トゥルース・イン・ザ・ミラー
恐らく今の自分は二十六年間の人生の中でも一、二を争うほどの間抜け面をしているのだろうな、とヘスペルは思った。
帝都メアレストの昼下がり。既に真昼の書き入れどきを過ぎ、客足が減って閑散とした大衆食堂のテラス席で、ヘスペルはただただぽかんとテリサを眺めている。
──わたしの研究所で、魔獣研究のお手伝いをしていただけませんか?
その間にも漂白された頭の中では、直前に投げかけられたテリサの言葉が繰り返し響き渡っていた。彼女の勧誘は言うまでもなく、ヘスペルが働き口を見つけられていないことを知った上で差し伸べられた救いの手だ。
そうでなければ傭兵以外の職業にはとんと就いたことのない、しかも傭兵すら満足にこなせなかった男なんかを、まったく畑違いの場所に誘うわけがない。
そもそも彼女は竜の園でヘスペルが晒した醜態について、リュージたちから既に聞かされているはずだ。
だというのに、なおもこんな自分を掬い上げようとしてくれるなんて。
「あ……アリスター博士……」
「あっ……す、すみません、やっぱりわたしの手伝いなんてお嫌でしたか……!? も、もしそうなら、本当に断っていただいて構いませんので……! ほ、ほら、前にもお話したとおり、わたしったらドジだしそそっかしいし根暗だしよく転ぶし遭難するし地味でぺったんこで年齢詐称も甚だしい年増なので……」
「い、いや……誰もそこまでは言ってませんよ?」
「で、ですがわたしと一緒にいるとろくなことがないと言って、何度人を雇ってもすぐに辞めていってしまうのは事実ですから……だとしたらやはり、まずはヘスペルさんのご意向を第一に尊重すべきかと……」
「……アリスター博士は」
「はい?」
「アリスター博士は、もうずっとひとりで研究を続けてると言ってましたけど……ときどき、嫌になったりはしませんか。自分はこんなに頑張ってるのに、他人の勝手な都合や思い込みでどうこう言われて、馬鹿にされたり、怒鳴られたり、仲間はずれにされたりするのが……」
そのとき、すっかり空になった食器の山を見下ろして尋ねたヘスペルを、テーブルの下に伏せた猟犬が鼻を鳴らして見上げる気配があった。
けれどもヘスペルには勇気がない。
テリサはもちろんシリウスの瞳さえ、まっすぐに見つめ返す勇気が。
「えっと……そうですね。そういう経験をして落ち込んだことはあるかと言われたら、もちろんありますよ、わたしにも」
ところが刹那、向かいの席から返ってきた答えに、膝の上に置かれたヘスペルの拳がわずか震えた。
「ヘスペルさんも既にご存知かもしれませんが……わたしは百万人に一人の割合でしか症例のない闇化淹滞症という奇病を患っています。自分が淹滞症患者だと知ったのは二十歳を過ぎた頃でしたので、それまでは普通の人と何ら変わりのない生活を送っていたのですけど……」
「えっと……一応、知ってます。普通、体を作っている源素は時間と共に闇化するけど、闇化淹滞症の人は闇化の進む速度がとてもゆっくりなんですよね……?」
「はい、おっしゃるとおりです。おかげでわたしも最初は人に比べて体の成長が遅いなあとか、童顔だなあとか、そんな風にしか思っていませんでした。ですがさすがに二十歳を過ぎると、いくら何でもおかしいんじゃないかと思い始めて……わたしの実家はそこそこ大きな商家で、幸いお金には困っていなかったので、心配した父が方々手を尽くして原因を探ってくれたんですよ。そしてこの異変が、闇化淹滞症と呼ばれる病によるものだということを知ったんです」
立ち襟ブラウスの胸に手を当ててそう話すテリサの様子を、ヘスペルは陰気な前髪の裏からちらと盗み見た。未だに原因も治療法も分からない奇病を患う彼女には彼女なりの苦労があったのだろうから、こんなことは口が裂けても言えないが、金持ちで優しい父親のいる家庭に生まれたなんて羨ましいご身分だな、と思う。
少なくとも自分とは生まれがまったくの正反対だ。
やはり世界には持てる者と持たざる者がいて、人の境遇というものは、生まれた瞬間にある程度決まってしまうものなのかもしれない。
だとしたら黒眼人の自分はいくら足掻いたところで、永遠に持たざる者だ。
薄笑いに似た自嘲と共に胸裏でそう吐き捨てたヘスペルの諦念はしかし、次に聞こえたテリサの言葉によって吹き散らされた。
「わたしの成長が遅いのは病気のせいだと分かって……最初のうちは誰もが同情的に接してくれました。でも、真っ先に態度が豹変したのは母で……母は娘がいつまでも老いることなく、若い姿のままでいることを受け入れられなかったようなんです。やがて母はわたしを存在しないもののように扱い始めて……あの徹底した態度はときどき、本当にわたしの姿が見えていないんじゃないかと思うほどでしたね」
「えっ……」
テリサは苦笑しながらそう話してみせたものの、予想外の告白にヘスペルは意表を衝かれた。娘を完全に無視するなんて、実の母子なのに? と思わず尋ねそうになり、されどすんでのところで思い留まる。何故なら他でもない自分もまた、血のつながった母親に存在を否定された息子であることを思い出したからだ。
けれどもテリサの場合は、病気が発覚するまでは何不自由ない普通の親子だったはずなのに。そう思うと図らずもヘスペルの胸はズキリと痛んだ。彼女の母親はどんどん老いさらばえていく自分の傍らで、血を分けた娘が永遠の若さをほしいままにしていることが許せなかったのだろうか。同じ〝女〟という生き物として。
「以来両親の間では喧嘩が絶えなくなって……おまけに当時他家から持ちかけられていた縁談も〝病人を引き取ることはできない〟と言われて破談になり、家の中はもうしっちゃかめっちゃかでした。屋敷の使用人や奴隷たちにも、かなり口さがない噂を立てられましたし……」
「ど……奴隷はともかく使用人まで、ですか」
「ええ。わたしの両親は、使用人にとってはお世辞にも〝よき主人〟とは言い難い人たちでしたから、今にして思えば身から出た錆だったのでしょうけど……一方で何も知らない友人からは〝一生老けないでいられるなんてずるい〟なんて言われたりもして、正直とても傷つきました。もちろん彼女たちに悪気がなかったことは理解していたのですが……怖かったんです。彼女たちも心の中では母のようにわたしを妬んだり、蔑んだりしているのではないかと……」
「……」
「とまあそういう経緯があって、今の引きこもりがちなわたしが生まれたわけですね。もっとも当時は本当に部屋に引きこもって誰にも会わない日々を過ごしていましたから、こう見えてだいぶ社交的になった方だと自負しているのですが」
「は……博士にも、そんな時期があったんですね……」
「ええ。そして、あの頃たくさん傷ついたおかげで今のわたしがいます。つらくなかったと言えば嘘になりますが……今ではこれでよかったのだと思っていますよ」
瞬間、テリサの唇から零れた言葉を聞いてヘスペルは目を丸くした。
向かいで微笑むテリサの笑顔に嘘や誤魔化しの翳りはない。
でも、どうして。
何の罪もないはずなのに、彼女はたくさんの人から石を投げられた。
なのに一体どうして、今も穏やかに微笑っていられるのだろう?
「博士は……強いんですね。僕が博士の立場だったら立ち直れる気がしませんよ」
「いえ、すべてはこの子たちのおかげですよ。彼らとの出会いが変えてくれたんです。人間不信で泣き虫で、ずっと消えてしまいたいと思っていたわたしを」
そう言ってテリサが目を向けたのは、足もとで腹這いになったシリウスだった。
相変わらずテーブルの下で大人しく伏せ、無邪気に舌を出しているシリウスは、テリサの視線に気がつくや首を傾げてワンッと鳴く。かと思えば差し伸べられたテリサの手を見て立ち上がり、掌をくんくんと嗅ぎ始めた。そんなシリウスのやわらかな風色の毛皮を、テリサの両手が愛おしそうに撫で回す。
するとシリウスも嬉しそうに目を細めて、ふさふさの尻尾を大きく振った。
けれどもヘスペルには信じられない。たったそれだけの仕草で温かな人柄を物語る彼女が、かつては自分と同じように〝消えてしまいたい〟と望んでいたなんて。
「魔獣が……博士を、変えた……?」
「はい。何しろ魔獣は、人種や貴賤で人を差別しませんから。彼らが人を見るときの基準はいつだって自然界のルールに則っている。わたしたちがそのルールに逆らいさえしなければ、彼らはどんな人間でも受け入れてくれるんです」
「……どんな人間でも?」
「ええ。生き物というのは鏡ですから。こちらが愛情や敬意を持って接すれば、彼らは必ず応えてくれるし裏切らない。人間のように物事を複雑に思考しない分、とても純粋なんですよ。あ、もちろん知能が低いという意味ではなくて、喜怒哀楽や世の中の捉え方がとてもシンプルだ、という意味で」
──生き物は、鏡。そう言えばリュージも同じことを言っていた。
襟巻竜のカールがいつまでもなつかなかったのは、ヘスペルが敵意を抱いて接していたからで、だからカールも鏡のように敵意を返してきたのだと。
あの言葉は確かに図星だった。
何しろ竜という生き物は、ほんの数年前まで人類の敵だったのだ。
世界中で何人もの人間が彼らに襲われ、喰われ、故郷を奪われた。
もちろんその何倍、あるいは何十倍もの数の竜を人類が殺戮したことは分かっている。けれどそれでも恐ろしいものは恐ろしかったし、同時に如何な心を開こうとしないカールへの苛立ちや憎しみも日を増すごとに募っていった。
おまえも僕を拒絶するのか、と。
されど今、目の前で触れ合うテリサとシリウスを見ていて思う。
たぶんリュージは正しかった。
カールはヘスペルが投げつけた感情を掴んで投げ返していただけだ。恐れには恐れを、怒りには怒りを、悲しみには悲しみを、まるでまったくの鏡写しに。
「……だけど、ブルーは」
「え?」
「ブルーは、三年も一緒にいながら……結局僕には最後までなついてくれなかったんですよ。僕だって、せめてブルーとは仲良くなりたかったのに……」
「あら、本当にそうですか?」
「……どういう意味です?」
「ヘスペルさん。竜という生き物は縄張り意識や所有欲がとても強いと言われています。そんな中で本来の縄張りを離れ、クリソプルさんと旅をしていたブルーは異例中の異例とも言えますが、わたしはこう思うんですよ。ブルーにとって守るべき縄張りとは、クリソプルさんを中心とした一定の領域だったのではないかと」
「ラドニアさんを中心とした……?」
「ええ。生き物が自己の縄張りを主張したがるのは、身の安全や安定した餌場の確保のためです。テリトリーの中にあるものは、餌も繁殖相手もすべて自分のもの。だから侵入してくる者には容赦しない。彼らにとって縄張りを荒らされるのは、生死に直結する深刻な問題ですからね」
「なら、ブルーは……自分の縄張りに居座る僕を追い払おうとしていたってことですか? 野生の本能で?」
「いいえ。逆ですよ、ヘスペルさん。ブルーは見た目こそ小さくてかわいらしいですが、それでも歴とした竜です。とすれば本来なら自らの所有物──すなわちクリソプルさんの所有権を脅かす他の生き物が自らの縄張りに存在することを許すはずがない。ですがブルーは最後まであなたを排除しなかった。有翼類の彼女なら、たった一度噛みつくだけですべてを解決できたのに」
という、まったく予想だにしていなかったテリサの仮説に、ヘスペルは呆気に取られた。彼女の推論を正とするならば、自分はブルーに生かされて──彼女の縄張りに存在することを許されていた、というのだろうか? だとしたら、ブルーは。
確かに彼女は時折噛みつくような素振りを見せることはあっても、本当に噛みついてきたことは一度もなかった。
とすればあれはあくまで〝ラドニアを取るな〟という警告であって、本当にヘスペルを遠ざけるつもりはなかったということだろうか。ラドニアは自分のものだと主張しつつも、どこかでヘスペルを受け入れてくれていたのだろうか。
「あ……」
とそこでようやく気がついた。生き物は鏡だ。リュージもテリサもそう言った。
だとしたら〝ラドニアを取るな〟というその思いは、翻って自分の思いではなかったか。いや、今更誤魔化してもしょうがない。認めよう。
そうだ。ヘスペルはどこかでブルーに嫉妬していた。自分の方が彼女よりも早くラドニアと出会い、共に旅してきたのだという自負があったから。
けれどもしかしたら同じように、ブルーも嫉妬していたのだろうか。
どんなに役立たずでも、ラドニアの傍にいることを許されていたヘスペルに。
「は……はは……」
そう思ったら、思わず乾いた笑いが漏れた。そうか。そうだったのか。
だとしたらテリサの言うとおり、答えはとても簡単だ。
自分もブルーも、ラドニアのことが大好きだった。ただそれだけのことだった。
そして、だからこそブルーはヘスペルを煙たがりながらも同時に許した。
何故なら他ならぬラドニアが、傍にいてもいい、と言ってくれたから。
そう考えるとすべてがすとんと腑に落ちて、入れ違いに熱いものが込み上げてきた。されどテリサに覚られたくない一心で、すぐに目もとを拭ってしまう。
──こんなときまで強がって、本当に馬鹿だな、僕は。
同時に微かな自嘲が口の端に浮かんだ。どんなに格好つけてみせたって、グズで弱虫で逃げてばかりの自分がいなくなるわけじゃないのに。
──僕が本当にやるべきことは、そんなことじゃなかったんだ。
僕が本当にやるべきことは……。
「……アリスター博士」
「はい?」
「さっきのお話ですけど……こんな僕でも、博士のお手伝いは務まりますか?」
結局顔は上げられなかったけれど、ヘスペルはなけなしの勇気を振り絞ってそう尋ねた。自分はもうラドニアの傍へは戻れない。しかしテリサの手伝いをすることで間接的にでも彼女を助けられるなら、そうすべきだと思った。
いや、そうしたい。
ラドニアとブルーが当たり前に一緒に暮らせる世界をつくるために。
「ヘスペルさん」
されど直後、テリサが嬉しそうに笑って告げた言葉にヘスペルは目を見開いた。
「お気持ちありがとうございます。ですがひとつ、お伝えしておきたいことが」
「……何ですか?」
「実はわたしがヘスペルさんを探していたのは、もしもあなたが路頭に迷っていたら助けてあげてほしいとある人に頼まれたからなんです。ついでに彼から伝言を預かっておりまして」
「〝彼〟……?」
「はい。彼──リュージさんはこうおっしゃってました。もしもヘスペルさんが、一生奴隷のままでもいいから竜の園に戻りたいと願うなら、そのときは自分ももう一度、ヘスペルさんを信じてみる、と」




