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シロの想い、タマの想い  作者: 丸山梓
13/19

励まし

 そして、翌日の土曜日を迎えた。実習は基本的に土日が休みだ。


 悠里は、昨日の失敗を振り返って、ため息をついた。

確かに自分が悪い、それは分かっている。結果的に、悠里がしたことは田代の容体を悪化させた。


 けれど、あの場面で悠里は、どうしても田代の希望をかなえてあげたいと思ってしまったのだった。再び、同じような場面に遭遇したとして、うまくかわすことができるだろうか。悠里には自信がなかった。


 田代の様子を見に行きたいと思ったが、実習が休みの日に病棟へいくことは禁止されている。悠里は、いてもたってもいられない気持ちで、自分の部屋をぐるぐると歩きまわった。


 シロは悠里の部屋に来ていたが、ただクッションの上で丸くなっている。悠里は、こういうときこそ、何かアドバイスがほしいものだと思うが、何も言葉を発してこない。看護師経験のある母に話すことも考えたが、悠里は一瞬で却下した。絶対だめ、絶対怒られる。


 悠里が再び、深いため息をつこうとしたそのとき、携帯からメールの着信を知らせる軽快な音楽が流れた。悠里は、それを聞いて、自分の今の気持ちの暗さとの大きなギャップを感じて、さらに暗い気分になる。悠里は、ため息をつきながら、バッグから携帯を取り出した。見てみるとメールの差出人は香織だった。


「悠里ちゃん、久しぶりだけど、元気にしていますか。私の方は、日増しにつわりがひどくなってきたので、マンションに母を呼びました。悠里ちゃんの話をしたら、会ってお礼を言いたいとのことです。今日か明日、時間とれますか」


 悠里は首を傾げた、お礼とは一体、何のことだろう。むしろお礼を言いたいのは、こちらの方だ。香織の母親に会えなければ、雪枝と香織を会わせることなど、夢のまた夢であった。悠里は、慌てて返信する。出掛けた方が気分転換にもなり、いいかもしれない。


「今日、明日は、病院実習もないので、暇です。そちらのマンションに伺えばいいですか」


 香織からすぐまた、メールが来て、「よかった。うれしい。いつでも来て下さい」との返事を得て、悠里はお昼を食べたあと、香織のマンションに向かった。


 かなえは、慌ただしく出て行く悠里の背中をちょっとの間眺め、昼のお皿を片づけながら、シロに言う。


「シロちゃん、悠里は大丈夫かしらねえ。なんか変に落ち込んでいると思ったら、今度は出掛けるっていうし、どうなってるのかしら」

シロはかなえを見て、にゃーんと鳴くだけだった。


 悠里がマンションに着くと、香織の母親が両手を広げて出迎えてくれた。


「よく来たわね、悠里ちゃん。まあ、座って座って。今日は、健吾さんいないから、女だけよー、気楽よねー」


 お茶とバームクーヘンを出してくれる。悠里が一言も発しないうちに、香織の母親は、機関銃のように話し出した。


「香織から聞いたわよ。悠里ちゃん、あなた雪枝さんと香織をひき合わせてくれたんですって。うちの子、なかなか人に心を開かないタイプだから、苦労したでしょう」


 悠里の脳裏に、香織を説得するために、このマンションに通った日々がよぎる。あの頃大変だったなあ、と悠里は懐かしく思い出していた。香織の母親は続ける。


「それでね、あなたが私の家に訪ねてきてくれたとき、悠里ちゃん、私に深呼吸がいいって教えてくれたでしょう」


 悠里は、思い出した。香織の母親は、しつこい便秘に悩んでいたのだった。だから悠里は、自律神経のバランスを整えるために、深呼吸を勧めた。当時の香織の母親のおなかのあたりは、茶色くぐるぐるととぐろを巻いて、なんとも異様な有様だったのだ。悠里は、香織の母親の腹部を改めて見て、そういえばもう茶色くない、と思う。


「私、それを信じてわらにもすがる思いで、朝ご飯食べたら、必ず十回深呼吸をするようにしたのよ。そしたらもう、どっさり」


 ふふふ、と香織の母親は笑う。笑うと目元が、香織さんに少し似ているかも、と悠里は思った。


「悠里ちゃんはきっと、優秀な看護師になるわね」

「いえ、そんな、私、今、病院に実習に行ってるんですけど、とにかく失敗ばっかりで」


 悠里は、昨日の失敗ばかりは恥ずかしくて、とても話せない、と思う。


「最初はみんな、そんなものよ。私はね、悠里ちゃん、あなたの気持ちが嬉しかったの。あなたはだた純粋に、私の健康を気遣ってくれた。香織を雪枝さんに会わせたのだって、別にそれであなたは何にも得するわけじゃない。だけど、雪枝さんに喜んでもらうために、ただそれだけのために悠里ちゃんは頑張った。患者さんに対してだって、悠里ちゃんは同じように接するはず。それはきっと患者さんにも伝わるはずよ」


 香織の母親の言葉は強く悠里を揺さぶった。ありがたい言葉だ、と思う。しかし悠里の気持ちは依然として深く沈んだままだ。相手を思いやる気持ちが大事といっても、結局は、思いやる方向を間違えたのだった。田代の容体は悪化した。患者が元の健康な生活を取り戻すのに貢献できていない。このまま田代が亡くなってしまったら、自分はどうしたらいいのだろう。


 そのとき、トイレからジャーと勢いよく水が流れる音がした。そして洗面所から、ぐったりとした様子の香織が現れた。

「やあ、悠里ちゃん、元気」

「あ、はい。元気です。今、お母さんと話してて少し元気でました」


 悠里は無理やり笑顔を作って言う。


「私はメールにも書いたけど、つわりがひどくてだめ。今も少し吐いたとこ。お母さん、お水ちょうだい」

「ああ、はいはい。どうぞ」


 香織の母親は、スリッパをパタパタと鳴らしながら、動き回る。そして香織が水をごくごく飲む様子を、満足げに見ながら言う。


「悠里ちゃん、さては何か大きな失敗をしたのね。さっきから暗い顔して。その顔で笑ってもだめよ。いいじゃない、失敗しても。次同じことしなきゃいいんだから。失敗したときのみじめさ、辛さはすぐ忘れること。でも何を間違えたのかは忘れないこと。これが、おばさんの信条よ」


 悠里は肩の力がふっと抜けるのを感じた。どうしようもなく重大なミスをしてしまったのに、香織の母親の言葉を聞いていると、自分のこの悩みが、他愛もないちっぽけなことだと言われているような気がして、心が軽くなる。


 悠里は真剣な声で言った。

「はい、私また来週から頑張ります」


 そして、田代の病状が回復に向かうよう、悠里はひたすら祈った。


 家に帰って、香織の母親からもらったお茶のセットをかなえに渡すと、かなえは、まあ、素敵と言って喜んだ。


 二人で封を開けると、ほうじ茶、玄米茶、緑茶の茶葉に、抹茶のロールケーキまで付いている。


「まあ、私、抹茶のお菓子って大好きなのよねー。あら、シロちゃんはダメよ。甘いもの食べられないでしょう」


 シロはかなえと悠里の楽しげな様子に、興味深々といった感じで近づいてきたが、自分の好物ではないと分かると、心底残念そうに猫用ベッドへ引き返していった。悠里は、その様子がおかしくて、くすりと笑った。


 そして月曜日、悠里は祈るような気持ちで、いつもより早く病院に向かった。駅を降りると自然と早足になってしまう。病棟へ行くエレベータを待っている間も、落ち着かない気分だ。そしてナースステーションに入ると、おそるおそる岩崎に話しかける。


「おはようございます。あのう、どうでしょうか、田代さんは」

「ああ。どうやら持ち直したようだよ。ICUからこの前の病室にもう戻っているから会って話しておいで」


 岩崎は、ああ、それから、と思い出したように付け足す。

「状態が落ち着いてから、婦長が本人に直接聞いたら、あっさり認めたよ。俺が無理言って頼んだんだから、あの子を責めないでやってくれ、だってさ」


 岩崎は、安堵の表情を浮かべる悠里の頭をくしゃっとした。悠里は、顔が赤くなるのを感じた。


「もう心配ないよ。この土日、辛かっただろ。これに懲りたら、もうしないこと」

悠里は、はきはきとした声で言った。

「はい、もうしません。これからもご指導、よろしくお願いします!」


 それから急いで田代の様子を伺いに行った。


 田代は、鼻から酸素の吸入を受けていたが、悠里の姿を見ると、かすれる声で言う。その声もやっと出しているという感じで随分小さい。やはり、まだ本調子ではないようだ。


「具合悪くなっちまって、悪かったな」


 悠里は首をぶんぶんと横に振る。そんな悠里の様子を見て田代はゆっくり続ける。


「俺のせいで看護師になるの、やっぱしやめるなんて言わないでくれよ」

 それを聞いた悠里は、きっぱりと言った。


「田代さん、私、今回の失敗をいつまでも忘れません」

 田代は、驚いて動きを止めた。

「え」

 悠里は、ほほ笑んで言う。

「この失敗を忘れずに優秀な看護師になります」

「そうか。そうでなくちゃな」


 田代はわずかに笑ったように、悠里には思えた。そしてかすれる声でつっかえ、つっかえ言う。


「ICUにいるとき、婦長さんに言われたんだよ。ここで俺が死んだら、あの子は一生自分を責めながら生きることになる。看護師になることだって諦めてしまうかもしれない。せっかく伸びてきた芽を踏みつけるようなことをしたら私が許さない。そのために、あなたはただ生きるしかないのよってな」


 悠里は、思わず涙が出そうになった。そして、この病院が実習先でよかったと心から思った。


 この一件後、悠里は順調に実習をこなし、最後には段取りの良さを岩崎に褒められるまでになっていた。毎日、睡眠時間は四、五時間しか取れなかったが、毎日が充実しており、悠里は看護師という仕事にやりがいと手ごたえを感じ始めていた。


 一方で、実習が終わったら、もう岩崎と会うこともないのかと思うと悲しい気持ちになった。岩崎が自分のような学生を相手にするわけがない、と悠里は気付いていたし、実習先の看護師と付き合うなんて、看護専門学校に知れたら大事だ。悠里は後ろ髪を引かれるような気持ちだったが、ばっさりとこの恋を諦めるつもりでいた。


 明日で実習も終わりという日、悠里は、携帯に見知らぬ番号から電話がかかってきているのに気付いた。留守電にしてあったので、メッセージが入っている。


「あ、もしもし、悠里ちゃんですか。私、中野雪枝の義理の妹です。」

 悠里の心のなかにいやな予感がじわりと広がる。


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