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第1章 現世 黄金 眠りし王の脈動

八月下旬

北海ドーム


――最初から

世界がわずかに

ズレていた


誰も気づかない


CCロッカーズ

背番号69のまわりだけ

空気が重く

歪んでいた


マウンド

初球


振りかぶる

踏み込む


指先が

縫い目を離れた瞬間――


右手の奥で

黄金が

チリ……

と走った


ボールは一直線だった


だが

打者の手元で

生き物みたいに

伸びた


ミットが

バァン!!

と鳴る


いや

遅れて

鳴った


一拍


ほんの

一拍だけ


世界のほうが

遅れてくる


打席に立てば――


白球の軌道が

妙にはっきり見えた


縫い目まで見える

回転まで見える


踏み込み

振り抜く


インパクトの瞬間


バットとボールの接点で

黄金が

ピシッ……

と走った


その一瞬だけ

右手の感覚が

消える


(……またか)


気づけば

それはずっとあった


最初は

気のせいだと思った


だが

違った


消えたことはない


誰にも言っていない


言っても

伝わらない


説明も

できない


金城ヴィオ(きんじょうヴィオ)(19)


ドラフト一位

光の彗星

背番号69


そう呼ばれている


だが

自分の中にある違和感だけは

誰にも

見えていなかった


試合は延長へもつれ込んだ


歓声

怒号

応援歌


ドーム全体が

熱を帯びていく


打者を打ち取るたび

胸の奥で

黄金が

ドクン……

と鳴る


勝ち切れない


だが

負けない


結局

試合は

引き分けだった


ヴィオは最後まで

このマウンドを

譲らなかった


✦ ✦ ✦


試合後

ロッカールーム


蒸気と汗の匂いが

ゆっくり沈んでいく


金属ロッカーの表面に

白い蛍光灯が

冷たく滲む


「……悪かったな……金城……

点を取ってやれなくてよ」


声をかけたチームメイトに

ヴィオは

タオルを肩へ引っかけたまま

短く返す


「俺がもう一本――

打てば済んだ話です」


それで終わるはずだった


その瞬間


ヴィオの背に

影のような揺れが

スッ……

と走った


空気の表面が

黒く滲む


熱ではない

煙でもない


見間違いだと

言い切るには

あまりにも

生々しかった


他の選手たちは

気づかない


何もなかったように

通り過ぎる


ただひとり


同期入団の強打者

翠川翔みどりかわしょう(23)

背番号42

だけが


その違和感を

見た


視線が

ズ……ッ

と止まる


(……なんだ 今の)


空気が

わずかに軋む


翔が

一歩前へ出る


「野球はひとりで

背負うもんじゃねーだろ」


軽く言ったわけじゃない


本気だった


だからこそ

重かった


胸の奥で

黄金が鳴る


重い泥が

混ざったみたいな

嫌な脈動


その瞬間だけ

ヴィオの瞳の奥に

黒が揺れた


ロッカールームの空気が

ひとつ沈む


誰も

息をしない


次の瞬間


――ゴンッ!!


音だけが

遅れて響いた


翔の拳が

ヴィオの頬を

打ち抜いていた


ヴィオは倒れない


壁が

衝撃を受け止める


それだけだった


ゆっくり

顔を戻す


口の端に滲んだ血を

舌で確かめる


ヴィオは

少しだけ笑った


「……悪ぃな」


それ以上は

何も言わない


無言のまま

バッグを肩にかける


誰も

止めない


止められない


扉が開く

閉じる


ロッカールームに

鈍い静寂だけが残った


✦ ✦ ✦


球場の外


夜風が

汗の熱を

薄く削っていく


汗で崩れかけたリーゼントを

ヴィオは

指先で乱暴に押し上げた


前髪の影が

街灯の下で

鋭く跳ねる


ヴィオは

足早に歩いていた


(……余計なことを考えるな)


(俺は

もっと上へ行く)


頬の痛みが

じわりと熱い


さっきの一発より

胸の奥のざらつきのほうが

気持ち悪かった


街灯の光が

少し歪む


怒りのせいか

疲労のせいか


それとも――


信号待ちで

立ち止まる


赤信号


車列のライトが

白く滲む


胸の奥が

まだ鳴っている


ドクン……

ドクン……


(絶対に頂点に立つ)


青信号に変わる


その時――


ピチ……


線が切れる音がした


ヴィオの眉が

わずかに動く


正面から

母親と

小さな女の子が歩いてくる


少女の手には

紅い風船


「あのね

パパに見せるの」


嬉しそうに

風船を掲げる


ふわ……


風が抜ける


紅が

夜へ浮いた


次の瞬間


少女の手が

ふっと離れた


「あ……!!」


母親の声が

裏返る


少女が

反射で飛び出す


車道へ


(……関係ない)


そう思った


だが

その瞬間


世界が

ズ……ッ

と止まった


(見えない線――)


光が

遅れる


音が

遅れる


世界だけが

後ろへ下がる


ヴィオの体は

もう動いていた


(守る……!)


考えるより先に

踏み込んでいた


少女の体を

抱き込む


小さい

軽い

震えている


その手が

服を強く掴む


離れない


――離さない


その瞬間


胸の奥で

黄金が

ドクン……!!

と大きく鳴った


道路の中央線を

踏み越える


トラックのヘッドライトが

ギラリ……

と光る


来る


いや


もう

来ていた


右腕が

カッ……

と熱を帯びる


皮膚の奥で

チ……チッ……

と火花みたいなものが走る


街の輪郭が

ユラ……

と揺れた


言葉になる前に


冷たい指先みたいな感覚が

胸の奥へ触れる


――遠くで

金と蒼が

触れた気がした


紅い風船が

夜の奥で

ひとつだけ

脈打つ


ドクン……


空気が

止まる


光も

時間も

音も


全部

遅れる


黄金だけが

先に

生きていた


耳鳴りが残る


トラックが

ドグォォォ……ッ!!!

と唸る


(……この震え……

知っている……)


知らないはずなのに

体が

覚えている


触れている

守っている


なのに

――間に合わない


ドギャ……


胸の奥の黄金が

跳ね上がる


少女の輪郭が

わずかにズレた


(……やめろ……)


右腕が

さらに熱を持つ


空間が軋む


現実の表面が

ベリ……

と剥がれた


(違う……ッ!!)


視界が

反転する


――ガリ……ッ!!

ガガガガガァァッ!!!


右腕を

金属が掠める


神経が

ギュゥゥ……

ン!!

と悲鳴を上げた


世界が

バチィィィィン!!!

と割れた


思わず

声が漏れる


「……虹へ……

堕ちた……」


✦ ✦ ✦


意識が

沈んでいく


深い水の底へ

引かれるみたいに


その狭間で

別の景色が

浮かび上がった


巨大な城の廊下

高い天井

黄金の紋章


薄紫の燭光が

揺れている


(……知らない)


(なのに……

懐かしい……)


奥に

誰かの気配があった


見えない


だが

いる


声が響く


「還れ」


燭台の炎が

ふるえる


床の上を

光の波紋が走る


立つべき場所へ


胸の奥を

見えない手が

ぎゅっと掴む


「まだ早い……


その時まで

そこで生きろ」


(……誰だ)


問いかけた瞬間


景色が燃えた


――ゴウッッ!!


視界が

バチン……ッ!!

と弾ける


光が裂け

空間が裏返る


――ズ……ン


鼻腔を刺す

鉄の匂い


喉を焼く

血の温度


肺を圧す

重い呼吸


土が

血を吸っていた


――戦場


男が

膝をついている


髪が乱れ

呼吸が浅い


ヴィオの右腕の金属が

その男の胸へ

ズブゥ……

と喰い込んでいた


血が

ドク……

ドク……

脈打つように溢れる


男は

笑っていた


血を流しながら


その顔だけが

妙に穏やかだった


唇が

かすかに動く


ヴィオの耳元で

ほどけるように


「……おそい……んだ……よ……」


知らない声


知らないはずの


なのに

心臓が

それを知っていた


――ズン


全身が

凍りつく


次の瞬間――


――ゴウッッ!!


世界が

再び反転した


視界が裏返る


引き剥がされるように


ヴィオの意識が

グッ……

と現世へ引き戻される


胸の奥の黄金が

まだ鳴っていた


ドクン……


それが

問いなのか

答えなのか


ヴィオには

まだわからない


わからないまま


夜の底で

何かだけが

確かに目を開いた


――最初から

始まっていた

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