今日だけは名優と呼んでくれ
しばらくジュンコを任せてもいいか、と尋ねると、イヴはこくりと頷いた。
俺たちの寝室があるのはアルコル宮の二階の角だ。
しかも半地下の上に建つ建物だから、ただの二階よりも地上からの距離は遠い。
ここならさすがに外から狙われたり侵入されたりする心配はないだろう……とは思いつつ、厨房でもそう考えて油断していた反省を踏まえて、何か異変を感じたらすぐに呼べ、と俺はイヴに言い含めておいた。近頃だいぶ語彙が増えたとは言え、イヴがどこまで正確に俺の言葉を聞き取ったのかは分からない。
けれども俺の目をまっすぐに見つめ、今度はこっくりと深く頷いたさまを見て、少しの間ならこいつに任せても大丈夫そうだと安堵した。
そうしてサラサラと指通りのいいイヴの金髪を撫でやってから、頼んだぞ、と告げて部屋を出る。意を決して扉に手をかけた。
とにかく今は可能な限り平静に、怪しまれないように。事態の究明も急務だが、まずは竜の姿に戻っているジュンコを皆の目から隠すのが最優先だ。
ベッドの位置は扉からは死角になってるし、天蓋も下ろしたからちょっと覗かれる程度なら大丈夫。古い上に長年手入れもされず埃を被っていたものだからと、もともと宮にあった貴人用のベッドを使わせてもらえていたことが幸いした。
あとは俺がうまく誤魔化せるかどうか──すべてはそこに懸かっている。
ゆえにふーっと息を吐き、軽く精神統一を図ってから「よし」と気合いを入れてノブを回した。ひと思いに扉を開き、廊下で待っているであろうラドニアたちを見回すために顔を上げる。そして直後、絶句した。心臓をどっと蹴り上げられたかのような衝撃に立ち竦み、数瞬扉を閉めることさえ忘れてしまう。
背中に嫌な汗が滲むのを感じた。
何故なら部屋を出た先には、ギゼル、ラドニア、エレノア以外のもうひとり──さっきまで宮にはいなかったはずの、フリーダの姿があったから。
「ふ……フリーダ……」
なんでおまえがここにいるんだという言葉が喉から出かかって、しかし寸前で口を噤む。待て。それじゃいかにも俺がフリーダを歓迎してないみたいじゃないか?
けれどジュンコを襲った相手の正体と目的が不明な現状、こいつの不興を買うのは得策じゃない。何せフリーダは目下、最も疑わしい人物のひとりなのだから。
「リュージ、ジュンコの容態は?」
ところがギゼルと何か話し込んでいたらしいフリーダがこちらに気づき、口を開くよりも早く声をかけてきたのはラドニアだった。
おかげで俺もようやく我に返り、慌てて背後の扉を閉める。
中の様子は……たぶん誰にも覗かれなかったはずだ。
「あ、ああ……ちょっと話したら眠っちまった。今はイヴが傍にいる」
「そう……処方した薬が効いていればよいのだけど。具体的な毒の症状について、彼女は何か話してた?」
「あー、そうだな……少し寒がってたみたいだから布団を増やして、暖炉にも火を入れてやった方がいいかもしれん。あと、どうも人の声が頭に響いてしんどいらしくて……しばらくひとりで休ませてほしいと頼まれた」
「ひとりで? だけど彼女は命に関わる毒を受けているのよ。容態が安定するまではつきっきりで看護しないと……」
「う、うむ……やっぱそうだよな。ならあいつのことは俺が傍で看とくから……」
「だが貴様には園の管理責任者としての仕事があるだろう、リュージ。何より病人の看護は医者に任せるのが最も確実で安全だ。そうだろう、クリソプル?」
が、そこでラドニアとの会話に割り込んできた声があり、俺は図らずも体を強張らせた。声の主は言わずもがなフリーダだ。
くそ……こいつの恵まれすぎたガタイを前にすると、決して狭くはないはずの廊下が逃げ場のない袋小路に見える。実際、腰に手を当てて仁王立ちされるとマジで肉の壁だ。完全に行く手を塞がれて、どこにも逃げようがない。
「……ええ、そうね。まさかあなたと意見の一致を見る日が来るとは思わなかったわ、団長さん」
「ふん。私とて正式な医師免許を持たぬ貴様を医者と認めるのは癪だがな。しかし貴様のおかげで、これまで何人もの犯罪者が一命を取り留めたことは事実だ。その実績は称讃に値する」
「あら、それはお褒めに与りどうも」
「あー、えっと、フリーダ? お、おまえがここにいるってことは、さっきジュンコを襲った犯人について何か分かったのか?」
けれども途端にラドニアとフリーダがギスギスし始めてくれたおかげで、仲裁を装いながら何とか自然に話を逸らせた。ラドニアは竜を狩ったことがないギゼルのことは許したみたいだが、狩猟団の団長として何匹も竜を殺してるフリーダとは、顔を会わせるたびにバチバチなんだよな。というかそもそもこいつらの源素組成的に、木素系と金素系で元から相性最悪なのかも……。
「いや、残念ながら犯人についてはまだ何も分かっていない。宮中の警備は皇属近衛騎士団の管轄だからな。今は彼らの捜査に期待するしかないだろう」
「そ、そうか……」
「しかし、リュージ。ギゼルの話ではあのジュンコとかいう少女が狙われた理由について、貴様は何か知っている様子だというではないか。陛下のおわす皇宮に曲者が現れた以上、私としてもこの状況を看過するわけにはいかん。何か情報を掴んでいるのなら大人しく話せ」
ぐっ……やっぱそう来るか。ジュンコの看護をどうするかって話から一旦皆の気を逸らせればと思ったんだが、振った話題が悪かったな……。
いや、それ以前に動転してギゼルの前で余計なことを口走ったのがまずかった。
あんな発言をしたあとじゃ、ジュンコについて何かしらの秘密を握っているのではと勘繰られて当然だ。けど俺がジュンコの正体を知りながら、今の今まで黙ってたなんてことが知れたらどうなる?
これは考えられる中で最悪の想定の話だが──もしもフリーダがジュンコの正体を知ったフーヴェルオから密命を受けて、人類の脅威となり得る古代竜の一角を崩そうとしているのなら。
そうなりゃジュンコを匿った俺もきっとタダでは済まないはずだ。
よくて投獄、悪くて打ち首獄門。
とすればここはやはり、意地でもハッタリを通すしかない。
いつかこうなる可能性も考えて、言い訳は事前にジュンコと考えた。
あとはそこに多少のアドリブを加えて、何とかフリーダの追及を逃れるだけ。
……大丈夫だ。俺ならできる。
というかできなきゃ死ぬ。そう思って挑むしかない。ゆえに俺はため息に見せかけた深呼吸ののち覚悟を決めて、一世一代の舞台の幕を上げた。
「いや……悪いが情報と呼べるような情報はないんだ。ただいずれこうなるかもしれないって予感はあった。それでもジュンコを皇宮に連れ込めば、さすがに安全だろうと思ってたんだが……どうやら読みが甘かったみたいだな」
「……どういう意味だ?」
「実は……不確実な情報だから、ジュンコの記憶が戻るまで黙っとくつもりだったんだが……先月、母大樹の森で初めてジュンコと会ったときに、な。あいつが言ってたんだよ。森に来る前の記憶はないが、自分は何かに追われてあの森に逃げ込んだ気がするってな」
「まさか……ジュンコは以前から誰かに狙われていたということ?」
と俺の証言を聞いて真っ先に顔色を変えたのは、意外なことにラドニアだった。
どうやらこいつは頭の回転が早い分、まんまと俺のホラ話を信じたらしい。
ああ、すまねえ、ラドニア。
おまえまで騙さなきゃならんのは、正直胸が痛いんだが……。
けどこれもジュンコを守るためなんだ、許してくれ。
内心そう懺悔しながら、俺は明らかに不審顔をしているフリーダから視線をはずし、自然な流れでラドニアへと向き直った。
「いや、もちろん確証はない。ジュンコの記憶はあのとおりあやふやだし、何かに追われてたって話も相手が人間とは限らないからな。ただそのせいで、ジュンコは森の外に出ることを怖がってて……だけど母大樹の森の氣は体に障るっておまえらが言ってただろ? だからずっとあそこに居させるわけにもいかないと思って、言いくるめて連れ出したんだよ。俺たちと一緒に来れば、皇属竜狩猟団っていうつよーいお姉さんたちが守ってくれるから大丈夫だってな」
と言いながらちらと一瞥を投げかければ、途端にフリーダの眉間が不穏な皺を刻むのが見えた。が、それが真実をはぐらかされたと知ってのものか、はたまた俺の言いざまが気に食わなかったがゆえのものかは、角を持たない俺には分からない。
「……なるほど。つまり貴様は、あの少女の正体は知らないが、森で発見される前から何者かに狙われていた可能性がある、と言いたいわけだな?」
「ああ、あくまで可能性の話だけどな。宮に来てからも、ジュンコはときどき何かに襲われる夢を見ると言って怯えてたし……」
「だが、だとしたら何故ギゼルを疑った? 貴様は先刻、ギゼルが襲撃を予期しながら黙っていたのではないかと言って詰め寄ったそうではないか」
「ああ、あれは……マジで悪かったと思ってるよ。俺の勝手な妄想というか、思い込みで疑っちまって……」
「思い込みだと?」
「いや、だって、ほら……こんなこと言うと、おまえはブチギレるかもしんないけど……」
「なんだ。構わん、言ってみろ」
「あー、その……つまり、さ……ジュンコの髪って赤いだろ? でもって先月陛下に呼び出されたときに、何故かジュンコも一緒に連れてくるようにと言われたもんだから、もしかして……とひそかに妄想が膨らんだというか何というか……な?」
と、俺が目を逸らしつつ思わせぶりな言い方をすれば、視界の端でフリーダがたちまち血相を変えるのが分かった。
ああ、どうやら俺の言わんとするところは伝わったらしい。まあ、要するにアレだ。俺はジュンコの赤い髪を見て、同じ赤髪を持つフーヴェルオの隠し子だったりするんじゃないかと疑った。今のは言外にそう言ったのだった。
我ながら苦しい言い訳だとは思うが、それならジュンコが命を狙われる理由にもギゼルがその事実を隠してると思い込んだ理由にも一応説明がつくし、な?
何よりこんな仮説を出されれば、フリーダはまず間違いなく、
「き、貴様……一度ならず二度までも、偉大なるフーヴェルオ三世陛下を侮辱する気か!? 帝国の父たる陛下に限って、さような事実があるわけなかろう!」
──まあ、うん。こうなるよな。
陛下想いのフリーダにゃ悪いが、こうなっちまえばこっちのもんだ。
その忠誠心を逆手に取って、怒りで我を忘れてもらおう。
そうすりゃこのまま話をうやむやにできそうだしな?
「い、いや、悪い、だから俺の勝手な妄想だって言ったろ? ほ、ほら、高貴な血筋にお家騒動はつきものだし……」
「だからと言ってよくもさように下世話な憶測を……! ここが陛下の御前であったなら、間違いなく素っ首刎ね飛ばしているところだぞ!」
「じ、じゃあ逆に訊くが、ジュンコがいきなり襲われた理由について他に説明がつくのかよ!? 現皇帝のご落胤じゃないにしても、たとえば先帝の、とか……」
「まあ……どちらかと言えばそっちの方が可能性としてはあり得そうよね。何しろ現皇帝は……」
「クリソプル! 貴様も不敬罪で首を飛ばされたくなければ黙っていろ!」
「はいはい。仰せのままに」
お、おい、ラドニア……おまえよくあの剣幕のフリーダをさらに煽り倒せるな? と思わず戦慄したくなるほど涼しい顔で、ラドニアは肩を竦めてみせた。
いや、けど今、こいつは何を言いかけたんだ? 現帝と先帝なら後者の方が隠し子を作ってそう、って……当然何か根拠があるからそう言ったんだよな?
確かメアレスト帝国の国教であるソフィア聖教には、キリスト教と同じ厳格な一夫一婦制の教えがあると聞いたが、先帝は狂人レベルの暴君だったというし……。
とすると有り難い宗教の教えなぞまるっと無視して享楽に耽ってた、とか?
ま……まさかフーヴェルオもそれで生まれた庶子だとか言わないだろうな?
だとしたら今、想定以上にとんでもない地雷を踏み抜いたぞ、俺。
「──ブルグント卿!」
ところが俺が今度こそ死を覚悟して顔面蒼白になっていると突然、宮内に聞き慣れない男の声が響き渡った。まったく予期していなかった出来事に俺たちは一瞬、目を丸くして顔を見合わせる。
「ブルグント卿、こちらにいらっしゃいませんか!」
……こりゃ一体誰の声だ?
耳を澄ませても呼び声の主は皆目見当がつかなかったが、少なくとも声は一階から聞こえていた。しかもどうやらギゼルを探している。
自分が呼ばれていると知ったギゼルはフリーダと目だけでやりとりしたのち、すぐに身を翻した。そうして一階の玄関ホールが見渡せる廊下の吹き抜けまで行き、そこから身を乗り出して下階の様子を確認する。
「私ならここだ。貴卿は……近衛騎士団の者か?」
「はっ。本日総門警固の任を受け持っておる者です。お騒がせして申し訳ない。実は先刻、貴家の家人より言伝を預かりましたゆえ、お伝えに参りました」
「当家の者から……? これはかたじけない。して、家の者は何と?」
「はっ。何でもお屋敷にご滞在中のテリサ・アリスター博士が、客人を連れて戻られまして──今すぐ卿へお取り次ぎ願いたいと、急ぎ承ったそうです」




