わしじゃよpart2
聞いたところによると、アゴログンドの暦は一年が十一ヶ月で、今はフィリポの月に当たる。フィリポの月というのは一年の最初の月から数えると五番目の月だから、日本人にも馴染みのある言い方をするならば〝五月〟だ。
そして帝都メアレストは、広大なオルンダルゴ大陸の南部に位置し、日本に似てはっきりと四季があるらしい。
とすると俺がアゴログンドに生まれたのは春真っ盛りのことで、今は初夏だ。
帝都の気候からして恐らく南半球に浮かんでいると思しい大陸で、暦の上の季節は地球の北半球と同じというのは、地球人の俺からすると正直かなり気持ち悪いんだけどな。
「か……変わってない、な……いや、あのときより、ちょっと、葉っぱが濃くなった、か……?」
と、俺は新緑の季節を迎えた森の主──母大樹を仰ぎ見る。
いや、この森に限っては〝新緑〟という形容はふさわしくなく、木々は依然晩秋のごとく燃えているわけだが、しかし以前よりさらに強い生命力を感じさせる偉容の母大樹は、今日も堂々とそこにあった。
……ったく、何だよ、ギゼルのやつめ。人間は氣の影響で母大樹には近づけないとか何とか言ってたが、やっぱり何度でも来れるじゃねえか。
まあ、今回はイヴに導かれて来たわけだから、俺ひとりでも再びここへ来られたかと言われると返答に窮するが。というかイヴはそもそもなんでこの場所へ──
「……!」
と疑問を抱いたところで我に返った。
そうだ。俺、今、肉食獣に追われてるんだった! 再び母大樹のもとへ辿り着けてしまったことに気を取られて、数瞬のあいだ完全に状況を失念していた。
が、これほど無防備な背中を晒したというのに、振り向けば互いの鼻先が触れる距離まで迫っていたはずのケルベロスが襲ってくる気配はない。
「……?」
なんで俺たちは無事なんだ? 次にそんな疑問を抱いた俺は鞴のように息をしながら、たったいま自分が飛び出してきた茂みの向こうを顧みた。
するとどうしたことだろう。視線の先では恨めしげにこちらを見やったケルベロスが、三つの頭を低くして「キューン……」と尻尾を垂れている。あの巨体に備わる強靭な筋肉をもってすれば、ひとっ跳びで俺の頭にかぶりつける距離だというのに、まるで見えざる壁に阻まれているかのごとく茂みから先へは出てこない。
母大樹の葉の下に生まれた広場と森の境界。そこをしばしうろうろとさまよったのち、ケルベロスは諦めたように背を向けて去っていった。な……何が起きたのかはさっぱり分からんが、とりあえず俺たちは助かった、のか……?
「はああああああ……今度こそマジで死ぬかと思った……」
やがてケルベロスの背中が完全に見えなくなると否応なく全身の力が抜けて、俺はへなへなと座り込んだ。地味に重かったフレディ入りの瓶を地面に置き、天を仰ぐと、ようやく満足に息が吸える。
ああ、俺、生きてるな。肉体が若返っててよかった。仮に五十六歳の俺のままアゴログンドに来ていたら、今のは絶対に逃げ切れなかっただろう。
しかし俺がぜえぜえ息切れしながら見やった先で、一緒に全力疾走してきたはずのイヴはけろっとしている。呼吸ひとつ乱れていないどころか汗もかいてない。
お、おまえ……レクスを看取った直後からまた喋らなくなったと思ったら、今度はそういう謎を増やすわけ……? こいつはほんとに一体何なんだ?
俺をここへ連れてきたのもたぶん、母大樹の傍ならケルベロスが寄ってこれないと本能で分かってたからだよな……?
「おい、イヴ……」
まあ、とは言えまたこいつに助けられたことは事実だ。ゆえにひとまず礼を言おうと思ったら、直前まで俺の右手を握っていたイヴの左手がするりと逃げた。
あ、と間抜けな声と共に目をやれば、イヴは既にこちらを向いていない。
透度の高い水宝玉みたいな両目がじっと見つめているのは、卵時代の俺を抱いていた母なる大樹だ。
「い、イヴ、待て……!」
と俺が呼び止めるのも聞かず、ほどなくイヴはすたすたと大樹に向かって歩き始めた。こ……こっちはまだ呼吸も整ってないってのに、あの半竜娘は!
かと言ってこのまま単独行動させるわけにもいかず、汗だくの俺は近くに落ちていたいい感じの枝を杖代わりに手繰り寄せ、よろよろと立ち上がった。
そうしてイヴを追う足取りはさながらゾンビのごとしだったが、実際疲れすぎて死にそうなのでしょうがない。頼むからもう少し休ませてくれよ……と内心泣き言を零しつつ、しかし何とかイヴに追いついた俺は直後、絶句した。
「え」
辛うじて絞り出せた声は一音だけ。何故なら呆然と立ち尽くした俺の視線の先で母大樹の根もとにしゃがみ込んだイヴが、指先で何かつんつんとつついている。
言わずもがな、それは卵だ。
見間違えるはずもない。俺がアゴログンドに転生した日、傍らにぽつんと転がっていた、赤くて化石じみた見た目の……。
「い……いや、けど、なんで──卵がデカくなってんだ……!?」
そう。そいつは見た目こそあの日見た卵のままだったが、俺の記憶の中にある姿とはあまりにもサイズが違いすぎた。
確か隣で俺が生まれたときは、ダチョウの卵くらいの大きさだったのに。
そいつが今や、母大樹の根もとの洞の入り口を塞ぐほどのサイズになっている。
こんなデカい卵は地球では見たことがない。
博物館で見た恐竜の卵の化石でさえもう少し小さかった。
しかも、卵が卵のまま成長するなんて話は古今東西聞いたことがない。
だって卵だぞ? 卵はあくまで卵であって生き物ではなく、当然外部からエネルギーを摂取する手段もないわけだから、デカくなるわけがないよな?
「……ん? 待てよ? エネルギー……?」
と、そこであるひとつの仮説に至った俺はふらふらとあとずさり、改めて母大樹を見上げてみた。そういや前にラドニアが、母大樹は大地の氣が噴出する噴火口の上に立ち、そのエネルギーを浴びることによってここまでのデカさになる、みたいなことを言ってたっけ。ということはもしや、この卵も……?
「リュージ」
いや、けど仮にそうだとするならば、アゴログンドには確かに〝氣〟と呼ばれる未知のパワーがあって、そいつが生態系にかなりの影響を及ぼしてるってことになるよな。アゴログンド人はそれを魂の持つ力、すなわちスピリチュアルな意味での生命力という風に定義しているみたいだが……と俺がひとりで悶々と考え込んでいると、不意にイヴがこちらを向いて俺を呼んだ。何だと思い我に返れば、母大樹の根もとにしゃがみ込んだままのイヴが指先でまたも卵をつつく。
……いや、違う。あれはつついてるんじゃない。
もしや俺に〝もっとよく見ろ〟と促している……?
ようやく息も整った俺は、試しにイヴの隣にしゃがみ込み、巨大化した卵を観察した。うーん、やっぱり殻は鳥の卵と同じ石灰質。
ところどころ岩みたいなのがへばりついてるのは気になるものの、アリスター魔獣研究所で見たブルーの卵も触れると鶏卵のような質感だった。
ってことはやっぱりこいつも竜の卵、なのか……?
「そういやあのチビ助は……さすがにもういないか」
ついでに覗き込んだ洞の奥には、なつかしき我が卵の残骸が転がっているだけだった。あの日、狩猟団に射られたチビ助はもういない。
死骸などの痕跡も残っていないところを見ると、あれから自力で這い出して、生きるために旅立っていったのだろうと思いたかった。いや、けどラドニアの話だと確か野生の竜の亡骸は、何故か跡形もなく消えることが多いんだよな……?
「パキッ」
「……ん?」
などと、不吉な予感に身を震わせていたときだった。突然耳もとで何かが罅割れるような音がして、俺は洞を覗き込んでいた顔を上げる。そして気づいた。
今、俺のすぐ傍らにある巨大な卵。
なんとその表面に小さな罅が入っているではないか。
「お……おぉおおぉおぉっ!?」
予想もしていなかった事態にテンパるあまり、自分でもよく分からない奇声を上げてしまった。けど、だって、卵が!
目の前で今まさに、謎の卵が孵ろうとしている……!
「おっ、おおおおおいっ、イヴ! 生まれる、生まれるぞ! どうすりゃいい!?」
「?」
「いや〝?〟じゃなくて! おまえがここに連れてきたんだろ!? ていうかこれがもし竜の卵なら、俺たちここにいてもいいのか!? だってほら、刷り込みとか! アゴログンドの竜も鳥みたいに、卵を出て最初に見たものを親だと思い込む習性があったりしたら一大事だぞ……!?」
と俺は全力で訴えたものの、イヴは相変わらずきょとんとするばかりで、まるでお話にならなかった。さっきまでは卵に興味津々だったのに何でだよ!?
はっ……い、いや、待て。あるいはイヴは敢えて無関心を装うことで、俺に〝冷静になれ〟と言っているのかもしれない。
そ、そうだよな……何しろこれが竜の卵で、なおかつ竜にも刷り込みの習性があるとしたら、俺は今から生まれてくる子の父親になる。だったらここは威厳ある父親らしく、落ち着いてどっしり構えておかないと……じゃなくて、問題なのは人間が野生の竜の親になってもいいのかって話だよな!? 全然冷静じゃないぞ、俺!
「やかましいのう」
ところがひとり頭を抱えてうろたえまくる俺の耳に、刹那、少女の声が飛び込んできた。「……え?」と驚いてイヴを見やるも、彼女は依然しゃがみ込んだままぱちぱちと瞬きをしている。まるで言葉を使わずに「自分じゃないよ」と訴えているかのようだ。けど、じゃあ、今の声は?
俺の思考がそんな疑問で埋め尽くされた、直後。
ほんの少し罅が入りつつあった卵がビキビキと盛大な音を立て、稲妻のような亀裂を生んだ。そうして唖然とする俺たちの眼前で、ついに巨大な殻が、割れる。
「ぷはあっ!」
やがて卵の内側から、赤い口が飛び出すと同時に声が弾けた。
間違いない。さっき俺の耳が拾ったのと同じ、幼気な少女の声だ。
その声と共に殻を破って現れたのは、赤い竜。
ああ、やっぱり竜だ。竜の卵だったんだ。力強く殻を破り、這い出してきた幼竜の大きさは生まれたてだというのに柴犬の成犬ほどもある。おまけにこいつは有翼類だ。事実、背中にはまだしわしわの小さな翼がたたまれて──
「はあ~、ようやっと外に出られたわ! しかし予定よりもだいぶ時間がかかってしもうたのう……」
「……え?」
「〝え?〟ではない。まったくおんしは変わらんのう。せっかくの感動の再会じゃというのに、気のきいた言葉ひとつないのかえ? のう、竜司?」
瞬間、俺は学んだ。
人間というのは本気で驚くと茫然自失して、完全に思考が停止するらしい。
おかげで俺は何の言葉も発することができず、頭の中が真っ白のまま固まった。
するとそんな俺の肉体から抜けかけた魂を呼び戻すかのように、赤竜がぱしん!と尻尾を振る。その一撃が用済みとなった卵の殻を粉砕するのを見て、俺はようやく我に返った。そして悟る。ああ、間違いない。あの尻尾のキレには見覚えがあるぞ。前世でもケージの中でよくああやって、敷き砂を撒き散らしていた──
「お……お、お、おい、おまえ……見た目も声も全然違うけど、まさか……」
「ふふん、ようやく察しがついたようじゃの。そう、まさしくそのまさか──わしじゃよ、竜司。おんしが前世で〝ジュンコ〟と名づけた、九木山の火蜥蜴じゃ」




