第八章 夜の糾問、寝所に迫る狂気
まだ冷たさの残る冬の終わりの、新月の前々夜。瑞月はいつものように黒装束の「水」として黎央と手合わせを行う。毎日深夜に触れ合ってきたからこそ、黎央の指先は瑞月の骨格の感触に絶対的な確信を得ていた。
手合わせを終え、瑞月は夜陰に紛れて王妃宮へと忍び戻った。急ぎ黒装束を脱ぎ捨て、侍女たちに手伝われながら胸の詰め物を入れ直して王妃の薄衣をまとう。蘭に施された化粧を確かめ、ようやく乱れた息を整えた、その時だった。
王妃宮の寝所の扉が叩き壊さんばかりの勢いで開け放たれた。押し入ってきた黎央の瞳は、これまでの比ではないほどに、完全に狂気と愛執に染まっていた。王妃への猜疑心と護衛への執着が混ざり合い、彼の精神は限界を迎えていた。
「陛下……? 夜更けに、いかがなさいました」
瑞月が鈴を転がす声で応じるが、黎央は聞く耳を持たず、猛然と瑞月に掴みかかると、寝台へと激しく押し倒した。成熟した王の、重く強靭な身体が瑞月の上へと覆いかぶさり、退路を完全に断つ。その力は瑞月の骨をきしませるほどに強く、黎央の呼吸は獣のように荒かった。
「もう騙されんぞ……! お前たち二人は、全く同じ匂いがする。毎日深夜に刃を交え、その骨のきしみを聞いてきた私の手が、お前のその肉体の芯を覚えているのだ!」
限界を超えた黎央が、再び激昂の咆哮とともに瑞月の衣服の襟元を強く掴み寄せた。黎央の指先が、詰め物が施された瑞月の胸元へと迫る。男としての固い胸板に触れられるまで、あと一寸のところだった。
黎央は狂気的な執着のまま、顔を瑞月の首筋へと埋め、その肌の匂いを貪るように嗅いだ。その唇が瑞月の鎖骨を強く噛み締め、痛みが瑞月の身体を駆け巡る。
「男だろうと、女だろうと、そんなことはどうでもいい。私の脳裏に焼き付いているあの武人の気迫、あの天才的な知略の輝きが、今、私の腕の中にいるお前から放たれている。お前が私を狂わせたのだ、お前が! お前を壊して、その中身をすべて私のものにしてやる!」
血走った眼差しで瑞月を見下ろし、狂信的な独占欲を剥き出しにする黎央。その眼光には理性の光など微塵もなく、ただ愛執という名の狂気だけが燃え盛っていた。
圧倒的な体躯と威圧感で迫る生々しい狂気の時間は、あまりにも長く、濃密に、まだ若い瑞月を締め付けた。
だが、瑞月は身体の抵抗をピタリと止め、寝台に組み伏せられたまま、王の狂気に満ちた瞳を真っ直ぐに射返した。その瞳には、恐怖ではなく、黎央の孤独を深く憐れむ気高き光が宿っていた。
「……私をお疑いであれば、この命、どうぞお好きになさいませ。首を撥ねようと、肉を裂こうと、私は拒みませぬ。ですが、陛下。あなたが今、その猜疑心と狂気に身を任せ、力で私を従わせて得るものは、一体何にございますか?」
瑞月は掠れた、しかし凛とした声で、一文字ずつ黎央の鼓膜へと突き刺した。
「力で奪えば、あなたの心に残るのは、永遠に癒えぬ孤独の深淵だけです。私は……あなたに、これ以上ご自分を壊してほしくないのです。私を信じられぬというのなら、どうぞ今すぐ、その手で私の息の根を止めなさい!」
その気高い諫めの言葉、その揺るぎない眼光。それは、毎夜深夜、御苑の池のほとりで自分と刃を交え、全く同じ言葉で自分を救い上げてくれた、あの護衛「水」の魂そのものだった。
黎央の動きが、ピタリと止まった。掴んでいた薄衣からじわじわと力が抜けていく。黎央は激しい自己嫌悪と、瑞月の魂の気高さに圧倒されたように、震えながら手を離し、逃げるように寝所を走り去っていった。
嵐が去った後の静寂のなか、瑞月は激しく乱れた息を整えながら、隠し扉から滑り込んできた静華たちを見回した。衣服の乱れを手早く押さえ、瑞月は毅然とした声で命じる。
「静華、布由、蘭。今この瞬間を以て、王妃宮の門をすべて閉ざせ。百官はもちろん、いかなる側妃の立ち入りも許してはならない。表向きには『先だっての毒殺事件の毒が体に残り、急激な体調不良に見舞われたため、一切の面会を謝絶する』と言い訳を立てるのだ。私たちは新月の夜が訪れるその時まで、この王妃宮に完全に引きこもり、美蘭との入れ替わりの準備を完璧に整える」
「御意にございます」
侍女たちは一礼し、即座に動き出した。こうして瑞月は、新月の夜が訪れると同時に王宮を去ることになった。




