第6話:扇風機と、失われた時間のかけら
食事のあとも、この奇妙な青い世界についての話は続いていた。
シゲジイは七輪の残った炭で焼酎の入ったお湯割りをチビチビと飲み、母さんはコハナを膝に抱いて、ケルナグル一行の話を、まるで子供向けの絵本でも読むかのような顔で聞いていた。
私は、さっきのシーンを思い出していた。
コハナが、鼻の穴に指を突っ込み、手近にいたケルナグルの大男の、丹念に鼻水をなすりつけた。ケルナグルは「ひーっ!」と叫び、コハナはニターッと笑った。前歯が一本欠けた、その笑みは、まるで忘れ去られた古い映画の、一瞬のカットバックのように見えた。
(……あれはいつだっけ。こんな事、前にもあったような気がする。)
既視感は、古いカセットテープのノイズのように、私の記憶の片隅で、微かに鳴り続けていた。それによく見ると、このちょび髭の男、ケルナグル。どこかで見たことがあるような気がしてならない。
◇
「……あの、もし間違っていたらすみません。」
ケルナグルが、チョージの手元にあるものを指差した。
チョージは、母さんのジュエリーBOXに入れた、あの不思議な砂を持ってきていたのだ。
「それは、もしや……『フロートジュエル』じゃないですか?」
ケルナグルの声は、少し震えていた。
「フロートジュエル?」チョージが聞き返す。
「この世界では、それは失われた時間のかけらのようなものだ。人々はそれをフロートジュエルと呼び、とても貴重なものとして扱っています。」
ケルナグルが、少し芝居がかった、あるいはとぼけたような調子で説明した。
「砂が、何かを伝えようとするっていうのは、聞いたことがあります。まるで、懐かしい声が聞こえてくるような……そんな不思議な力が。」
私たちが砂にメッセージが現れた事を告げると、ケルナグルはびっくりした顔をして、ちょび髭をさすった。
「まさか、本当にメッセージが……。」
陸地がないのであれば、これからどこへ向かえばいいのやら。
その時、チョージがジュエリーBOXの砂を覗き込んだ。
「あ、矢印!」
砂が、ジュエリーBOXの中で、まるで方位磁針の針のように、ゆっくりと動いて、一つの方向を指し示していた。
「えっ」
チョージがジュエリーBOXを持ったまま反対を向くと、「矢印」の方向も代わる。
「こっちへ向かえということなのかも。」
母さんが、砂を覗き込みながら言った。
「……でも、どうやって?」
私は呟いた。
家を進める方法なんて、アヒルボートしかない。
その時、チョージが何かを思いついたような顔をした。
「……あ、扇風機!」
チョージは、東芝製の古い扇風機を持ってきた。それは、かつての夏の記憶をすべて吸い込んだかのように、埃っぽく、そして重かった。
「これを逆にしたら、プロペラにならないかな?」
チョージは扇風機を逆さにして、縁側から水面にぽちゃり、と浸けた。
そして、延長コードを繋いで電源を入れると、物理法則という、退屈なルールが破られたのだ。
「……動き出した!」
扇風機が水中で水を掻き出し、なんと家がゆっくりと、しかし確実に動き出したのだ。
「なんだこれ、どんな仕組みになってるんだ。」
シゲジイが、焼酎のグラスを持ったまま、目を丸くして言った。
「扇風機を、逆に回す……。そんな、完璧なまでに非現実的な思いつきが、この世界では通用するのか。」、ケルナグルが感心したように溜息をつく。
明日、この扇風機を正式にプロペラ装置として固定し、砂が指し示す「矢印」の方向へと出発することになった。
◇
夜が深まると、縁側ではシゲジイがケルナグルの一行と、お気に入りの芋焼酎で晩酌を続けている。
チョージは黙々と携帯ゲームに耽り、コハナは例の水色のおさると、言葉のない親密な対話を交わしている。
私は一人、ジュエリーボックスの中で光る砂の矢印を見つめていた。
いったい、その先には何が待ち受けているのだろう。
そこにあるのは、単身赴任中の父が待つ平穏な日常の続きだろうか。
矢印はただ、沈黙を守ったまま、暗い海の向こう側を執拗に指し示している。
遠くの空を、ピンク色のクジラが音もなく横切っていく。
そこに待っているのが、救済なのか、それとも取り返しのつかない喪失なのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




