時空をめくるシャッター音
カシャッ——
都市と田舎を隔てる一本の長い道、西大通り。
ユリノキの並木が静かに連なり、車の気配すらほとんど感じられないその場所に、私は再び足を踏み入れてしまった。
風が葉を揺らし、かすかなざわめきを立てる。その静寂の中、不意に「カシャカシャ」という異様な音が、私の耳を刺した。
その瞬間だった。頭蓋の奥に、冷たい異物が押し寄せる感覚が走る。
誰かの記憶――見知らぬ男の人生が、濁流のように私の意識を飲み込んでいった。
幼い日の他愛のない思い出。初めての遊園地でのデートで高鳴る胸の鼓動。実家を出て一人暮らしを始めた日。病院の白い壁と、産声と共に湧き上がったあの喜び。あの確かな日々の記憶。
体験したはずのない「あの男」の感情が、私の心を鋭く抉る。
「助けて…妻、子を、…助けて」
記憶の中で、彼は私に懇願していた。その声は絶望に震え、耳の奥でいつまでも反響し続けた。
私は気づけば走っていた。ただ、夢中で。あの忌まわしい出来事が刻まれた民家を目指して、足が自然と動いていた。
息が乱れ、心臓が喉を突き破りそうなほど脈打つ。その家に辿り着いた瞬間、目の前の景色は「悪夢」から「現実」へと変貌した。
あの男がいた。記憶の断片で見た人殺しの男だ。男が玄関のチャイムを鳴らし、ドアが開いた次の瞬間――鋭い刃が無慈悲に突き立てられた。
「うっ……!」
腹を刺された男は、よろめきながらも、子供を抱えた女に向かって叫んだ。
「逃げろぉぉ!」
その声は、べっとりと血と恐怖に濡れていた。
刺した男は容赦なく襲いかかり、二人はもつれ合うように床を転がる。私の身体は、考えるより先に動いていた。
馬乗りになった襲撃者の背に飛び乗り、手に握った「何か」――重く、冷たい鉄のような感触のそれ――を、私は狂ったように振り下ろす。
――ゴリッ。
鈍い音が響き、黒ずんだ血がドロリと溢れ出した。男は力なく崩れ落ち、二度と動かなくなった。
「嫌ぁぁぁぁっ!」
女の泣き叫ぶ悲鳴が、冷えた空気を引き裂いた。
彼女は夫らしき男を抱きかかえ、血に塗れた手で彼の顔を幾度も撫でながら、意味をなさない言葉を呟き続けている。
腹から噴き出す鮮血が床を染め、赤黒い染みが容赦なく広がっていく。
私はゆっくりと、その惨劇の跡へ近づいた。倒れた彼の顔を見下ろす。
そこには、記憶の中で私に助けを求めた、あの男がいた。青ざめた顔に、安堵とも苦痛ともつかない、奇妙な表情を浮かべて。
「……助けたよ」
私はぽつりと呟いた。
気づけば、私の頬を涙が伝っていた。止めどなく溢れる涙で、視界が歪んでいく。
するとその時、あの男の声が、私の頭の中に直接鳴り響いたのだ。
「ありがとう」
その一言が、私の胸をいっぱいに満たしていく。溢れるほどの温かさと、切なさが、波となって二つの身体を繋いだ。
なぜ、私はこれほどまでに泣いているのか。なぜ、これほどまでに愛おしいのか。
二つの世界、重ね合わされた状態、二つの時間軸が完全に同期し、一つの答えを導き出す。
確率の波が収縮し、無限の可能性の中から「この現実」が選択された。
視線が交わったその瞬間、不確定だった二つの世界の境界は完全に崩壊した。
距離も、時間も、世界線すらも意味をなさない。私たちは最初から、時空を超えて互いにスピンを反転させ合う、もつれ合う粒子だったのだ。
彼は――別世界の私だったのだ。
観測したことで世界は確定(収束)した。しかし、すでに介入してしまった私の実体は、量子もつれの残滓として、
そこに「観測された事実」としてこの世界に残らざるを得なくった。
彼らにとって、
そして『この世界』において
わたしは――紛れもない『あの男』だったのだ




