狭山絢子 前編
——五月二十七日。
死神ギルド襲撃から一夜が明ける。
ここ数日は怒涛のような日々だったけど。
いろいろな出来事を経たおかげか、心の整理は自ずと終えられて。
途端に自分のやるべきことが明白になる。
心のつかえが取れた私は、数週間ぶりに自分の意思で部屋を出ることができた。
その勢いのままお風呂に入って。綺麗な服に着替えて身なりを整えて。
散らかりに散らかった部屋を掃除して。
そんなあたりまえなことが、生きる屍のようだった私にとっては大きな一歩だ。
不本意ではあるけれど。
その勇気を与えてくれたのが、私の一挙手一投足を微笑ましげに眺める相棒のムサシ。
というわけで、朝から缶ビールを傾けている素行については、あえて口をつぐんであげた。
換気のために開けた窓から入ってくる朝の爽やかな風を感じながら、姿見で自分の全容を久しぶりに凝視する。
少し痩せこけた気がするけど、それ以外の異常は特に無し。すっかり伸びてしまった髪の毛も跳ねたりしてないので、そのまま後頭部で纏めてしまう。
よし、と拳を握りしめて自分を鼓舞する。
「じゃあ、行ってくるね」
そう言って、私はムサシに軽く手を振る。
「ああ、健闘を祈っている。 なに、きっと上手く事が運ぶさ」
ぶっきらぼうな口調のくせに、ムサシの言葉には不思議な安心感があって。
私の背中をぐい、と押してくれるような。そんな気持ちにさせてくれる。
「その装いもよく似合っているぞ。 自信を持って行ってこい」
装い。
ああ、服装のことか、と。
階段を降りながらぼんやりと考える。
時たま小難しい言い回しをするもんだから、理解をするのに時間を要して、いちいち面倒くさい。
それに出かけるわけじゃないから、白いシャツと緩んだスウェットなんて、日常感あふれたごく普通の格好だし。
あいつはどこをどう見て褒めどころを得たのだろう。
まあ、悪い気はしないけどさ。
「それにしても……、ずっと前から思ってたけど、あの言い回しはどうにかならないかなー」
ため息まじりにぼやいて、はっとする。
違和感なく口から出てきた、ずっと前という言葉。それは、ここ数日間に対してではななくて、それよりもっと前を思い浮かべながら発した言葉だった。
ずっと前って、いつの頃だろう。
考えを巡らせながら自分の唇を指でなぞる。
あと少し手を伸ばせば、記憶の片隅にあるカケラを掴めそうなのに、でも掴めないもどかしさ。
すっきりしない気分を味わいながら、今優先すべきことを思い出して階段を降りた。
一階の茶の間。
引き戸の前で何度も深呼吸をする。
現在の時刻は朝の七時。
お母さんとお父さんが出勤前に朝ごはんを食べている時間だ。
そこに私が突入したとして。
二人はどんな反応をするのだろう。っていうか、なんて言えばいいのだろう?
この数週間、というかほぼ丸一月。
両親との関わり、その一切を絶って部屋に引きこもっていたし。
なんだったらお母さんにはご飯を作らせて、わざわざ部屋の前まで持って来させていた親不孝者。
そんな私の帰還を、二人は受け入れてくれるのだろうか。
不安や自己嫌悪がぐるぐると行ったり来たり。
数歩後ずさったところで、自分を叱咤するように両頬を叩く。
大丈夫。ムサシだって上手くことが運ぶはずだって言ってくれた。
だからきっと、大丈夫だ。
何度目かもわからない深呼吸を終えると、私は意を決して引き戸を開ける。
勢いがつきすぎて大きい音が立ってしまったからか、トーストをかじっていた二人が、揃って驚愕の表情をこちらに向けていた。
「お母さん、お父さん……。 あの、その、……お、おはよう……!」
少し言葉を詰まらせながらも、二人の顔をしっかりと見つめて言えた。
特別なものなんてない。
なんの変哲もない、ありふれた朝の挨拶だけど、長い間二人に伝えることができなくて。
今この瞬間、一番に言ってあげたい言葉だった。
私の姉だと間違われることも多々ある、娘ながらに若々しいなと感心するエプロン姿のお母さんと。
たくましい肉体を強調したいがために。
ぴっちりとした黒のタンクトップを身にまとう、まさに筋骨隆々という言葉がよく似合うお父さん。
二人は仲良く、トーストを手からすべらせて落とした。
鳩が豆鉄砲を食ったよう。っていうのはこんな感じなんだろうな、と思わず深く頷いてしまいそうなほど、非常に良い例を体現している両親。
しばしの絶句のあとに体を小刻みに震わせると、
「「と、友恵えぇ〜!!!」」
「うわあっ!」
だだだ、とこちらへ向かって全速力。
そのまま二人は、私を左右に挟んで力いっぱい抱きしめてきた。
「ちょっと!? ……もうっ、二人とも、苦しいってば!」
娘の私がいうのもあれだけど。
二人はいまだに娘離れができていない、なかなかに子煩悩な両親だと思う。
こっちはもう高校二年生だっていうのに。
たまの休みが合えば、家族揃ってのお買い物は当たり前。
いまだに夏休みの家族キャンプを企画するのが、お父さんの密かな楽しみらしいし。
雪が積もれば、かまくらを作るのに付き合わされるし。
私の誕生日パーティーの準備に心血を注ぐし。ちなみに、茉瑠奈とささやかに祝いたいと言えば拗ねてしまうような二人で。
半月にいっぺんくらい、一緒にお風呂に入りたいと駄々をこねるお母さん。
私の隠し撮り写真(?)を見せびらかせて、同僚に自慢しているらしいお父さん。
そんな愛おしくて憎めなくて、大好きな二人が涙を流しながら喜んでくれていて。
ずっと心待ちにしてくれてたんだ。
考えたらずで、未熟で、親不孝な娘が部屋から出て来るその瞬間を。
一体どれほどの心配を二人にかけていたのか、なんて考えると自然と涙が溢れる。
つくづく馬鹿だな、私は。
一ヶ月。
一年。
いや、十年引きこもったとしても。
この人達が私を嫌ったり、見捨てるはずがないことは知っていただろう。
これでもかと言うほど、無性の愛を与え続けてくれる二人なのだから。
「……心配かけてごめんなさい。 それとね、ありがとう」
これまでの謝罪と感謝をこめて。
私は、どうしようもなく流れ出る涙を拭いながら、嗚咽まじりに言う。
「良いっ、良いんだ友恵! 皆まで言うな! 父さんはな、お前が部屋から出てきてくれただけでじゅうぶんだあァァッ!!!」
「——かはッ!?」
鼓膜をつんざくような雄叫び。
お父さんの抱擁が、さらに強さを増して私を締めあげた。
すごく暑苦しい。そして息苦しい。っていうか、日々肉体をいじめ抜いて、鍛えた肉体で娘を圧死させるつもりか。
少しは力加減くらいしてくれ。
お母さんは良しとして、できればお父さんには今すぐに離れてほしいっ。
「あなた! 気持ちは痛いほどわかるけど、そろそろ家を出なくてはいけない時間だわ!」
「な、なんだってえッ!?……くそおッ、ようやく愛娘と再会できたというのにぃッ」
出勤の時間が迫っていることを告げられたお父さんは、身悶えしながら頭を抱えて床に伏した。
再会って、そんな大袈裟な。
なんて口を挟みそうになったけど、今回の件は全面的に私が悪い。
なので黙ることにした。
「休むッ、今日は絶対に休む! 鉄の意志で!
友恵とやりたいことが山積みなんだ……、絢子っ、真庭駅前交番に今すぐ電話を!」
「ええっ? で、でも、同僚の方に迷惑がかかってしまうし」
「構うもんか!」
「……あ、ほら。 お家に帰って来てから、可愛い友恵ちゃんを存分にひとりじめにするのは?」
「それまでの時間が惜しい!」
「……そ、そう」
いやいや。
心身ともに健康そうな警察官が、娘と戯れたいから当日欠勤って。
だめでしょそんなの。
あり得ないでしょ。
代わりを頼まれる人が可哀想だっての。
ぐだぐだとしたやり取りをしばし眺めて、このままでは本当に遅刻してしまう勢いだったので、この諍いをまるく収めようかとしていた矢先だった。
「はあぁ……、相変わらずあれやこれやと口うるさい男ですね、あんたは。 いい加減くどいってのよ」
穏やかではあるけど、刃物のような鋭さを携えたその語調。
お茶の間の空気が一変して凍りつく。
そして、私とお父さんの背筋が条件反射のようにぴん、と伸びる。
こ、これはまずいことになったぞ。
「愛する友恵がせっかくお部屋から出てきてくれたの……、だから事を荒立てずに、穏やかに送り出してあげようかと思っていたのに。
あんたはそうやって、いつまでもうだうだとっ……!」
さっきまで慈愛に満ちていた微笑みはどこはやら。
肩甲骨あたりまで伸ばした髪の毛を揺らして、切れ長の瞳を尖らせると、お母さんは腕を組んでお父さんを見下ろす。
冷たい。どこまでも冷たくて身震いするような眼力で。
そこらの死神よりも、うちのお母さんの方がよほど迫力があるんだけど、と私はたまらず生唾を飲みこんだ。
こうなってしまったお母さんには、もう私とお父さんも逆らうことなんてできるわけもなく。
ただ頭を低くして、言いなりになるしかない。
事実、目の前のお父さんは土下座の姿勢になって身を縮めて、
はい、おっしゃる通りでございます。異論はございません。
はい、申し訳ございませんでした。調子に乗ってました。
はい、産まれてきてごめんなさい。
と連呼していた。
さすがは我が家の最高権力者、狭山絢子。
この狭山家では、お母さんに逆らえる者など誰もいないのだ。
「ほらっ、さっさと着替えて出勤の準備! 今日も真庭市に住む方々のお役に立って、しっかり稼いできなさいっ!」
「……はい」
お母さんがそう言ってまくし立てると、お父さんのお尻を思いきり叩く。
そんな様を見て、私は間違いなくお母さんから産まれた子なんだな、と再認識。
なんというか、しっかりとした血の繋がりを感じた。
慌ただしく準備を済ませると、玄関へと駆けるお父さん。
せっかくだから見送ろうとあとに続く、と。
「う、うわあ」
玄関で繰り広げられる、お母さんとお父さんの熱い抱擁。からの情熱的な接吻。
こうして、私は誕生したのか……、生物としてごくあたり前のことなんだろうけど、なんだか複雑。
名残惜しく唇を離すと。
お父さんは行ってくる、としっかり警察官の顔になって出勤。それを笑顔で見送るお母さん。
うーん。
両親の仲が良いことは、娘にとっても喜ばしいことだとは思うし、あれが夫婦仲を良好に保つ秘訣だというのなら、口を挟むつもりもない。
けど、そういうのは私がこの家に存在していない時にして欲しい。
「……さて、友恵。 一緒にゆっくり、朝ごはんでも食べましょ?」
「う、うんっ。 食べよ!」
よかった。
お母さんの顔がもと通り。
いつもの慈愛に満ちていて、にこにこと微笑んでいるお母さんに戻っていた。
※
「お父さんのこと許してあげてね。 あの人、ずっと気が気じゃなかったみたいなの。 仕事も手つかずだったみたいで」
「いや、そんなに気にしてないよ。 だって、お父さんって昔からずっとあんな調子だし」
かりかりの焼き目がついているトーストに、苺のジャムをたっぷり塗って二人で仲良く齧る。
追って、マグカップに注がれたコーヒーでそれを流しこむ。
たったこれだけだというのに、随分と人間らしい時間を過ごせているな、と思う。
引きこもっていた頃にはあり得なかった日常だ。
「……改めてなんだけど、いろいろ迷惑をかけてしまって本当にごめんなさい。 それと、ご飯を作ってくれて、部屋の前まで持って来てくれてありがとう」
マグカップを置いてから、しっかりとお母さんを見据えて言う。
「いいのよ友恵。 娘に辛いことがあって挫けてしまった時に、立ち上がれるように支えてあげるのが、親として当然の役目でしょう?」
対するお母さんの静かな微笑。
敵わないなあ。
今の私が逆立ちしたところで、この人に勝てる要素なんてひとつもありゃしない。
親の偉大さが身に染みるようだった。
「これでも、友恵の気持ちは痛いほど理解してるつもりよ。 ……自分の娘のように、大事に想っていたあの茉瑠奈ちゃんが、ずっと行方不明のままだなんて」
言いながら、視線を落とすお母さんの手が小さく震えている。
私と茉瑠奈は小さい頃からずっと一緒にいて、そんな私たちの成長を間近で見ていたお母さんとお父さん。
茉瑠奈が遊びに来ようものなら、我が子のように可愛がって、遊んでくれていた。
二人だって辛かったに決まっている。私と同じくらいか、いや、きっとそれ以上に辛かったはず。
それなのに自分のことばかりで、ずっと殻に篭りっぱなしで。
悲しいことも、辛いことも分かち合う。
それが家族というものなのに。
そんなことも忘れて、私はどれだけお子様気分だというのだろうか。
「……辛かったでしょう、友恵? でも、もう気持ちの整理はついたのよね?」
「うん。学校の方も来週の月曜日からちゃんと行こうと思ってる」
「そう……、良かった。 本当に」
うん、うんと。
お母さんは静かに、何度も頷いてくれた。
※
朝食を済ませて茶の間をあとにする。
なんだかふっと心が軽くなって、自然と階段を登る足取りも軽やかになった。
浮ついた気持ちを無理やりに落ち着かせながら、自室のドアを開けると、
「そら、言った通りになっただろう? 事が上手く運ぶとな」
どこか自慢げに、そして満足そうなムサシが胡座をかいていた。
「そうだね。ムサシが、私に勇気をくれたおかげかも。 っていうかなに、もしかしてのぞき見してた?」
茶化すように言いながら、私はムサシの隣に腰を下ろして膝を曲げて抱えた。
「少々、戸の隙間からな」
おい。
こっちは冗談で言ったというのに、実に堂々とのぞき見を白状するじゃないか。
本当にこいつは……。
「親父殿とお袋殿が、泣いて喜んでいたな」
「……うん」
「良かったな、友恵。 ……俺は、お前に勇気など与えたつもりはない。 ただ、きっかけを作っただけだ。
この結果を掴み取ったのは、お前自身の力なのだぞ」
顔を伏せながら、腕を組んでしみじみとそう言うムサシ。
横から見える口の端が、優しげに上がっていて、いつもの強面が柔らかくなっていて。
「うんと自分を誇ってやれば良い」
もしかして、ムサシも一緒に喜んでくれているのだろうか。
「なあに、あんたまで。 なんか機嫌が良さそうじゃない」
「親父殿とお袋殿、そして友恵。 狭山家の面々は嫌いではないからな。 ならば、嬉しく思うのは当然だろう」
さも、あたり前だ、と言いたげなムサシの口調がなんだかむず痒くて。
まあ、相棒も喜んでくれているようだし良しとするか。
「……でも、お母さんとお父さんを安心させられたようで、笑ってくれて本当に良かった。 もう二度と、会えなくなるかもしれないし」
私の言葉にムサシの肩が少しだけ揺れた。
「くどいぞ友恵、それは昨夜にも言っただろう。 俺は死神殺しになど遅れはとらないし、お前は絶対に死なせやしないとッ……!」
珍しく感情を露わにするムサシ。
強まる語気には、怒りと悲しみ、どこか寂しげな気持ちが乗っている。
「わかってる、わかってるよ! そりゃあ、ムサシは頼りにしてるし、すごく強いのだって知ってる。 けど、剣道の試合と同じだよ。
いくら強くたって、戦いに絶対はないでしょ?」
「……それは」
宥めるように言うと、ムサシは言葉を詰まらせてしまった。
「けど、覚悟決めたから大丈夫。……どんな結果になったってムサシを恨んだりしない。 あんたのこと、信じてるから」
大きくてごつごつとしたムサシの左手を、私の両手で覆う。
改めて触れ合うと、死神の手なのに確かな温もりを感じる。
私たちは志を同じくした、一蓮托生の仲間。
口や態度には出さないけど、ムサシが私を大事に想ってくれているのがありありと伝わる。
なら、私もムサシに全幅の信頼を置かなければ失礼というものだろう。
微かに、ムサシは驚いた表情を浮かべていた。
『友恵ー、お母さんパートに行ってくるからねー』
一階からお母さんの声。
近所のスーパーでパートをしているので、そろそろ出勤といったところか。
「あ……、ごめん、ちょっと行ってくるね」
「あ、ああ」
私はムサシの顔をろくに見ず、ぱたぱたと自室をあとにする。
※
ムサシ、怒ってたな。
私の言葉で彼のプライドを傷つけてしまっただろうか。
これからが大事な時だというのに、ぎくしゃくするのはまずい。
あとでちゃんと謝らなくては。
「お昼ごはん、軽く作って冷蔵庫に入れてあるから。 あとで温めて食べるのよ?」
「そんな、忙しいのにわざわざありがとね」
礼を言って、手を振って見送る。
それを見たお母さんが玄関の扉を開けようとして、
「あ、そうそう」
なにかを思い出したように言いながら、再度こちらに振り向いた。
「どうしたの? なにか忘れ物?」
「春野蒼太くん、て……覚えてるかしら?」
「……は?……」
一瞬で、全身の血の気が引いていく。
平和な日常を取り戻した狭山家の平穏が、音を立てて崩れていく。




