僕の桜
「自然が見たい。」
彼女が突然そう言った。
具体的に何処に行きたいのか、どういうものを見たいのか。
いくら訊いても、呆れた顔をして「自然は自然」とだけ言う。
さて彼女が見たい『自然』とは一体何か。
困り果てた僕は、大学近から10分ほど歩いた処にある野草園に連れて行くことにした。
野草園は川沿いにあり、全体的にこぢんまりとしている。園内を見て回るのに足を止めなければ30分もかからない。
それでも、四季折々の草木花々が揃っている。どの時期に行っても楽しむことが出来る。
手入れも行き届いており、ただ手放しに草花が生い茂っているわけでもない。
寒さも過ぎ、コートも仕舞う程に日々暖かさを感じるような今の時期であれば、きっと桜が綺麗に咲いているだろう。
僕が思う『自然』を見ながらのデートには丁度いいと思った。
大学の正門で待ち合わせ、彼女を野草園の入口に連れて行った。
野草園が見えてきた時、ふと彼女の顔が曇ったような気がした。
僕は、日が雲に隠れて陰ったせいだと思った。
彼女を入口に待たせ、受付で入場券を2枚購入した。
「デートかい?丁度いい時に来たねぇ、桜が園内一杯に咲いていて綺麗だよ。」
チケット売り場に座る愛想のいいおばちゃんが、僕と入口の前にいる彼女を見ながら嬉しそうに話しかけるので、思わず照れくさいような、恥ずかしいような半端な顔で「えぇ」等と生返事をしてしまった。
彼女の方はチケット売り場に居るの僕らには目もくれず、入口に掲げられた野草園の看板を見上げていた。
気になるものがあって見ている、というよりも、只ぼんやりと眺めている、といった様子だ。
彼女の傍に向かい、「お待たせ」と彼女に1枚チケットを渡した。
予め用意していたのか、彼女は「ん」と喉を鳴らし、右手でチケットを受け取りながら、左手で700円を差し出した。
学生というものは大概が貧乏なものだ。
例えアルバイトをしいており、財布に余裕を持たせようとしたって、給料を貰ったその日に使い果たしてしまうような奴もいる。
だから、世間で言われる『貧乏学生』というのは、生来の貧乏と言うより、自分で自分の首を絞めて貧乏になる奴が殆どだろう。
僕も、金遣いが荒い、というほどではないが、だからと言って節約をしているとは言い難い。
バイトの給料日前で、懐が寒い僕は、正直に言えば、その左手に乗っかってる700円が欲しかった。
それでも、やっぱり彼女からお金は受け取れなかった。
格好をつけたいとか見栄を張っていたい、といえば、多分そうだろう。
それに、理由は分からないが、彼女からそれを受け取ることに疚しさを感じてしまう。
「大した額じゃないからいいよ」と言い、彼女がチケットを手にとったことを確認し、お金を渡そうと差し出されたままの左手に背を向け、入口に向かった。
やっぱり、格好つけてるなぁ。
お金を渡そうとする彼女に背を向け歩き出す自分の行動に、苦笑いをした。
『武士は食わねど高楊枝』ってやつかな。合ってるか分からないけど、多分そんな感じだ。
暫くごそごそとし荷物をまさぐるような音をさてた後、カツカツとヒールが鳴らす高い音が近づいてきた。
どうやら諦めてくれたらしい。
彼女は、気まぐれな性分でもあるが、きっちりした面もある。特にお金に関しては。
『交際』しているからといって、何故男性ばかり金を出さねばならないのか。女性だってそれに甘んじるのは如何なものか。
交際当初は、それが納得いかなかったのだろう。僕に対して抗議をしたり、口論をしかけてくる訳ではないが、事あるごとに愚痴を零していた。
暫くして、愚痴が聞こえなくなったと思ったら、僕にお金を払わせまいと、支払いの際に、僕の前を歩き道を塞ぐことで、先に会計をしてしまった。
その方法を彼女が使うようになってから、暫くの間、僕らの間で会計競争が行われることとなった。
手を繋いで、如何にも熱々ですと言う様で店に入ってきた2人が、帰る際に互を押しのけ合い、息を切らせながら会計を行う様は、さぞ異様で滑稽だっただろう。
付き合い始めて2年が経ち、今では、僕が2人分纏めて払い、彼女が自分の分を提示し、僕が受け取るか取らないかを決める。というスタイルに落ち着いた。
まぁ殆どの場合、受け取らないのだから、この方法も余り意味がないのだが。
入口でチケットを係の人に渡し、ゲートを潜ると、彼女が右腕にぎゅっとしがみついた。
本人曰く、手を繋ぐよりその方が好いらしい。
入園前に、散々格好を付けるだの何だの思っていた癖に、こういうことをされると恥ずかしく感じてしまう。
それでも、恥ずかしがってるところを周りや彼女に見せたくないので、気にしない風を装って歩き出した。
園内は中心に池があり、その周りを囲うように桜等の木が植えられている。
所々にある脇道に入れば、ビニールハウスがあったり、別の花を咲かせる草木が植えてある。
また、高台には園の外に流れる川と、園内の花々を眺められるようなカフェもあり、デートにはぴったりの場所だ。
チケット売り場のおばちゃんが言っていたように、辺り一面満開の、様々な種類の桜が園内を華やかに彩っており、地面には花びらの絨毯が敷き詰められていた。
野草園に来ているカップルは他にも沢山居り、それぞれに写真を撮ったり、立ち止まって上を見上げたりしていた。
僕も彼女に右腕を預けながら、園内の看板に従って、桜の花びらの中に紛れていった。
咲いている桜の花や、その桜の花びらが作り出す桜のカーテンや絨毯も勿論綺麗だが、池に映る桜の木や、所々に浮かぶ桜の花びらもまた美しい。
ボートでも浮かべて、池からこの満開の桜を眺めるのもいいかもなぁ。
そう思いながら、僕は春の暖かさが作り出す華やかな風景に夢中になっていた。
彼女も楽しんでくれているだろうか。
彼女が居る右側をちらと見る。
右腕にしがみついており、尚且つ右側の木々を見ているせいで、彼女の後頭部しか見えなかった。
「綺麗だね」と僕が桜で覆われた天上を見上げながら言うと、「うん」とだけ彼女は言った。
元々が寡黙なのだ。
交際当初は、その寡黙さに不安を抱くことも多かったが、今ではさほど気にもしなくなった。
他のカップルを見てみると、女性が男性の腕を引っ張り、桜の木に近寄って「キレイ」とか「カワイイ」など矢継ぎ早に感想を捲し立て、はしゃいでいる。
僕の彼女は、余程強い感動や思いが無い限り、あの女性ののようにはしゃいだりはしないし、そもそも行動も起こさない。
ああいう女の子らしい可愛らしさが羨ましい、と思う一方、常にあのテンションで接しられると疲れるだろうなぁ、とも思った。
現に男性の方はされるがままといった風で、女性の高すぎるテンションについていけない、といったように苦笑い浮かべている。
完全に女性のはしゃぎ様に振り回されている。
そう思うと、あの女性が僕の彼女じゃなくて良かったと、何故かほっとした。
一通り歩き回り、休憩でもしようかと、園内のカフェに入ろうと言った。
足を休めながら園内を見て、美しい桜を見て、感じたそれぞれの感想を語り合いたかった。
だが、彼女は「いつもの喫茶店がいい」と言った。
『いつもの喫茶店』とは、大学の真裏の住宅地の中にぽつんとある、小さな喫茶店である。
中は薄暗く、昔ながらの喫茶店と言った雰囲気であるが、店内は隅々まで清潔にされており、壮年のマスターが出す珈琲は格別に美味い。
ただ、野草園からまた大学まで歩かなければならない苦労と、咲き誇る美しい桜の名残惜しさに「ここのカフェでは駄目?」と訊いいてみた。
彼女は再び「いつもの喫茶店がいい」と言い、僕の右腕を離れ出口の方へ歩き出した。
こうなると、彼女の心を動かすことはできない。
諦めて、僕は彼女を追いかけて野草園を出た。
野草園に来る際は、川沿いを歩いて、遠くに見える山々や、川の流れを眺めながらゆっくりと歩いて行った。
だが、一度見た風景に彼女は興味が無いようで、住宅地を縫うような近道を選んで喫茶店に向かった。
日差しや風は春を感じさせるが、歩いているのは住宅地の中である。
春を楽しむような景色があるわけではない。それに、家々を余りしげしげと眺めるわけにもいかない。
ただ黙々と前を向き、住宅地を足早に通り過ぎてゆく。
大学の建物が見え、もうそろそろかなぁと思っていた矢先、不意に彼女の足が止まった。
繋がれていた腕が急に伸びきって動かなくなってしまったので、何事かと思い彼女を見た。
彼女は一軒の家を注視している。
僕はちらと、彼女の視線の先を見た
庭のある小さな平屋だ。
庭には木が1本だけあり、その傍におばあさんが立っていた、と思う。
一瞬しか見ていなかったので、余りよく見えなかった、と言うか、見なかった。
僕は、余りにも彼女がその家をじっと見つめ続けるため、失礼だと言って咎めようと思った。
だが、僕が口を開こうとした時、彼女は「先に行ってて」と言い、その家の方に向かってさっさと歩き出してしまった。
僕が彼女を止るためどうするかを迷っている内に、どんどん彼女は遠のき、その家の庭に入っていってしまった。
完全に機会を失ってしまった。
彼女を追いかけるべきかどうか、暫く悩み、諦めて喫茶店の方に向かった。
どうせ僕が行ったってどうにもならないだろう。
それどころか、そこの住人にとっては、勝手に敷地内に入ってくる不審者が1人増える事になる。
どう言い訳をしようと、余計に迷惑をかけるだけである。
それに、「先に行ってて」という言葉通り、彼女の最終目的地も僕と同じなのだ。
ここからなら、歩いて5分もかからない。暫くすれば来るだろう。
喫茶店のドアを開けると、ドアについているベルが涼やかな音を立てた。
カウンターの方から「おや、今日は珍しく1人ですか?」とベルの音に劣らず、爽やかでよく通る声が聞こえてきた。
僕はいつもの、マスターの正面に位置するカウンターに腰を下ろしながら「後から来ますよ」と言った。
「そうですか」とにこやかに言い、珈琲の準備をする。頼むものはいつも決まっているからだ。
この喫茶店は、マスターとバイトの女の子の2人で切り盛りしている。
そもそもが大きな店ではない上、住宅地の中の目立たない見た目と立地のせいで、僕ら以外の客の殆どは、暇を持て余した近所のお爺さんお婆さんや奥様方位である。
外見の古風な雰囲気と常連客の年齢層のせいで、学生は中々入りづらいようだ。
この店の主であるマスターは、少し日本人らしくない、顔つきをしている。
目鼻立ちがはっきりとしていて、その上、全体的に整っており、精悍な顔立ちをしている。
それでいて「穏やか」という言葉を体現したかのような雰囲気を全身に纏っている。
何時かは忘れたが、マスターのお祖母さんが外国人だということを聞いた。
「その血のせいでしょうねぇ」などと、彼女と3人で楽しく話をしたのを覚えている。
他県から来た僕は知らなかったが、この辺りは、『高級』と言う程ではないが、それなりの住宅地であるらしい。
そんな処に住む奥様方が、お洒落なカフェではなく、こんな古風な喫茶店に通い詰めるのは、そんなマスターのファンだからだ、とバイトのユキちゃんにこっそり教えてもらった。
それを耳聡く聞いたマスターに「適当な事を言わないように」と窘められた為、余計に印象に残ってしまった。
今日は珍しく、そのユキちゃんどころか客は誰も居なかった。
「マスターこそ1人じゃないですか」と言うと、マスターは豆を挽きながら「今日は貴方が最初のお客様ですよ」と苦笑いをした。
挽かれた豆の微かな香りを嗅ぎながら「じゃあ良かった、あともう1人は確実に来ますから」と言った。
「有難いですねぇ」と笑い、手元に集中を向けた。
流石旨い珈琲を淹れることに拘っているだけのことはある。「半端なものを出すわけにはいかないから」と以前言っていた。
こういう時は邪魔をしないように静かにしている。
マスターが珈琲を入れてくれている間に、僕はスマホを取り出した。
ここに来てそれ程経ってない。それでも、彼女が来るのが遅いなぁと思っていた。
連絡も特に来ていない。
明瞭と「行く」と言っていたのだ。彼女に限って、連絡もなしに帰ってしまうことは無い、と思う。
「お待たせしました」と僕の前に珈琲が出てきたのと同時に、入口からベルの音が響いた。
彼女は「ごめん、待たせた」と言い、僕の右横に滑り込むように座る。
素っ気ない言い方にも聞こえるが、彼女なりの精一杯の謝罪である。マスターという見知ったが居るから、僕に甘えるような事が出来ない反動のようなものだ。
彼女が席に着くんのを眺めながら、マスターは彼女の分の珈琲の準備を始めていた。
「何してたの?」
彼女が荷物を下ろし、落ち着いたのを見計らって訊ねた。
「おばあさんと話をしてた」と顔をこちらに傾けながら言った。「迚も素敵なお話ができた」
「素敵な話?」僕は興味を惹かれた。
「うん、迚も素敵」彼女は目線を宙に漂わせ、うっとりとした表情をし黙って物思いに耽けてしまった。
折角面白そうな話を聞けると思ったのに、何も言ってくれない。
仕方なく僕は目の前に置かれたカップを手に取る。いい香りだ。
「あの庭に、桜の木があったでしょ?」
珈琲を1口含み、やっぱり旨いなぁと思っていた時だった。
急に話しかけられたため、少し吃驚した。
桜の木?
僕は、あまりよく見ないようにしていた為、植わっている木が桜だったとは気付かなかった。
ただ、何だか歪な形の木だなぁ、という程度の印象しかなかった。
何も言わない僕のことなど構わず、彼女は続けた。
「あの桜の木は、迚も愛されているわ。今日見た中で1番、美しい桜の木だった。」
僕は、その言葉にショックを受けた。
野草園にあった様々な種類の、満開の桜よりも、美しいだって?
僕にとって、美しく、お気に入りの、あの風景を貶されたような気がして、少し悔しくなった。
「野草園のも綺麗だったじゃないか。それよりも美しいのかい?」
思わず苛立たしげに、言ってしまった。
その様子に、彼女はため息をついた。「確かに綺麗だったよでも…」
「でも?」僕は食ってかかるように訊いた。
「そもそも、あれは『自然』じゃない」
彼女は野草園の桜を思い出したようで、眉間に僅かに皺を寄せ、少々不満げにそう言った。
「え?」
僕は理解ができなかった。
呆けている僕を見て、まるで物覚えの悪い子供に教えるかのように、彼女は説明を加えた。
「あれは人の手が加えられている。綺麗に『見えるよう』に整えられている。だから『自然』じゃない。」
私が見たいものではなかった、と呟くように付け足した。
それを聞いて、なるほど、と納得しかけた。
だが…
「だが、それを言うなら、その、おばあさんの家の桜だって手入れされてるだろう?」
「そうよ」と素っ気ない返事が帰ってきた。
何故だか、今はその素っ気無さが僕を更に苛立たせる。
「なら、野草園の桜と『同じ』じゃないか。」
そう言った途端、彼女はぐい、と僕に顔を近づけた。
間近で見た彼女の顔は、明らかに怒っている。
「『あんなもの』と一緒にしないで頂戴。さっきも言ったでしょう。あの、おばあさんの桜の木は、迚も『愛されてる』って。だから、」
だから、美しいのよ。
そう言い切ると、彼女は、いつの間にか出されていた珈琲を一気に飲み干し、お金をどん、とカウンターに置いた。
彼女はマスターに顔を向け「ごめんなさい」と悲しげな顔で謝罪した。
マスターは何も言わず。寂しげな微笑みで頷いた。
それを確認した彼女は、僕には一瞥もくれず、勢いよく体を翻し、甲高いヒールの音を鳴らしながら勢いよく出て行ってしまった。
何もかも置いてけぼりにされたような気分になった。
僕は、彼女が乱暴に開け放ったドアが揺れるのをぼおっと眺めていた。
彼女を怒らせてしまった…
しかも、その理由もよく分からずに…
僕は前に向き直り、手元に残った珈琲を眺め、もう一度口に含んだ。
「なんだか今日は、いつもより苦い気がするな…」
そう呟いて、僕は彼女がさっきまで居た席を、右隣の席を見た。
そこには、誰もいなかった。




