アンガーをマネジメントしてからの
「り、リュージさん……! リュージさん、大変です!」
と、そっくり返った声を上げてシエルが宮に駆け込んできたのは、間もなく日も沈もうかという夕刻のことだった。その日、元老院に提出する書類の最終調整も済んで、あとは任せた、と冊子にしたそれをギゼルに託したところだった俺はぎょっとして、ぶち開けられた扉の向こうのシエルを見やる。
「お、おぉ、シエル。どうした、そんなに慌てて?」
「た、大変……大変、なんです……! 園で、アスバルさんが……他の奴隷と乱闘を……!」
「はあ!? 乱闘だって……!?」
恐らく非常事態を伝えるために園から駆け通してきたのだろう、前屈みになって肩で呼吸するシエルは汗だくで、息も絶え絶えといった様子だった。
だがそうしながらシエルが絞り出すような声で告げたのは、とても聞き捨てならない内容だ。まさかアスバルが乱闘騒ぎを起こすだなんて──この一週間余り、すこぶる不満げではあったものの、ハイビスとアロアロの世話だけは驚くほど真面目にこなしていたあのアスバルが。
「くそ、何やってんだよあいつ……! ラドニア、おまえはシエルを休ませて、ブルーとスカイをケージに戻してから追ってきてくれ! 場合によっちゃ怪我人が出てるかもしれん。イヴとティアとジュンコは……」
「イヴもいく! でも、ティア、いないよ!」
「あ……!? そ、そういやあいつ、どこいったんだ? さっきヘスペルと一緒に手習い塾から戻ってきて、それから……」
「今はあの女のことなどどうでもよかろう。まずは園の状況を確かめる方が先だ。あまり騒ぎが大きくなると、乱闘どころか暴動になるかもしれんぞ!」
「くっ……じゃあラドニア、すまん! もしもティアを見かけたら、状況を伝えといてくれ!」
「分かったわ。私もすぐに向かうから」
直前までラドニアも交え、書斎で最後の擦り合わせをしていた俺とギゼルは、とにかく状況を確かめるべく急いで書斎を飛び出した。すれ違いざま、事態を知らせに来てくれたシエルの肩を一度だけ叩き、ありがとな、という意思を伝える。
そうして宮から走り出ると、正面玄関を出てすぐのところにギゼルの馬がつながれていた。
やつはその手綱を解くや颯爽と鞍に跨がり、馬上からこちらを見下ろしてくる。
「私は先に行くぞ、リュージ。貴君も速やかに追ってこい」
「は!? ちょ、待て、おまえだけ馬はずるいだろ!? だったら俺も後ろに──」
「奴隷の分際で我が愛馬に跨がろうというのか? 身の程をわきまえろ。とにかく現場は私が先行して押さえておく。モタモタするなよ」
いつもの調子でそう吐き捨てるが早いか、ギゼルはやはりどう見ても〝馬〟ではない生き物に鋭く鞭をくれ、風のごとく駆け去った──あの野郎!
こんなときくらい乗せてくれたっていいだろと内心悪態をつきつつも、置いていかれてしまったものはしょうがない。俺は盛大に舌打ちしたのち仕方なく、イヴとジュンコを連れて自分の足で駆け出した。
事務所兼寮のアルコル宮から竜の園までは、走って十分ちょいの距離だ。
いくら肉体が若返ったとはいえ、この距離を休まず走破するというのは思ったよりだいぶしんどい。おかげで俺も園の入り口をくぐる頃には、シエルのことを笑えないくらい息も絶え絶えになっていた。が、今は呼吸を整える時間も惜しい。
「おい、イヴ、ジュンコ、アスバルたちはどこだ!?」
「彼奴らの氣は……地下じゃ! かなり殺気立っておるようじゃの」
「よし、地下だな……急ぐぞ!」
ほんの十数秒、膝に手をついた姿勢で休んでから、俺はすぐにまた駆け出した。
こういうとき、氣を使って特定の相手の居場所を感知できる竜の能力ってのは本当に便利だ。実際、俺が園の地下へと続く階段を駆け下りると、すぐに騒動の現場は地下だと知れた。複数の男どもが怒鳴り散らしてる声が聞こえるのは、物置部屋が並ぶ通路の方だ。
「──だから落ち着けって、アスバル! ここは一旦冷静に……!」
「ざっけんな! オレが懲罰房行きなら、そいつらだって同罪だろうが! こっちは無抵抗で一方的に殴られてやったんだぞ!」
「無抵抗? 三人を相手にこれだけ暴れ回っておいて、どこがどう〝無抵抗〟なのだ? むしろ凶器を振り回して暴れた分、貴様の方が罪が重くなるのは当然の裁量だろう」
「それは、そいつらが三人がかりで襲ってくるのを止めるために……!」
「そういった弁解は懲罰房で聞く。アトラース、ルイバの身柄をそのまま近衛騎士に引き渡せ。其奴の暴走を体を張って止めた功績は褒めてやる。貴君にしては珍しく上出来だ」
「こんなときまでひと言多いな、あんたは! ていうか確かにアスバルを止めたのは僕だけど、彼だけ懲罰房行きってのはおかしいよ! いくら奴隷法には抵触しないからって、女の子を襲おうとしといてお咎めなしなんて……!」
という会話が聞こえてくる方角へ駆け足で向かえば、俺はたちまち脳の情報処理能力を上回る光景を目にすることになった。まず両脇を武装した近衛騎士に挟まれながら、ヘスペルに羽交い締めにされて暴れているアスバル。そんなアスバルを冷然と、軽蔑の眼差しでもって見下ろしているギゼル。でもってギゼルが背にした物置部屋の中には、腫れたり血が滲んだりした顔でアスバルを睨んでいる三人の飼育員──あいつらは確か、ちょっと前までアスバルの取り巻きをしてた三人組だ。
しかしそれ以上に俺が目を疑ったのは、揉み合うヘスペルとアスバルの陰に身を隠すようにうずくまり、暗がりで震えているティアの姿だ。
「ティア!? なんでおまえがここに……!?」
「あ……り、リュージ……リュージぃ!」
やってきた俺に気づいてそう声を上げるが早いか、ティアは勢い込んで立ち上がり、助走をつけて抱き着いてきた。
あまりの勢いと胸の弾力に俺は一瞬吹き飛びかけたが何とか踏み留まり、縋りついてくるティアをさらなる混乱の眼差しで見やる。
「お、おい、ティア……! どうしたんだよ、その格好? なんで服がそんなズタズタに……」
「わああああん! ごめんなさい、ごめんなさい……っ! せっかくリュージがくれたお洋服だったのに……でも、でも、ティア、守れなかったのぉ……!」
そう言って俺の胸もとに顔をうずめたティアは、わんわんと声を上げて泣きじゃくった。が、返ってきた答えはまったく要領を得ず、俺はさらに大量の疑問符を飛ばしまくりながらも、ひとまず羽織っていたドラゴン・パークジャケットを脱ぐ。
そいつをほとんど裸同然になっているティアの肩に羽織らせた。にしてもこのありさまは……ティアの言い分を聞く限り自分で破いたわけではなく、きっと誰かに破られたんだよな?
「ああっ、リュージ、よかった! 来てくれなかったらどうしようかと思ったよ! ここにいるやつらはどいつもこいつも話が通じないから大変で……!」
「おう、ヘスペル。どうやらおまえが一番冷静に話ができそうだな。一体何がどうなってんだ?」
「それが、僕も騒ぎの途中で駆けつけたから詳しくは知らないんだけど、何でもケニーたちがティアちゃんを物置部屋に呼び出して襲おうとしたみたいで……そこにアスバルが乱入して、何かもうしっちゃかめっちゃかに……!」
「ティアを……襲おうとしただと?」
「違う! 確かに抱こうとはしてたけど、お互い合意の上だった! だからその女も自分からおれたちに犯されに来たんだ!」
「くだらねえ言い訳してんじゃねえぞ、ケニー! てめえはそいつがナニされるかも知らねえで、のこのこ犯されに来ると分かった上で誘い出したんだろうが!」
「だとしても、未婚の奴隷同士なら誰が誰をどうやって犯そうが合法的な繁殖行為だってさっき公子も言ってたろ! つまりてめえにとやかく言われる筋合いはねえんだよ! 上の言いなりになってシエルみてえな腰抜けと乳繰り合ってるザコが、今更粋がってんじゃねえぞ!」
「何だと、てめえ……!」
「あーっ、だからどう、どう! これ以上話をややこしくするなってばぁ!」
と、自らの拘束を振りほどこうとするアスバルをなおも押さえながら、ヘスペルが泣き言を言っていた。だが、そうか。おかげでだいたいの状況は見えた。
ゆえに俺はまず大きく息を吸い込んで深々と吐く。そうしながら心の中で、ゆっくりと六秒数えた。アンガーマネジメントの基本、六秒ルールだ。地球の脳科学分野において、突発的に沸き上がる怒りのピークは六秒だと言われていた。
というのも〝怒り〟という感情は、脳の中でも生物としての本能を司る大脳辺縁系の働きによって発生する。でもってそうした本能的な情動を理性で制御しようとするのが、人類を未曾有の大繁栄に導いた最大の武器、前頭葉だ。
人間は一四〇万種を超える生物の中でもひと際大きな前頭葉を持ち、こいつを獲得したことによって地球の知的生命体としての地位を確立した。
その前頭葉が大脳辺縁系で生まれた怒りの信号をキャッチし、抑制を開始するまでの時間がおよそ六秒。だからこその六秒ルールだ。俺は感情的になりすぎてヘスペルを殴ってしまった日から、改めてこの六秒ルールを意識してきた。
そして今、そんな自分を心底褒めてやりたい。何せあの日の反省がなければ今日もまた、俺はケニーたちをボコボコにぶん殴ってしまうところだった。
だが六秒待った今なら分かる。ティアが手習い塾に通いたいと駄々をこねた日、ギゼルが言ってたのはこういうことだったのかってな。
だとすりゃ今回の事件もまた、忠告の意味を理解できなかった俺の責任だ。
それについては納得した。けどな、
「……おい、ギゼル」
「何だ?」
「おまえ、いずれこうなると分かってて、あえて俺に黙ってたよな?」
「黙ってはいない。最初に忠告したはずだ。どうなっても私は責任を取らんとな」
「ああ、ティアの件については確かにそうだ。意図を汲めなかった俺が悪い。けど俺はそもそも奴隷同士の繁殖行為がどうのなんて話は知らなかった。園の運営を任せたくせに、俺がアゴログンド人のルールや常識に疎いと知ってて黙ってたのは、明らかにそっちの怠慢だよな?」
「……」
「つーわけで、まずはそこから聞かせてもらおうか。詳しい話はそのあとだ」




