私の桜
「自然が見たい。」
そうは言ってみたけど、多分私の思いは伝わっていないのだろう。
彼の口から「何処」とか「何」なんて言葉を聞いた時に、確信し、呆れた。
『自然』の意味もわからないの?
そんなに悩むのなら、辞書でも持ってきて引いてみればいいのに。
そう思いながらも、彼に任せた。
彼の悩みで一杯の頭からは、一体どんな結果が導き出されるのか。
少し、興味を持った。
何も教えてもらえず、ただ大学の正門まで待ち合わせることだけを伝えてきた。
目的地までは、歩いていくらしい。
それにしても、中途半端な天気。
晴天でもなく、雲にまみれ、淀みきっているわけでもない。
何とも中途半端だ。
まぁ天気までは、彼でなくたってどうしようもない。
川沿いを歩いていく。
晴天であれば、川の涼しさも心地よかったかもしれない。
ただ、今日の様な、半端に太陽が見え隠れするような天気では、少し肌寒く感じる。
失敗したなぁ。
もう少し厚着をしてくればよかった、と川の中にぽつんと立つ、白い水鳥を眺めながら、そう思った。
10分程歩き、漸くたどり着いた。
折角楽しみにしていた、彼にとっての『自然』が野草園だったとは、残念で仕方がない。
これでは『自然』と真逆ではないか。
それとも、手近で済ませたかったのかしら。
そう思ってしまうほど、手軽で安直な選択だと、私は思っってしまった。
『〇〇野草園』と書かれた看板。
入ったことはないが、中は大体想像がつく。
この季節になれば、尚の事。何が見ものとされているのか、容易に想像がつく。
看板の掲げられた入口の方を向きながら、ちらと彼の方を見る。
チケットを買うだけにしてはやけに時間がかかっている。
何か話しているのかしら。
まぁ、どうでもいいか。
面白い、と彼が思った話をしたのであれば、後で私に必ず話してくれるだろうし。
ふと、チケット売り場を見て、思い出した。
そういえば、ここの入場料っていくらだっけ?
彼には変な意地でもあるのか、例え飲み物1杯でも私にお金を払わせてくれない。
そんな意地、馬鹿馬鹿しいと思うけれど、結局根負けした。
とりあえずお金を出しはするは、大概受け取ってはくれない。
「少しでも格好つけさせてくれよ」とはにかんで言われれば、嬉しいような、寂しいような気持ちになってしまう。
そして、いつも渡しそびれる。
ああいう顔に、私は弱いんだな。
そう思いながら財布から700円を取り出す。
どうせ、受け取ってくれないと分かっていながら。
戻ってきた彼は、私にチケットを渡し、背を向けて歩き出してしまった。
やっぱり彼は受け取ってくれなかった。
わかっていたとは言え、少し寂しい。
このまま彼に置いてけぼりにされる訳にもいかないので、急いで財布に700円を仕舞い、彼のもとへ駆け寄った。
彼の身長は高い。
私は彼と並んで不釣合いにならないように、少し背伸びをする。
勿論、彼と会う時だけ。
いつも背伸びをしていたら、足が痛くて堪らない。
先程から不満ばかり言っているが、これでも彼のことは好きだ。
不器用だけど優しく、私とは違う考え方をしている。
話せば楽しいし、一緒に歩いてその逞しい腕を抱けば、安心する。
2年も付き合っているのだ。少しの小言ぐらい構わないでしょ?
それに、口にも出してないのだから。
私は、入口を通ってすぐ、彼の右腕にしがみついた。
彼も慣れているのだろう。そのまま歩き出した。
園内は思った通り、桜で一杯だった。
様々な桜が咲き誇っている。
綺麗だ。
でも、それだけ。
ここの桜は、皆この時期に綺麗に見えるように整えられているのだ。
野生の、過酷な環境の中で生きてきた強さや逞しさはそこにはなく、ただ演出された儚さが視界を覆っていた。
ありきたりな光景といえば、それまでだ。
それでも、彼は楽しそう。
あちらこちらをきょろきょろと、目と首を動かし見回している。
その子供っぽさを思わせる首の忙しない動きに、思わず笑ってしまいそうになった。
誤魔化すように顔を右に向ける。そこにも、淡いピンクが視界一杯に広がっていた。
私に向けているのか、「綺麗だね」という声が私の後頭部から降ってきた。
綺麗。
嘘ではない。
でも、『自然』ではない。
ただ、綺麗に『された』だけ。
彼の機嫌を損ねるのも悪いと思い、迷った末に「うん」とだけ私は言った。
嘘やおべんちゃらを言えるような口を、生憎私は持ってはいない。
それでも、彼はその返事に満足したのか。それとも桜に夢中なのか…
会話は、そこで途切れた。
園内を一周し、もう満腹だと言わんばかりに、桜を見た。
もう充分だ。
私はそう思い、彼の方を見た。
彼も私を見ている。
今度こそ、彼と思いが一致したと思った。
「ここのカフェで休憩しない?」
その一言で、私は、また勝手にがっかりした。
こんなに沢山見たのに、まだ見足りないの?
私は「いつもの喫茶店がいい」と言った。
彼が教えてくれた、素敵なマスターと珈琲がある、お気に入りの場所。
それに比べ、他の喧しいカップルに埋もれ、安くて不味い珈琲を飲みながら、散々見飽きた桜の一群を眺め続ける。
想像しただけで背筋に悪寒が走る。
そんな処に留まる位なら、もう10分歩くのも苦ではない。
余程未練があるのか、「ここのカフェでは駄目?」と再度言う。お菓子をねだる子供のような顔だ。
彼の後ろに見える桜のカーテンも相まって、私はその顔に心底うんざりとした。
「いつもの喫茶店がいい。」
そう言って、彼の右腕から離れ私は出口に向かった。
離れたと思っていた彼が、いつの間にか私の手を握って、横に並んでいた。
川沿いは寒いし、目的の喫茶店までは遠回りになってしまう。
私は早足で住宅地を抜ける。
この辺りの土地勘はないが、方角さえわかっていればたどり着ける。
それに、大学の建物も見えている。
これなら迷いようもないだろう。
そんな事を考えていると、視界の左端、平屋の小さな家の向こうに、薄桃色の花びらが僅かに見えた。
先程まで散々見たそれとは、何かが違う。
勘のような、曖昧な感覚でそう思っていた違いは、その家に近づくにつれて、明瞭と分かった。
多分、枝垂れ桜だ。
確信を持ってなかったのは、野草園で見たそれとは全く様相が異なるからだ。
まず、垂れた枝に咲く花の数は、野草園のそれより明らかに少ない。
それに、幹の形も歪だ。
『く』の字を僅かに左に傾けて地面に突き刺さし、まるで背を後ろに反らすかのように、枝が幹の上を通り、垂れている。
『綺麗』ではない。
先程も言ったように、歪だ。
しかし、その枝垂れ桜には、力強さを感じた。
極端に幹が曲がっていようと、枝が息苦しそうに垂れていても、その枝に花が僅かしかついていなくとも。
そこには『力』があった。
私は今日初めて、桜に見蕩れた。
突然、私の右腕がぐん、と引っ張られ、僅かにふらついた。
視界がぐらつき、視線が僅かに逸れる。
その桜の向こう側に、誰かがいることに気付いた。
おばあさんだ。
杖をつき、腰が曲がっている。それでも桜を見上げるため、曲がった背を上に伸ばしている。
真っ直ぐと、そして優しげな目で見つめる。
話してみたい。
ふと、そう思った。
あの歪な枝垂れ桜、あのお婆さんの微笑み。
きっと、特別なものなんだ。
私は彼の方を見もせず、「先に行ってて」とだけ言い、右手を振りほどいた。
そのままの勢いで、おばあさんと桜が居る家の庭に入った。
後ろの方で「あ」とか「うぅ」とか聞こえたが、結局何も言わず、足音は遠ざかっていっった。
私は、余りおばあさんを驚かせないように、密やかな声で「あのぅ」と声をかけた。
ゆっくりとした動作で、伸びていた背が縮まり、皺だらけだが、優しそうな顔が「あらまぁ」と言い、こちらを向いた。
「突然お邪魔してすいません。」そう言い、頭を下げた。
「いえいえ」と言いながら杖を前にだし、よたよたと私に近づこうとした。
危なっかしい動きに思わず駆け寄って、支えるように真横に立った。
ふと、見知らぬ人間が勝手に庭に入ってきて、かつ急に、こんなに間近に寄れば不快ではないか、と漸く思った。
「あ!すいません!私…」
「いえいえ、きっとこんな婆が杖ついて突っ立てるものだから、ご心配をおかけしたんでしょうねぇ。」
ごめんなさいねぇ、と詫びられてしまった。
私が詫びねばならないというのに。
「わ、私は何も!ただ、この、この桜が素敵だったので、お話を聞きたくて、つい勝手に…」
しどろもどろな私の言葉を聞いた途端、「あらあら」と嬉しそうに顔を更にしわくちゃにした。
私はそのまま縁側に案内され、お茶まで出してもらった。
何だか、モノを押し売りに来た、セールスマンような気分だ。
今更そういう気分になった。
よっこいしょ、とおばあさんが腰を下ろしながら「遠慮しないでね」と手でお茶を示した。
いやいやそういう訳には。
とは思いながらも、盆の上に置かれた茶を見て、今まで散々歩き回り、喉が渇いていることに気づいた。
御厚意に甘え、お茶をいただくことにした。
「それにしたって、こんな桜が素敵だなんて、不思議なお嬢さんねぇ。綺麗な桜なら、川沿いのあそこに、一杯咲いているのに。」
背中の方を指さしながら、そう言った。
さっきまで居た、野草園のことを言っているのだろう。
「実は、あそこにはさっき行ってきたんです。確かに綺麗だったんですが…こう、何というか、私が見たいものじゃなかったんです。」
たどたどしい私の言葉に「うんうん」と、ゆっくりと僅かに顎を上下させ、耳を傾けてくれる。
「この桜は、あの野草園にの桜にない、んー…そう!『強さ』を感じて、それが素敵だなぁと思ったんです。」
ほほおぅ、と何とも言えない、のんびりとした声を出し、おばあさんはにっこりと笑った。
「『強い』ねぇ。確かにこの子は逞しいんだろうねぇ。こんなに幹も枝も曲がっているのに、毎年花をつけてくれるからねぇ。」
嬉しそうに、顔を前に向けながら言った。
『この子』
その言葉が、この桜がおばあさんにとって特別な存在であることを物語っている。
「大切にされてるんですね。」私も桜の方を見た。
「大切にしようにも、偶に剪定してもらう程度のことしか、してやれないけどねぇ。わたしには、思ってやることしか出来ないのよ。」
目を細め、愛おしいと言わんばかりの微笑みを顔に湛え、桜を見つめる。
はら、はらと、数えられる程に少ない、淡い色をした花びらが散る。
しばらくの間、何も言わずに、それを2人で眺めていた。
「毎年この時期になるとねぇ。」
ふと、優しい声が横から静かに、聞こえてきた。
「じいさんと一緒に、こうやって、縁側から眺めてたのよ。」
少し寂しげな声。
私は目を瞑り、静かに耳を傾ける。
「ここに住むと決めた時にね、じいさんと一緒に植えたのよ。わたしたちには、子供はできなかったかからねぇ。」
遠い日の思い出。若い男女と、小さな苗木。
「不思議なものでね、こんな木でも、わが子のように可愛くってね。じいさんもわたしも、朝晩挨拶したり、何かと声をかきたりしてねぇ。」
大きくなればなる程に、嬉しかった、と懐かしむ声。
その時の様子が目の浮かぶ。
小さな苗木を見下ろし、可愛がる2人。
「強い風ば吹けば飛ばされやしないかと心配し、大雨が降れば流されるんじゃないかってまた心配でねぇ。」
庭から離すことができない程に心配な2人。
もしかすると、直接見に行ったり、囲いを作たりしたのかも。
「初めて花をつけた時なんか、もう大喜びだよ。桜にとっては当然のことだろうけれどもねぇ。縁側でお祝いしたって、わたしらが酒飲んではしゃごうが、嬉しくもなんともないだろうけれどもねぇ。」
近所からは五月蝿いって怒られたっけかなぁ、と笑い声。
きっと夜なんだわ。夜、月の下で花を咲かせる枝垂れ桜。
縁側では大はしゃぎの2人。
「2年前、じいさんが死んだ時も、こんな日だったわ。あの子はじいさんの死に際に、花を咲かせてくれた。
じいさんたら、『流石はわたしたちの子』だって。嬉しそうな顔をして、逝ったわ。」
親孝行な桜だこと。
涙ぐむ声。
私は目を開ける。目尻に溜まっていた涙が頬を伝う。
2人は再び黙し、桜に思い出を重ねて、眺めていた。
「あら、ごめんなんさいねぇ。急にこんなお話を聞かせちゃって。」
おばあさんが目元を拭いながら、誤魔化すように笑った。
「いえ、その…こちらここそ、ありがとうございます。」
私には、それしか言えなかった。
気にしなければ、只の歪な木でしかなかった。
おばあさんの話を聞くまで、何だか気になるなぁという程度にしか、思ってなかった。
でも、そこに詰まっていた思い出は、何よりも美しかった。
だから、それしか言えなかった。
大切な大切な思い出を、通りすがりの私に、ただで分けてもらったような気になった。
私は聞くことしか、していないのに。
「誰かとお話をしながら、こうやって桜を見ることなんて暫くなかったからねぇ…そうだ。」
おばあさんは杖を片手に立ち上がり、よたよたと桜の方に向かっていった。
細くしなる桜の枝に手を伸ばし。
ぱきっ。
折った枝を持って、縁側に戻ってきた。
「これを持って行って頂戴、わたしからのお願い。」
そう言って、先程折ってきた小さな枝を、私に差し出した。枝にはまだ花がついている。
「そんな!大切な桜を、そんな…」
「いいのよ。わたしももう先は長くないだろうしね。
わたしが死んだら、この子のことを知っている人が居なくなっちゃうでしょう。
わたしの思いを押し付けるようで申し訳ないのだけれど、偶然とは言え、一緒にお茶を飲んだのだし、これも何かの縁だと思って」
今だけでも、受け取ってもらえないかしら。
私はきっと、とっても情けない顔をしていたのだと思う。
細くて小さなそれを受け取った時、「そんな顔をしないで」って言われてしまった。
「忘れません。」声は震えて、上ずっている。
「忘れませんよ。この桜のことも、おばあさんのことも、おばあさんが話してくれたことも。全部全部…」
そう言いながら私は何が悲しいのか分からずに、泣いていいた。
桜の枝を握った両手を、おばあさんの細くて、暖かな手が包んでくれた。
私は、子供みたいに大声で泣いた。
貰った枝を、カバンの中にそっとしまい、庭を出るときに、振り返って訊いた。
「また、来てもいいですか?」
おばあさんは目を細め、顔をしわくちゃにして、手を振ってくれた。
わたしも手を振り返し、庭に背を向けて走った。
長いようで短い時間。
ありきたりなようで、とても素敵な話。
枝垂れ桜のある庭。小さな平屋のお家。その縁側に座るおばあさん。
私はこの、何よりも美しい思い出を胸に、喫茶店に向かった。
ドアを開けると、からんと鳴るベルの音がした。
珈琲の香りがする。
彼がいつも座るカウンターの前に、カップが置いてある。
「ごめん、待たせた。」
そう言いながら、彼の隣の席に座る。
マスターの方に目線を向ける。挨拶をしようと思った。すると、向こうも挨拶をするつもりだったのか、こちらを見ていた。
互いに微笑みだけで挨拶をし、荷物を横の席に置いた。
今日は店内が空いている。迷惑にもならないだろう。
さぁ私も珈琲を貰おうと思い、マスターの手元を見た。
この人が淹れる珈琲も美味しくて素敵だけど、それを淹れる滑らかで無駄のない手の動きが、私は大好きだった。
「何をしてたの?」
マスターの手元を眺めようと、姿勢を整えた時、不意に横から声がした。
「おばあさんと話をしてた」声の方を僅かに見る。「迚も素敵なお話ができた」
彼は興味津々で「素敵な話?」と僅かに身を乗り出し、訊ねてきた。
「うん、迚も素敵」私はあの『美しい風景』を思い出す。
全体が見えるよう思い出されたその風景は、縁側から見た庭の風景に変わり、枝を差し出してくれたおばあさんの姿に変わった。
また会いたいなぁ。
ついさっき別れたばかりだというのに、そんなことを考えていた。
横で陶器が僅かに物に当たる音がした。
多分、彼が珈琲を飲んでいるんだ。
あぁいけない。
折角訊いてくれたのだし、私も話したかった。
「あの庭に、桜の木があったでしょ?」
かちゃりと音が2つ。彼がカップを置いた音と、マスターが私の前に珈琲を出してくれた時の音。
「あの桜の木は、迚も愛されているわ。今日見た中で1番、美しい桜の木だった。」
『美しい』桜、おばあさん、思い出…
彼に話している途中で、また泣いてしまうかもしれないと、ふと思った。
私は横の椅子に掛けてある上着のポケットからそっとハンカチを出し、話を続けようと口を開きかけた。
「野草園のも綺麗だったじゃないか。それよりも美しいのかい?」
不意に話の腰を折られた上に、何故か苛立っている。
これから素敵な話をしようという時に、一体何故?
そもそもそっちから訊いてきたのに、何故苛立っているの?
あの時の情景を思い出し、高揚していた私の思いは一気に萎れてしまった。
思わず、ため息が出てしまった。
「確かに綺麗だったよでも…」
「でも?」
あからさまな苛立ちを見せられ、彼の存在がどんどん疎ましく思えた。
「そもそも、あれは『自然』じゃない」
そう、綺麗だった。それは嘘ではない。
でも、それだけじゃないか。
「え?」という言葉が彼の半開きの口から漏れてきた。
やっぱり、分かっていなかったのか。
「あれは人の手が加えられている。綺麗に『見えるよう』に整えられている。だから『自然』じゃない。」
どれほど綺麗でも、華やかでも、あれはそういう『演出』でしかない。
それだけのものに、これ以上の感想を持つことは、私にはできない。
「だが、それを言うなら、その、おばあさんの家の桜だって手入れされてるだろう?」
何をそんなに必死になっているの?
私は彼を理解することを放棄し、「そうよ」とだけ言い、顔を彼から背け、珈琲を飲もうと思った。
「なら、野草園の桜と『同じ』じゃないか。」
カップに添えられた手が止まり、『同じ』という言葉が、ぐわん、と頭の中に響いた。
今、なんて言った?
『同じ』だって?
何も知らない癖に。
何も聞いていない癖に。
何も分かっていない癖に!
私は我慢できず、彼の方に向け、思い切り顔を近づけた。
もうこれ以上、私の思い出を汚されて堪るものか!
顔と肚の中は煮えたぎるように熱いのに、頭と口は冷え切っている。
「『あんなもの』と一緒にしないで頂戴。さっきも言ったでしょう。あの、おばあさんの桜の木は、迚も『愛されてる』って。だから、」
だから、美しいのよ。
もうこれ以上、彼と居たくない。
私は折角の美味しいはずの珈琲を一気に飲み干し、財布からお金をカウンターーへ叩きつけた。
私は、多分もうここには来れない。
マスターを見て、「ごめんなさい」と言った。
私の思いを汲んでくれたのか、マスターは寂しそうに頷いた。
私はそれを確認し、右の席に置いた上着とカバンを掴み、乱暴にドアを開けて走った。
後ろの方で、ドアが軋む音と、ベルが、がらがらと鳴らす荒っぽい音が聞こえてきた。
それに構わず、私は走る。
どこへ行くわけでもない。
それでも、走りたかった。
何かに必死にならないと、今にも泣きそうだったから。
カバンの中から、薄桃色の小さな花びらが1枚、こぼれ落ちて風に舞って、消えた。




