珍獣が言うことには
クリソプルの腕の中から羽毛竜が飛び出してきた瞬間、あれほど勇敢だったはずの猟犬が明らかに怯んだ。
威嚇するブルーを見た途端、狭い路地に響いていたうなり声は止み、シリウスは尻尾を巻いてあとずさる。首を引っ込め、たじたじになっているさまはどう見ても怯えている証拠だ。ボーダーコリーほどの体格を誇るシリウスに比べれば、ブルーは一般的なノウサギくらいの大きさしかないというのに。
「おい、クリソプル。そいつはあんたの竜か」
ゆえに俺は、そんなシリウスをかばうように前に立ち、こちらを睨むブルーから目を逸らさずに口を開いた。これが野生動物との遭遇ならば、威嚇されていると分かった時点で目を逸らし、ゆっくりとあとずさって離れるのが正解だ。
けれども今回は例外。
ブルーは恐らく仲間を天敵から守ろうとしていて、極度の興奮状態にある。とすれば目を逸らした瞬間、隙ありと言わんばかりに飛びかかってくるかもしれない。
眉間に皺を寄せてうなるブルーの声は『風の谷のナウシカ』に登場するキツネリスの威嚇の声にそっくりだった。が、今はナウシカのように自ら指を噛ませて「ほらね、怖くない」なんてやってる場合じゃない。
あの竜はどう見ても何らかの病気を患っているし、竜毒以外にも狂犬病やエキノコックスといった感染症を媒介する可能性があるからだ。
「そ……その子には手を出さないで! あなたたちの目的は罪人でしょう!?」
「ああ、そうだ。俺たちはあんたと話がしたくて追ってきた。だが、どうやら今はそれどころじゃなさそうだな。あんたがアリスター博士宛の手紙に書いて寄越した〝ある竜〟ってのは、もしかしなくてもこいつのことだろ?」
俺がブルーと睨み合ったままそう尋ねれば、フードの下のクリソプルがわずか動揺した気配が伝わってきた。信じて頼った博士が狩猟団に手紙を見せたのだと知って、裏切られたと思ったのかもしれない。
しかしそこには根本的な誤解がある。ゆえに俺はブルーを刺激しないようゆっくりと右腕の袖を捲り、奴隷の証である真鍮の腕輪をクリソプルの視界に晒した。
「こいつが何だか、あんたにも分かるよな?」
「そ、それは……術枷? あなた、一体……」
「俺の名は八俣竜司。今は光栄にも皇帝陛下の奴隷をやってる。皇領侵犯罪とかなんか諸々の罪で捕まって、陛下の竜の世話を仰せつかったもんだ。今は宮殿にいる竜の病気を診れる医者を探してる」
「……!」
「つまり俺たちの目的はあんたをスカウトすることで、危害を加えるつもりは一切ない。博士が俺たちに協力してくれたのもそういう事情があってのことだ。……というわけで、ブルーを宥めてもらえないか? これ以上はそいつの体に障る」
見るからに衰弱した体を奮い立たせて、懸命にクリソプルを守ろうとするブルーの姿を見ているのはつらかった。医者であるはずのクリソプルが博士に助力を求めた時点で、ブルーがかなり深刻な状態にあることは何となく察しがつく。
ゆえにまずはブルーを救うことを最優先にしたかった。
そんな俺の意図が果たして伝わったのかどうか。クリソプルはわずかにたじろぎながらも、ブルーに歩み寄る素振りを見せた。が、直後、
「ギャアアッ!」
突然凶暴な鳴き声を上げたブルーが、怒りに燃えた眼差しを湛えて飛び上がる。
すべては一瞬の出来事だった。ブルーが飛びかかったのは先頭に立って行く手を阻んでいた俺──ではなく、後ろで弓を抜いた竜狩人だ。
馬鹿野郎が!
俺は内心そう叫んでいた。人がせっかくブルーを刺激しないよう、慎重にことを運んだってのに。竜毒に怯えた狩人は、どうしても丸腰ではいられなかった。
恐らくはクリソプルが俺の指示に従うふりをして、ブルーをけしかけるのではないかと警戒したのだろう。おかげですべてが裏目に出た。俺はとっさにブルーの動きを目で追い、その牙が狩人の皮膚に突き立てられる寸前で腕を翳す。
激痛が走った。
とっさに差し出した左腕に、ブルーが噛みついてぶら下がっている。
「あっ……!」
クリソプルが息を飲み、竜狩人も背後で絶句したのが分かった。ブルーは俺の腕に噛みついてなお激しくうなり、絶対に放すまいと爪まで立てている。
いててて……! やばい、今度こそ肉を食いちぎられる!
アゴログンドに来てから二度目となる竜の洗礼を、俺は歯を食い縛って耐えた。
そうしてどうにかブルーの身柄を押さえようとしたところで、
「シャーーーッ!!」
完全に予想外の事態が起こった。
俺が噛みつかれたのを見たイヴが激昂し、ブルーに襲いかかったのだ。
野生を剥き出しにしたイヴの素早さは、俺の想像を遥かに超えていた。
疾風のごとく地を蹴り、跳び上がったイヴの右手が振り下ろされる。
が、イヴの絶叫にびくりと体を震わせたブルーはすんでのところで飛びのき、不意の一撃を回避した。というか、イヴの爪──檻から出した日に「鋭すぎて危ないから」と確かに切ってやったはずなのに、気づけばまた伸びてないか……!?
おかげで凶器と化したイヴの右手は、逃げたブルーを瞬時に追尾し、追い討ちをかけるかに見えた。
それを見た俺は寸前でイヴの腕を掴み、どうにか怒りを鎮めようとする。
「おいイヴ、やめろ! 俺なら大丈夫だから……!」
「ウウ、ウウウゥ……!」
「ブルーは悪くない、俺たちを怖がってただけだ! だから落ち着け……!」
俺の制止を振り切ろうと暴れるイヴはいつの間にかフードがはずれて、真鍮みたいな二本の角を露出していた。その姿を見たブルーは眼を見開き、完全に固まっている──あれは人間か、はたまた竜か?
怒りの失せたブルーの瞳からはそんな動揺が読み取れた。が、刹那、イヴを押さえようとする俺の腕がぐいと引かれて、先刻噛まれたばかりの傷に電撃が走る。
「いっ……!?」
「全然大丈夫じゃないわ!」
俺の腕を掴み、そう叫んだのは他でもないクリソプルだった。
こうして並ぶとこいつも意外に長身だ。一七〇センチはあるだろうか?
などと俺が呆気に取られている間にも、クリソプルは俺の左の袖を捲り上げ、ブルーに噛まれた傷を見やった。そうか。こいつは腐っても医者だ。
ならばハネつきに噛まれた俺を見て、焦らないわけがない。
「なんてこと……有翼類に自分から腕を噛ませるなんて、あなた死にたいの!?」
「あ、いや……悪い。けど俺、平気なんで」
「平気なわけないでしょう!? 有翼類の牙には致死性の毒があるのよ! 有効な血清も治療法もないから、噛まれたらまず助からない……!」
「あ、うん……でも、ほんとに平気なんで。ていうか俺、竜毒が効かないんだよ、何故か。だから陛下の竜のお世話番にされたというか」
「……は?」
フードの下から覗く赤い唇が、ぽかんとして俺を見ていた。
まあ、無理もないか、うん。あのフリーダでさえ、俺が有翼類に噛まれて生きてると知ったときには似たような反応をしてたしな……。
「何日か前にも別の竜に噛まれたけど、ほら、このとおりピンピンしてるんでどうぞご心配なく。あ、でも感染症が怖いから、消毒はしてもらえると助かるな……」
「……あなた、ひょっとして竜使い?」
「いや……それがよく分かんないんだよ。だからあんたを探してたんだ、クリソプル。その辺も含めて、あんたには色々と訊きたいことが──のわっ!?」
ところが突然、今度は会話を遮るように右の腕をぐいと引かれた。
クリソプルに引かれたときよりも何倍も強い力に思わずよろめき、何か温かいものの中に倒れ込む。かと思えば渾身の力でぎゅうううと全身を締めつけられた。
クリソプルから俺を奪い返したイヴが「これはわたしの!」とでも主張するかのように全力で俺を抱き締めたのだ。おかげであちこちの骨が軋むのを感じた。
あ、やばい。これ死ぬかも。けれども「ぐぇ」と思わず呻いた俺をよそに、クリソプルは至極驚いた様子でまじまじとイヴを見やっている。
「この子は……ひょっとして上級竜? だけどそれにしては変化が不完全……」
「い、いや……イヴは人と竜のハーフで……こいつについてもぜひ、あんたの見解を聞きたいとこなんだが……」
「人と竜のハーフですって……!?」
竜毒の効かない男に、世界で唯一の半竜人。
生粋のアゴログンド人でも一生に一度会えたら奇跡と呼べるレベルの珍獣の登場に、クリソプルはもはや何から驚けばいいやら分からないといった様子だった。
俺はその隙にバシバシとイヴの腕を叩き「ギヴ、ギヴ!」と訴えてようやく拘束を解いてもらう。た、助かった……危うく肋骨をヤッちまうところだったぜ……。
「クリソプル」
そうして人心地ついたところで、俺は改めて目の前の女を見据える。
ブルーに噛まれた俺を見て即座に駆け寄ってきたところを見るに、こいつも悪いやつではなさそうだ。ゆえに俺は言葉に明確な信頼を乗せ、告げた。
「あんたをたったひとりの竜学者と見込んで、頼みがある。どうか俺のドラゴン・パーク計画に手を貸してくれ」




