狂おしきユリノキの並木道
夜の帳が降りた頃、男は「西大通り」と呼ばれる長い一本道を車で走らせていた。都市部と田舎を繋ぐその道は、見事なユリノキの並木が続いている。だが、時速六十キロで走っても通り抜けるのに二十分はかかるその景色は、あまりにも均一だった。どこまで走っても同じ場所をループしているような、奇妙な錯覚を呼び起こす。
「この道は、永遠に続くんじゃないか……」
男は仕事の疲れからくる眠気を払おうと、窓を開けた。冷たい夜風が頬を叩き、頭が少しクリアになる。だが、フロントガラスの向こうには、相変わらず現実と幻想の境界線のような、同じ闇と並木が広がっているだけだった。
◇しばらく走ったとき、ふと沿道に一軒の民家が現れた。闇の中にぽつんと佇み、玄関の灯りだけがぼんやりと点いている。その時だった。
「どんどんどんどん! どんどんどんどん!」
静寂を破り、民家の中から階段をけたたましく駆け上がるような音が響いてきた。男が怪訝に思って車を路肩に寄せた瞬間、今度は魂を切り裂くような男の絶叫が轟いた。男の心臓が早鐘を打つ。恐怖よりも、奇妙な好奇心が勝り、男は吸い寄せられるように車を降りて民家へと歩を進めた。
「やめてぇぇ、もうやめてぇぇ!」
次は女の悲鳴だった。それが哀れな泣き声へと変わった刹那、玄関のドアが内側から激しく蹴破られた。そこに立っていたのは、黒い服を着た男だった。その手には血まみれのナイフが握られている。男は、頭から血を流してぐったりとした別の男の首根っこを掴み、床に血をぴちゃぴちゃと滴らせながら引きずり出てきた。玄関の灯りが、ドロッとした生々しい赤を照らし出す。まぎれもない殺人現場だった。外の様子をうかがった黒服の殺人鬼の目が、真っ直ぐに男を捕らえた。その瞳は、仄暗い光を放っていた。(顔を見られた!?)男は全身の血が引くのを感じた。被害者を助けることなど頭から消え去り、ただ自分の生存本能だけが体を突き動かした。男は踵を返し、車へと猛ダッシュした。
◇飛び乗るようにエンジンをかけ、アクセルを踏み込む。「やばいやばいやばいやばい……!」バックミラーに映るかもしれない恐怖と戦いながら、男はあの気が狂いそうなユリノキの並木道を必死に駆け抜けた。早くこの悪夢の一本道を抜け出さなくてはならない。その時、耳元でパシャリと、古いカメラのシャッターを切ったような音が響いた。視界が激しく歪み、一瞬にして世界の色彩が変貌する。
「……え?」
男がブレーキを踏み、周囲を見回した。車はまだ走っていたはずだった。しかし、目の前にあったはずの夜の並木道は影も形もない。聞こえてくるのは、のどかな音楽と、楽しげな子供たちの歓声。視界に飛び込んできたのは、ゆっくりと回る巨大な観覧車と、色鮮やかな遊園地の風景だった。男の車は、なぜか賑わう遊園地のど真ん中に、ぽつんと停車していた。
「ここは、どこだ……。私は本当に頭がおかしくなってしまったのか?」
男が車内で狂ったように呟いても、窓の向こうを行き交う人々は、誰もこちらを気に留めない。まるで見えない透明な壁で隔てられているかのように、それぞれの楽しげな世界に没頭している。世界から完全に孤立した車の中で、男はただ呆然と、回り続ける観覧車を見上げていた。そこが現実なのか、それとも、あの血生臭い一本道が現実だったのか。それを教えてくれる者は、もう誰もいなかった。




