第九話 島への船
墓地をあとにすると、二人とも自然と口数が減っていた。
車に乗り込み、港へ向かう道をゆっくり走る。
窓を開けると、さっきまで山の匂いだった風が、少しずつ潮の香りへと変わっていく。
「なんか……。」
健二がハンドルを握ったまま言う。
「静かだったな。」
「ああ。」
それ以上は続かなかった。
墓地で感じた違和感を、二人とも言葉にしなかった。
いや、言葉にできなかったのかもしれない。
不思議な出来事というのは、誰かに説明しようとすると急に現実味を失ってしまうものだ。
だから、胸の中だけにしまっておく。
そんな暗黙の了解が、いつの間にか二人の間にできていた。
港へ着くと、空気が一変した。
漁船のエンジン音。
市場から聞こえる人の声。
荷を積み込む音。
潮風に混じる魚の匂い。
さっきまでの静寂が嘘のようだった。
「腹減ったな。」
「朝食ってから結構経ったしな。」
港の売店でおにぎりと缶ジュースを買い、防波堤に腰掛けて食べる。
目の前ではフェリーがゆっくりと桟橋へ近づいてきた。
白い船体が波を押し分け、静かに岸へ寄る。
「これで行くんだ。」
健二が少し嬉しそうに言う。
「船なんて久しぶりだ。」
「俺も。」
子どもの頃の記憶が、少しだけ蘇る。
父に手を引かれ、この港から船に乗ったこと。
船が揺れるたびにはしゃいだこと。
でも、その先の景色はもうぼんやりとしていた。
車は港の駐車場へ預ける。
白い軽自動車のドアを閉めると、車内に残っていた新車の匂いがふっと鼻をかすめた。
「留守番よろしく。」
健二がボンネットを軽く叩く。
「盗まれるなよ。」
「軽だから大丈夫だろ。」
「失礼だな。」
二人で笑う。
旅も三日目になると、車まで仲間のように思えてきていた。
フェリーが汽笛を鳴らした。
低く響く音が港全体へ広がる。
乗客は十人ほど。
釣り人らしい人。
買い物帰りのおばあさん。
仕事へ戻るらしい若い男性。
観光客らしい人は、ほとんどいなかった。
まだ「猫島」という呼び名も、それほど知られていない頃だった。
船が岸を離れる。
港が少しずつ遠ざかる。
海風が心地よかった。
夏の日差しは強いのに、海の上では不思議なくらい涼しい。
健二が手すりにもたれながら海を眺める。
「いいなぁ。」
「何が?」
「何もない感じ。」
「分かる。」
忙しくない。
急がなくていい。
ただ船が進んでいく。
その時間が、とても贅沢だった。
カモメが何羽も船のあとをついてくる。
風に乗りながら、器用に同じ速さで飛んでいる。
「パンでもあればな。」
健二が言う。
「映画みたいに餌やれたのにな。」
「持ってない。」
「残念。」
そんな他愛もない話をしていた。
その時だった。
一羽だけ、少し離れた場所に真っ白なものが浮かんでいるのが見えた。
「……あれ。」
目を細める。
カモメではない。
羽ばたいてもいない。
風に乗る綿のように、ふわり、ふわりと海面すれすれを漂っている。
波に落ちることもなく、沈むこともなく。
まるで海の上を歩いているようだった。
見間違いだろうか。
瞬きをした、その一瞬で姿は消えていた。
「どうした?」
健二が聞く。
「いや……。」
俺は首を振る。
「また白い綿みたいなのが見えた気がして。」
「タンポポじゃない?」
「海の上だぞ?」
「じゃあ鳥。」
「飛んでなかった。」
「じゃあ見間違い。」
「そうか。」
結局、それで話は終わった。
不思議なことは、不思議なままでいい。
説明がつかないからこそ、ずっと心に残るのかもしれない。
船はやがて小さな島影へ近づいていく。
緑の濃い山。
海沿いに並ぶ家々。
小さな白い灯台。
防波堤。
そして、港の近くをゆっくり歩く猫が一匹。
「猫だ。」
健二が笑う。
「もういる。」
船が近づくにつれ、一匹、また一匹と猫の姿が見えてくる。
堤防の上。
日陰。
船着場。
どこを見ても猫だった。
「すげぇ……。」
「こんなにいたっけ。」
子どもの頃には当たり前だった景色も、大人になって見ると少し驚く。
猫たちは船が着いても騒がない。
こちらをちらりと見るだけで、また昼寝を続けていた。
フェリーが岸壁へゆっくりと接岸する。
ロープが渡され、船員が手際よく固定していく。
俺は深く息を吸った。
潮の香りが胸いっぱいに広がる。
懐かしい。
その一言では足りない感覚だった。
ここは父の生まれ故郷。
そして、小さな頃の俺が確かに過ごした場所。
忘れていた時間が、ゆっくりと動き始めた。




