第二十七話 2026年 夏
三十四年という時間は、不思議なものだ。
長かったような気もするし、あっという間だったような気もする。
気が付けば、あの工場で働いていた二十歳の青年は、もう五十代になっていた。
朝、目覚まし時計が鳴る。
仕事へ行く支度をする。
コーヒーを飲み、駅まで向かう。
電車の窓には、あの頃と同じような夏の空が広がっていた。
入道雲。
焼けたアスファルト。
景色だけは、あまり変わらない。
もちろん、人生いろいろあった。
工場で三年間働き、お金を貯めた。
思い切って会社を辞め、三歳年下ばかりのデザイン専門学校へ入学した。
卒業後は東京で店内装飾の会社へ就職し、POPデザイナーとして働いた。
さらに時が流れ、今はデザイン室で仕事をまとめる立場になっている。
子どもの頃の夢だった漫画家にはなれなかった。
でも、絵を描くことも、物語を考えることも、嫌いにはならなかった。
休日。
本棚を整理していると、一冊の古びた旅行ガイドが落ちた。
『るるぶ東北』
ページを開く。
付箋は色あせ、角は丸くなっている。
「大間崎」
「奥入瀬」
「十和田湖」
当時、自分で貼った付箋が、そのまま残っていた。
思わず笑ってしまう。
「こんなに計画立ててたんだな。」
机の引き出しから、古い写真も出てきた。
ラベンダー畑。
……と思ったら、花はほとんど咲いていない。
「何しに行ったんだっけ。」
思わず一人で笑う。
次の写真。
大間崎。
石碑の前で、ぎこちない笑顔の二人。
「若いな。」
いや。
若いというより、まだ少年だった。
その夜。
写真を見ながら、ふと思った。
そういえば。
あの旅のことを、誰にも話したことがない。
家族にも。
会社の人にも。
どこにも残していない。
あんなに楽しかった旅なのに。
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翌日。
ノートを一冊買った。
最初のページを開く。
ペンを持つ。
何を書こう。
少し考えてから、一行だけ書いた。
「僕は、夏の想い出を探す旅に出る。」
そこで手が止まる。
違う。
これは旅に出る話じゃない。
もう一度、あの夏へ帰る話なんだ。
ページをめくる。
頭の中で、一台の白い軽自動車が走り出す。
ラジカセから流れるTUBE。
朝六時。
缶コーヒー。
親友の笑顔。
そして――
夏の匂い。
あの日のことは、不思議なくらい覚えている。
東北自動車道の静けさ。
墓地で出会った人たち。
白猫。
太い蛇。
健二の夢に現れた、踊る小さなきのこ達。
からの、シメジのみそ汁。
あれは、ほんとに偶然だったのだろうか。
やはり、夏の夜の夢だったのかもしれない。
今となっては、もう分からない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
あの旅があったから、その後の人生は少しだけ変わった。
旅をしたからデザイナーになったわけではない。
でも。
あの夏に初めて、自分の知らない世界へ踏み出した。
その「一歩」が、その後の人生でも、何度も自分を前へ進ませてくれた。
窓の外を見る。
夕焼けに染まる空。
ふわり、と。
何か白いものが風に乗って飛んでいった。
タンポポの綿毛だろうか。
それとも――。
駿は少しだけ目で追ったが、すぐに見失った。
気にも留めず、再びノートへ目を落とす。
ペンを握る。
ゆっくりと最初の一行を書く。
舞台は、1992年。
バブル景気の熱気がまだ街のどこかに残っていた夏のことだった。
その瞬間。
三十四年前の夏が、静かにもう一度始まった。
夏は終わる。
でも、想い出は終わらない。
だから今日も。
僕は、あの夏を思い出す。
そして何度でも旅に出る。
終わらない夏の中へ。
― 完 ―




