闇医者を探せ(★)
ビーグル。レトリバー。ボルゾイ。ダックスフント。
かつて猟犬としての役割を担ってきた犬たちが皆、垂れ耳なのには理由がある。
彼らの祖先であるオオカミは、誰もが知るとおりピンと凜々しい立ち耳だ。
されど人間と共に暮らし、狩猟の手伝いをするようになった犬たちは、進化の過程で徐々に耳を退化させていった。何故なら人の狩りを手伝う上でより重要なのは聴覚よりも嗅覚の方だと悟ったからだ。
たとえば人間も目を閉じると、普段よりも周囲の音に敏感になる。
これは視覚を遮断することで、目から入る情報の処理に割かれる脳の領域を聴覚情報に割けるようになるからだ。同じことが犬たちにも言える。
彼らは聴覚を犠牲にすることで嗅覚を発達させた。
そうすればより正確に獲物を追跡し、人間たちの役に立てる。
耳が遠くなった分、自分の身を守る能力は低下したということになるが、それは犬たちから人類へ注がれる信頼の表れだ。たとえ聴覚による情報が絶たれても、人間と共にいれば危険から守ってもらえる。だから代わりに自分たちは、人間よりも遥かに優れた嗅覚で彼らの暮らしを助けよう──と。
「いいですか、シリウス。手紙のにおいを辿って、送り主の居場所を突き止めるんです。小さい頃からたくさん訓練してきたあなたにならできるはず! というかあなただけが頼りなのでどうか助けて下さいお願いします……」
と、先程からアリスター博士が必死に拝んでいる彼もまた垂れ耳だ。
名をシリウス。四歳。オス。
風で染めたような色の体毛に、歌舞伎の隈取に似た赤い模様を目の周りに持つこの犬は、何でも〝ライラプス〟と呼ばれる犬種らしかった。
ライラプスは野生下での狩りの成功率が九割を超える優秀な捕食者で、それを人類が家畜化し、改良を加えて猟犬に仕立て上げた、という来歴を持つそうだ。
アリスター博士はそのライラプスを一頭、研究対象兼番犬として子犬の頃から育てていた。犬の中でも飛び抜けて優れたライラプスの嗅覚を、狩猟以外にも活かせないかと様々な実験を試みていたようだ。
たとえば失踪した人間や、特定の物質を嗅覚で探し出せないか。
地球で言うところの警察犬みたいな役割を持たせようとしてたってことだな。
おかげでシリウスはただの猟犬よりも、より多くのにおいを嗅ぎ分けられる。
俺はそこに目をつけて、手紙の送り主である闇医者──ラドニア・クリソプルの追跡をシリウスに任せてみてはどうかと提案した。
アリスター魔獣研究所が佇む山の麓、バナトの町で。
「しかし、いくらライラプスが優れた猟犬だと言ってもな……手紙のにおいなど嗅がせたところで、本当に差出人の居場所が分かるのか? 血のにおいを辿るならともかく、会ったこともない人間をにおいで追跡するなど……」
「まあ、シリウスにできるかどうかは置いといて、理論上は可能なはずだ。犬の鼻はにおいの感じ方が人間とはちょいと違う。俺たちには一としか感じられないにおいを分解して、それぞれが何のにおいか階層化する能力を持ってるからな」
「においを……階層化する?」
「ああ。たとえば博士が嗅がせてるあの手紙。あれのにおいを人間が嗅いでも、感じ取れるのはせいぜいインクのにおいくらいだろ? だが犬たちはそいつをさらに細分化して認識することができる。インクのにおい、紙のにおい、そして一度でも紙に触った人間のにおい……その人間のにおいも、ひとつずつ分解してどれが誰のにおいか理解できるんだ。今回の例で言えばアリスター博士とギゼル──そしてクリソプルのにおいがする、ってな」
人間の体臭というのは指紋や虹彩のように、人によって異なるもの。
だから犬はにおいで人間を識別できる。犬の嗅覚はもともと酢酸やイソ吉草酸といった、人間の汗に含まれるにおいを嗅ぎ分けるのが最も得意なのだ。
そしてクリソプルが犬に追われることを想定し、手袋でも嵌めてあの手紙を書いていない限り、便箋にはやつの指先の皮脂や汗が微量に付着しているはず。
それをシリウスに辿らせるために、俺たちは五日前、クリソプルがアリスター博士を待っていたと思われるバナトの街角へやってきた。
五日も前のこととなると、ここからクリソプルのにおいを辿るのは正直厳しい。
人間のにおいが残留するのは長くてもせいぜい八時間程度だ。
だがもしクリソプルが博士と会える望みを懸けて今もこの場所に通っていたら?
あるいはたまたま近くを通りかかっていたら?
そう考えれば、シリウスの鼻でクリソプルを追える可能性はゼロじゃない。
もっともアゴログンドの犬の鼻が地球の犬とまったく同じつくりをしているとは限らないから、これはあくまで賭けなんだけどな……。
「ワンッ!」
ところがほどなく、博士が差し出した手紙のにおいを丹念に確かめていたシリウスが、にわかにこちらを振り向くや尻尾を振ってひと声鳴いた。
猟犬にしてはずいぶんつぶらな瞳は、まっすぐにある一点を見つめている。
視線の先にいるのは言わずもがな、実験の行方を半信半疑の面持ちで見守るギゼルだ。いきなり吠えられたギゼルは面食らっていたが、博士はすぐにシリウスの意図に気がつくと、ふさふさの胸毛を撫でやりながら声をかけた。
「うん。正解よ、シリウス。いい子ね。他には? 誰のにおいがするかしら?」
そう言って再びシリウスの鼻に手紙を近づけ、博士は差出人のにおいに気づかせようとしている。直前のシリウスの仕草はたぶん、手紙からギゼルのにおいを嗅ぎ取って〝このにおいはあいつのだよ!〟と博士に教えたのだろう。
実は昨日のうちに、博士に頼んでシリウスの実験を少し見せてもらったのだが、彼は日常的に〝においの持ち主を探す訓練〟を積んでいる。
たとえば昨日の実験では、それぞれ俺とイヴとギゼルのにおいをつけたボールを三つ用意して、どれが誰の握ったボールか当てさせた。赤いボールには俺の、黄色いボールにはイヴの、青いボールにはギゼルのにおいがついていたわけだが、それをひとつずつ、においの持ち主に返すということをやらせたのだ。
結果シリウスはあっという間にボールのにおいを嗅ぎ分け、まず黄色をイヴに、赤を俺に、青をギゼルの前に咥えて置いた。さらにちょっと意地悪な問題で、俺とイヴ、ふたりで触った緑のボールを用意してみたりもしたが結果は変わらず。
シリウスは緑のボールを咥えたまま、俺とイヴの前を交互にうろうろするというやり方で博士に〝においの持ち主はこいつら!〟と教えてみせた。
そんなシリウスの賢さに感動した俺が、ムツゴロウさんよろしくもふもふの毛をデレデレに撫で回すのを見て、イヴが「自分だってできる!」と言いたげにボールを顔面に押しつけてきた件については今は触れないでおくとして。
とにもかくにも、シリウスのあの反応は手応えありだ。
少なくとも彼もまた博士の意図を理解している。そして俺の読みどおり、シリウスはギゼルを見つけてもご褒美がもらえないと知ると、再び手紙に鼻を寄せ、今度は地面を嗅ぎ回り始めた──いいぞ。始まった。地鼻だ。
シリウスはボーダーコリーによく似た尻尾をピンと上げ、かなり集中している様子で周囲をうろうろとし始めた。
そんな俺たちの様子に道行く人々が興味深げな視線を向けている。
いや、あるいは彼らが珍しがっているのはシリウスではなく、皇属竜狩猟団の外套を羽織った俺たちかもしれない。
特に黒髪人と半竜人は一般人に顔を見られると面倒なので、ギゼルから借りた狩猟団の外套を頭からすっぽり被り、人相を隠していた。
イヴは尻尾まで隠さないといけないので窮屈そうだが、一応皇宮を出る前に何度もしつけた甲斐あって、外套を着ている間は尻尾を出さない習慣ができている。
ただし時折外套の下でもぞもぞと尻尾を動かしている気配はあった。イヴの尻尾はトカゲみたいに長いから、服の下に収めておくのもひと苦労なのだろう……そのムズムズを早く解消してやるためにも、今はシリウスに頑張ってもらわないとな。
俺たちはトラッキングしながらゆっくりと移動を開始したシリウスを追いかけてバナトの町を歩き始めた。
「……リュージ。あれは何をしているんだ?」
「何って、手紙についたもうひとり分のにおいを探してるんだよ。シリウスには言うなればにおいの地図が見えてる。町中に散らばるにおいのひとつひとつに、それぞれ違う色がついてるようなもんだ。そこから手紙についてるのと同じ色を探そうとしてる」
「犬には世界がそのように見えているのか……しかし貴君の記憶は本当に謎だな。ペガサスは何故飛ぶのか、などと頓珍漢な質問をしてきたかと思えば、特定の生き物については妙に詳しい。一体記憶を失う前は何を生業にしていたのやら……」
「ウッ……ソ、ソウダナー、自分デモ不思議ダナー」
とギゼルの詮索を適当に受け流しつつ、俺は目を泳がせるついでに初めて訪れるバナトの町並みを観察した。石畳の道にずらりと並ぶ漆喰の壁。
町の景観は帝都メアレストとさほど変わらないようだ。
ただ都市全体が城壁に囲まれたメアレストとは違って土地が広いためか、何でもないような路地の道幅も広く、町全体がゆったりとした雰囲気だった。
表通りを歩けばまた違った印象を受けるのかもしれないが、今回クリソプルが博士との待ち合わせ場所として指定したのは、人通りの少ない住宅街付近の辻だ。
そしてやつの痕跡を追うシリウスは一度も頭を上げることなく、スッと狭い横道へ入った。表通りからはまた一本遠ざかる方角だ。途端にシリウスのリードを握るアリスター博士が、不安げに眉をひそめたのを俺は見逃さなかった。
ゆえにシリウスの様子を注視しつつ、博士に声をかけてみる。
「博士。シリウスはどこに向かおうとしてますか?」
「え、えっと、それが……ここからさらに南の方へ行こうとしているみたいなんですけど、バナトの南側はあまり治安がよくないんです。酒場や高利貸しのお店が集まるあたりなので……」
「あー……なるほど、いわゆる歓楽街ってやつか。だけど相手は闇医者だ。そういう治安の悪い場所を隠れ蓑にしてる可能性は充分にある」
「で、でも、クリソプルさんって女性なんですよね? しかもブルグント卿のお話を伺う限り、妙齢の……」
「ええ。しかしクリソプルは護衛の傭兵を雇っているという情報があります。おまけに本人も竜術が使える。身を守る術があるのなら、多少危険な土地の方がかえって隠れやすいと考えている可能性はあるでしょう」
「あ、あわわわ……ひょっとしてクリソプルさんって危ない方なんでしょうか……だ、だとしたらひとりで会わなくて正解だったのかも……」
「少なくともまともな神経の持ち主でないことだけは確かでしょうね。でなければ賞金を懸けられてなお勅令に背き続けることなどできないでしょうから」
そう答えたギゼルは憮然とした様子だったが、正直俺はクリソプルの為人に興味があった。経歴を聞く限り、確かにクレイジーな人物である可能性は否めないものの、一方でどんな逆境に立たされようとも決して竜たちを見捨てなかった女だ。
皇権というこの世界で最も巨大な権力さえも一蹴し、自分が正しいと信じたことを曲げない。俺がこれから作ろうとしているドラゴン・パークには、そんな人間が絶対に必要だった。そういう意味でもクリソプルはまさに理想の人材だ。どんなに気性の荒い女でもいい。とにかく説得して味方に引き入れたい。もっとも口説き落とす前に、彼女が竜を助け続ける理由を問い質す必要はあるだろうけどな……。
「──ワンッ!」
かくしてバナトの町の裏道をひたすら南へ下ること三十分。博士の言うとおり、何だか景色がうらぶれてきたな……と俺がきょろきょろしていると、不意にシリウスがある建物の前で足を止め、入り口らしきボロの扉に向かって吠えた。
そこはところどころ外壁が剥がれた三階建ての古い宿屋だ。何故宿屋だと分かったのかと言えば、黒ずんだ木の扉の上に掠れた『INN』の文字が見えたから。英語が読めない俺でもあれが宿を意味する単語だってことくらいは分かる。他に屋号らしきものを掲げた看板などはなく、宿の名前までは突き止められなかったが。
「ど……どうやらここみたいですね……」
「本当にここにやつがいるのか? 確かに身を隠すにはうってつけの宿だが……」
「ああ。ボロくて汚くて、いかにも人が寄りつかなさそうだ。とりあえず中に入って、従業員にそれっぽい女が宿泊してないか訊いてみようぜ。あ……けど、アゴログンドでの個人情報の取り扱いってどうなってんだ……?」
少なくとも二十一世紀の日本なら、宿泊客の情報は個人情報だから教えられないと突っ撥ねられて終わりだろう。
アゴログンドではまだ人権という概念すら生まれていないとは言え、宿側も商売上、客の信用を損なうような真似はしたくないはずだ。
ならばと俺たちは一計を案じて、ひとまずシリウスをお付きの竜狩人に預け、博士に単独で潜入してもらうことにした。皇属竜狩猟団の外套を羽織った俺たちがいきなり踏み込めば、宿の人間に警戒されてしまうかもしれないからだ。
「あ、あのぅ、すみません。この手紙の送り主を探しているのですが……こちらに若い女性のお客さんはいらっしゃいませんか?」
ほどなく緊張した面持ちで建物に入ったアリスター博士が、中で誰かと会話するのが聞こえてきた。恐らくは宿の従業員と話しているのだろう。入り口の扉が歪んで隙間が開いているおかげで、耳を澄ませば辛うじてやりとりが聞き取れる。
俺はその会話に全神経を集中しながら、万が一博士の身に危険が及びそうな気配を感じたら即座に飛び込める体勢を維持した。俺たちの緊張が伝わったのか、すぐ後ろでイヴがぎゅうっと俺の外套を掴んでいるのが分かる。
が、そこから十分もしないうちに、息を弾ませた博士がぱたぱたと駆け戻ってきた。彼女はずれ落ちた眼鏡を押し上げながら興奮した様子で言う。
「い、いました! 〝エル〟という名前の宿泊客が、一週間くらい前から二〇三号室に泊まっているそうです……!」
──ビンゴ。どうやら宿の従業員は、とても五十七歳には見えない博士の容姿にまんまと騙されたようだった。確証を得た俺たちは顔を見合わせて頷き合い、すぐさま宿へ突入する。薄暗いロビーの奥でカウンターに座った初老の男が、にわかに押しかけてきた俺たちの胸の紋章を見て、椅子から転げ落ちそうになった。
「失礼。御用改めだ」
わお。まさかそんな新撰組みたいな台詞をリアルで聞く日が来るとはな。
俺は颯爽と従業員を牽制したのち、カウンター脇の階段を駆け上がっていくギゼルに続く。他の竜狩人ふたりは万一の事態に備えて外で待機。
イヴと博士も危ないから外で待つよう伝えたかったが、指示を出す前にふたりともついてきてしまった。……仕方がない。
いくら剛毅な女闇医者と言えども、黒髪人を目の前にすれば多少なりとも怯むはず。いざとなったら俺がフードをはずして、ふたりを逃がす時間を稼ごう。
それよりも今はギゼルが罪人であるクリソプルに手荒な真似をしないか心配だ。
俺たちは急いで宿の二階へ駆け上がり、件の二〇三号室を探した。
そこには既にギゼルが立っている。
やつは数秒遅れてやってきた俺たちに一瞥をくれると、すぐさま目の前の扉へ向き直り、素早く三回ノックした。腰の剣に手をかけながら。
「お客様、失礼致します。至急お知らせしたいことが……」
続いてやや切羽詰まった調子の嘘八百。あいつ、顔も身分もいい上にあんな演技までできるのか。やっぱ要注意人物だな、とそんな感想を抱いた一拍ののち。俺たちの視線の先で、三つのアラビア数字が刻まれた扉が、音を立てて開いていく──




