうやって口説いたのだと聞かれたが、弱音を吐いて説教されたとは言えず、「自然の成り行きだ」と答えた。
人々や王侯貴族が騒ごうが、自分の使命は変わらない。
人間界の平和と、小さな家庭をを守ることだ。
その後も魔族との戦いに明け暮れたマルテウスとその仲間たちは、魔族たちの中でもっとも攻撃的で野心的だった王を討伐することに成功した。
それは四天王として数えられていた伝説の魔王だった。
実のところ、他の魔王たちやその上位の存在である魔帝などは、人間界に興味はないようで、自分の領地を侵されなければ、その軍団と衝突することはなかった。
つまり、この時点において、マルテウスは使命を果たしたのである。
勇者マルテウスが凶悪な魔王を倒した。
数百年に渡って続いた混沌の時代は終わった。
今後は数百年に渡る光の時代が訪れるだろう。
人々よ、彼の名を称えよ!
その功績を、永遠に記録せよ!
マルテウス自身は、名声などどうでもよかった。
自分に課した使命を果たしたのだから、田舎にでも引っ込んで、妻に任せきりだった子育てにも参加し、畑でも耕しながらのんびりと暮らそうと思っていたのだ。
だが、彼のあずかり知らぬところで、事態は急激に動いていた。
マルテウスが勇者と呼ばれ始めた頃から、その兆候は現れていた。
彼の名声が上がるたびに、王族や貴族、騎士といった支配階級に属する人々の権威が失墜していったのである。
彼らは魔族たちの侵攻に対して、効果的な手段を打つことができなかった。高い税金や年貢を搾取し、自分たちだけが優雅な生活を享受しているというのに、魔族との戦いを一介の冒険者に委ねてしまった。
支配者としての義務を怠ったのだ。
そんな無能な権力者を打倒しようとする、地下組織が存在した。
彼らはマルテウスの名声を利用しようとした。
そして権力者たちも、その動きを察知していた。
様々な思惑と不運が重なり合い、闇の刃はマルテウス自身ではなく、彼の家族に向けられることになった。
脅迫に対する反撃、そして敵勢力の撃滅。
あまりにも無意味な戦いの中で、マルテウスは妻と息子の命を失った。
逆上したとある騎士が二人を人質にとり、閉じ込めた部屋に火を放ったのである。マルテウスが駆けつけた時には、すでに屋敷は全焼していた。
使命を果たしたはずのマルテウスは、生きる目的を失ったのだ。
自分がどのような選択をすれば家族は助かったのだろうか。
幾度となく考えたが、結論はいつも同じだった。
そんな行為に、意味など無い。
時間を巻き戻すことはできない。
もはや自分には、何もないのだ。
以来マルテウスは、毎晩のように悪夢にうなされるようになった。
そして今夜も。
形容のし難い、そして得体の知れない力に押しつぶされている。
身体が動かない。
息苦しい。
何故か右手が生暖かい。
びっしりと汗をかきながら、マルテウスは目を覚ました。
「……」
さわやかな朝日の筋が、“隠れ家”の幕を通して入り込んでいた。
慌てたように周囲を確認して、マルテウスはため息をついた。
腹の上にパオの前足がのっている。
鼻が首に巻き付いている。
そしマルテウスの右手は、パオの口の中にあった。
舌を動かしながら吸い付いてくる。
マルテウスは渋面になって、ゆっくりと右手を引き抜いた。
唾液まみれになった手は、とても臭かった。
「お前な。俺の腕は、おしゃぶりじゃないんだぞ」
「ぱぉ」
朝の体操をしながら、マルテウスはパオに説教をする。
パオはマルテウスの動きに合わせて鼻を振ったり、足をばたばた動かしたりして、どことなく楽しそうだ。
剣の素振りに入ると、パオは地面に落ちていた枝を拾って、同じように振り回し始めた。
なかなかに鋭い。
マルテウスは鞘を手に持つと、パオに向かって振り下ろす。
「ぱぉっ!」
パオの枝が見事に鞘を弾き返す。
「ほう」
これならば、自分の身くらいは自分で守れるかもしれない。
マルテウスは剣術の稽古をつけることにした。




