ほんの少しの希望
翌日、悠里と香織は連れだって、雪枝の入院している病院に向かった。しかし、病室に入ると、いつものベッドに雪枝の姿はなかった。ベッドの上もその回りもきれいに整えられている。
――まさか。
悠里は信じられない思いで、ナースステーションに走った。看護師をつかまえて聞くと、
「ああ、中野雪枝さんなら転院しましたよ」
と言う。
悠里はほっとしたが、転院先を聞くと、それは個人情報なので答えられないという。悠里は慌てて雪枝の携帯に電話をかけた。何回かの呼び出し音のあと、雪枝は出た。しかし、その声に以前のようなハリはなかった。痰が絡んだような声だ。
「はい、中野です」
悠里は堰き切ったように言う。
「雪枝さん、どうして転院したこと、教えてくださらなかったんですか」
雪枝はのんびりとした調子で言う。
「だって、ここはホスピスだし。正確には、総合病院のなかの緩和ケア病棟と言うのだけど。あなたに心配をかけたくなかったのよ。私が死んだら、ほら、この前あなたとすれちがった弟のお嫁さんから、あなたにも連絡がいくように頼んでおいたし。それでいいと思ったの」
「それじゃ、遅いんです!」
大きな声が、廊下に響き渡った。悠里は、自分の出した声の大きさに、自分で驚く。
隣にいた香織も思わず悠里を見る。
「あ、ごめんなさい。えっと、そのホスピスの場所、教えてもらえませんか」
雪枝の話では、今いる病院からそう遠くない。悠里は、早速香織と一緒に、電車で雪枝のいるホスピスへと向かった。行く道すがら、香織は言う。
「雪枝さんのガン、相当進行しているようね」
ホスピスとは緩和ケアを行う場所だ。もう治る見込みのない患者が、最後まで尊厳を保って、肉体的にも精神的にも快適に生きられるようにケアを行う場所。つまり雪枝は積極的な治療を諦めたということになる。
悠里はもどかしかった。
――弱っていく雪枝さんを、ただ見ていることしかできないなんて。
電車を降り、数分歩いたところにその病院はあった。緩和ケア病棟もあるが、そのほかにも病棟はあり、通常の治療も行っているようだ。都心から多少離れるため、病院の周囲には、庭園もあり緑も多い。といっても今は冬のため、大した景色は広がっていなかったが、春や夏になれば、なかなかの風景が見られるだろうと思われた。
二人は、雪枝の病室に入った。どうやら一人部屋らしい。悠里が香織を連れているのを見て、雪枝は絶句した。
「まあ、香織……」
香織は、そんな雪枝を見てほほえんだ。
「悠里ちゃんが、私を説得してここまで連れてきてくれたんですよ」
雪枝は悠里のほうを見て、頭を下げた。
「悠里ちゃん、ありがとう。ありがと。ほんとになんてお礼を言っていいか」
悠里は慌てて言う。
「いえ、とんでもないです。」
そして、雪枝は再び香織を見て言う。
「あのときは、本当にごめんなさい。申し訳ないと思っているわ。あれからしばらくして犯人が分かったの。香織を疑うなんて私、本当に自分が愚かだったと思うわ。あなたは私を許してくれるの?」
香織は雪枝を見ないようにして言う。
「一生、許すつもりはありませんでしたよ。だって大好きだったから」
香織は言葉を詰まらせる。そして涙をぬぐったのち、また続けた。
「大好きだった分、その分つらかった。本当に」
そう言って、香織は雪枝に抱きついた。そして、二人でしばらく抱き合ったまま、二人とも子供のように泣いていた。そして五年分の空白を埋めるように、二人で楽しげに話し始めた。
悠里は、シロと一緒にその様子をそっと見守りながら、心のなかでシロと会話する。
「ねえ、シロ」
「なんじゃ」
「シロはどこまで知っていたの」
昨日、香織と夕食をともにして帰ってきてから寝るまで、悠里はずっと考えていた。そして思った。シロは最初から全部知っていて、その知識に基づいて行動を起こしていたのではないか、と。
つまり、雪枝の死が近いこと、そして雪枝の望みを聞けば、きっと香織と会いたいと言うこと。そして看護師を目指す悠里に、ほしい能力を聞けば、きっと医療に関わる何かを希望すること。悠里が雪枝に会えばその能力で病状を悟り、きっと雪枝の助けになりたいと思うだろうこと。そして香織と雪枝で仲よく薔薇の世話をしていたことが、雪枝の望みを叶える助けになるであろうこと。
「わしが中野のじいさんに死なれて、途方にくれて彷徨っていた時、お前さんの猫、タマに会ったんじゃ」
シロは語り出す。
悠里は、突然タマの名前が出てきたので驚いた。
「え、タマ?」
シロは続ける。
「正確には、タマの魂じゃな。タマは言っておった。四十九日を過ぎたらあの世に行かねばならぬ。それが明日じゃ。けれど、お前さんを残していくのはとても心配だ、と」
「え」
悠里は思った。猫には霊魂が見えるという話を聞いたことがあったけど、本当だったのか。
確かにシロが言う通り、タマが死んでからしばらくは、悲しくて何も手につかなかった。でもシロが私に会う前に、タマに会って話をしていたなんて、まったく予想外だ、と悠里は愕然とした。
「わしは言った。わしも雪枝さんのことが心配じゃ。世話になったから恩返しもしたい。どうじゃろうか、タマ、お前さんの飼い主のやさしい心を少しばかり利用させてもらって、雪枝さんの心に引っかかっていることを解決させてもらってもよいだろうか。そうすればお前さんの飼い主、悠里もさまざまな人に会って成長できる。お前を亡くした悲しみも少しは和らぐだろう。一石二鳥ではないか、と。タマは最初しぶっておったよ。そんなにうまくいくだろうか、失敗して、悠里が悲しい思いをしたらどうなる。傷つくのは悠里ではないか、とな」
にわかには信じがたい話だと悠里は思う。だが話を最後まで聞いてみたい。悠里はシロに続きを促した。
「それで」
シロは自信満々に言う。
「わしは、任せておけ、と言ったよ。秘策があるから心配するな、とな。」
「それがあの薔薇?」
「そうじゃ。二人が何度も連呼するから、わしの耳にもこびりついておった」
悠里はふくれて言う。
「もっと早く教えてくれてもよかったのに」
シロはしらっとして言う。
「秘策じゃからの。最初から出してもつまらなかろ」
そんなシロを見て、悠里は憎まれ口の一つも叩いてみたくなった。
「シロの意地悪」
「なんとでも言え」
悠里とシロが心の声を出し合い、ふざけあっていると、話が一段落ついたのか、雪枝が言う。
「悠里ちゃん」
「はい」
「ここの病棟はペットもオーケーなのよ。楓もいるんでしょう」
悠里は驚いて言う。
「気付いてたんですか」
悠里はシロをバッグから出し、膝の上に置いた。
「えー、物音ひとつしないから、気付かなかった」
香織が驚いて言う。雪枝は笑って言う。
「だんなのそばにいるときもそうだったじゃない。とても静かな猫ちゃんなの」
そう言って、雪枝はシロの頭をなでた。香織は優しい顔をして、その様子を見つめている。悠里は少し考えた後、思い切って言った。
「私の努力ももちろんありますけど、最終的にお二人を結びつけたのは、この楓ちゃんって言ったら、お二人は信じますか」
雪枝と香織は顔を見合わせてから、言った。
「信じないわ、そんなこと」
「そうよね」
そして、二人で声をあげて笑う。そんなことあるわけないじゃない、具体的にどうするのよ、と言った風に。そんな仲のよい二人の様子を見て、悠里はすっかり幸せな気分になった。
そのとき悠里には、香織のおなかの辺りに大豆くらいの大きさのものが、光っているのが見えた。きらきらして、そこだけやけに眩しい。もしかして、と悠里は思う。シロはこんな能力も私に授けてくれていたのか。改めてシロの不思議な力に悠里は驚いていた。
悠里は思わず聞く。
「もしかして、香織さん、おめでた、ですか」
「え、そうなの、香織」
雪枝は驚いた様子で、香織を見た。
「どうして悠里ちゃんには分かるのかしら、不思議ね。私だってつい最近わかったばかりなのよ」
「予定日はいつ?」
おそるおそるといった感じで雪枝が聞く。
「十一月です」
「まあ、楽しみね。それまで私、生きていられるかしら」
相変わらず雪枝の胸の色は悪い。それにガンが転移してきているのか、腹部のほうまでその色は広がってきているようだ。しかし、それでも頑張って少しでも長生きしてほしい、と悠里は思う。
悠里は思わず言った。
「そんなこと言わないでください。きっとだいじょうぶです。それまで気力で頑張りましょう」
「そうねえ、頑張れたらいいわね」
雪枝は穏やかに笑った。そして、改まった声で、悠里を見て言う。
「ねえ、悠里ちゃん、今回のこと、私本当にあなたに感謝しているの」
悠里は慌てて顔の前で手を振った。
「いえ、私はなにも」
今回のことは、悔しいけどすべてシロのお手柄だ、と悠里は思う。
しかし雪枝の表情は、真剣そのものだ。
「そんなことないわ。本当に感謝よ。何か欲しいものはない? お礼がしたいのよ」
香織も負けじと言う。
「そうよ、私だって何かお礼したいわ」
悠里は困った顔になる。もともと何か見返りを期待してやったことではなかった。
「そんな、何もいらないです」
雪枝と香織は顔を見合わせた。そんなのだめよと言わんばかりだ。その時、悠里はひらめいた。だが同時に、受け入れてもらえるだろうかと心配になる。
「じゃあ、あの」
雪枝と香織は声を揃えて言う。
「なあに」
悠里は、シロを膝に乗せたまま頭を下げた。
「シロ、いえ、楓ちゃんをください」
雪枝は驚いていた。
「それだけでいいの? ほんとうに」
悠里は、やだな、こんなことシロの前で言うの、と照れながらも言う。
「はい。私、前にも言いましたけど、楓ちゃんが好きなんです」
雪枝は言う。
「楓のことは、どうしようかと考えていたのよ。悠里ちゃんがそれでいいならあげるわ。あと、楓にはえさ代とかいろいろお金がかかるから、あとでペットショップの商品券を渡すわね」
香織は、悠里を見つめた。
「楓は、中野夫妻の猫よ。私にできることは? 何かない?」
悠里はしばらく、うーんと考えたのち、言った。
「なら、もし私が困ったときがあったら、助けてくれますか」
香織は二つ返事で引き受けた。
「もちろんよ。携帯の番号を教えておくわね。平日の昼間は仕事してるけど、あともう少ししたら産休に入るから、そしてらいつでも連絡していいわよ。うちにもたまには遊びにおいで。だんなの話長いけどね」
香織は屈託のない笑顔で、あはは、と笑う。
「悠里ちゃん、あなたって本当に欲がないのね」
雪枝は呆れたように言う。しかし、悠里は胸を張って答えた。
「私にも欲はあります。立派な看護師になって、沢山の人を助けたいんです」
「そういうのは、欲じゃなくて夢っていうのよ」
香織はそう言って、くすっと笑った。