100万人に1人の魔獣学者
ぐすっ……えぐっ……と未だにべそをかいている目の前の女の子を果たしてどう慰めたものか、俺は対応に苦慮していた。
招き入れられた魔女の家──もといアリスター魔獣研究所の応接室には現在俺とイヴとギゼル、そして館の主であるおさげ娘の四人がいる。
テリサ・アリスター。アゴログンド史上屈指の魔獣学者だと聞かされていた相手は、俺の想像よりも遥かに若い娘っ子だった。
本人から自己紹介を受けた今もまだ俺はドッキリを疑っている。
そのうちどこからともなく〝ドッキリ大成功!〟と書かれた看板を手に、満面の笑みを湛えた仕掛け人が登場するんじゃないかと気が気でない。
いや、それを言うなら癌で死んだはずの俺が異世界に転生し、卵から生まれた時点で壮大なドッキリを疑うべきなのかもしれないが。
「ぐすっ……ほ……本当に、申し訳、ありませ……皇使の皆さまにまで、ご迷惑をおかけして……」
「い、いや……迷惑だなんて、俺たちは別に、なあ? まあ、生き物相手にああいう事故はつきものってことで……持ちつ持たれつというか、困ったときはお互い様というか……な?」
「此奴の言うとおりです、アリスター博士。我々は迷惑などとは感じておりませんので、どうかお気に病まれずに。逃げたヘンウェンを何匹連れ戻せるかは分かりませんが、私の部下はいずれも優秀な狩人です。獣の追跡など朝飯前ですよ」
と、ソファに腰かけた俺とイヴの後ろに佇むギゼルが、俺たちには一度も見せたことのない好青年スマイルを浮かべてそう言えば、博士もようやく落ち着いたのか「あ……ありがとうございます……」と呟き洟をすすった。
〝ヘンウェン〟というのはさっき、俺たちの目の前で飼育柵をぶち破り、森へ逃げていったシロイノシシのことだ。何でもあれらは博士が研究のために集めた貴重な実験動物……ならぬ実験魔獣だったそうで、現在俺たちの監視役としてついてきた竜狩人がふたり、捕獲のために山へと入っていた。
しかし何でまた魔獣が暴走し、柵を破壊してまで逃げたのかと問い質せば、飼育小屋から出してエサをやろうとした際に、博士が躓いて素っ転んでしまったとか。
でもって竜術師である博士は竜術が使える。
ゆえに転んだ衝撃でうっかり火の竜術を発動させてしまい、それに驚いたヘンウェンの群が興奮して走り去った、というのがことの顛末らしかった。
うん……まあ、何というか絵に描いたようなドジっ子ぶりだな。おさげに眼鏡、おまけに白衣を着ているせいで、傍目には優等生っぽく見えるのに。
「い、いやあ、だけど驚いたなあ。まさかアゴログンド屈指の天才魔獣学者と呼ばれるアリスター博士がこんなにお若いだなんて。魔獣学における歴史的な発見をいくつも世に出していらっしゃると聞いてたもんだから、てっきりもっと高齢の、すごみのある女性かと思ってましたよ。ははははは」
とは言えまずはこの応接室に漂う気まずい空気をどうにかするのが先決だ。
そう考えた俺は日本人特有の事勿れスキルを遺憾なく発揮して、話題の転換を試みた。すると向かいのソファに座った博士は苦笑を浮かべ、眼鏡の裏の涙をそっと拭いながら言う。
「あ、ありがとうございます……そんな風におっしゃっていただけて光栄です。とは言えたぶん、わたしはリュージさんよりずっと年上ですけど……」
「へ?」
「えっと……リュージさんは、闇化淹滞症という病気をご存知ですか?」
「あ、あんか……?」
「闇化淹滞症。肉体を構成する源素の闇化が著しく鈍化する病のことだ。アリスター博士はその病の罹患者であると同時に、研究者であらせられる」
「え、源素の闇化……って?」
一体何のことやら話が見えず、疑問符を飛ばしまくるしかない俺の隣で、博士が出してくれた紅茶のカップを持ち上げたイヴが訝しげに眉をひそめていた。
そうして怪しむようにくんくんにおいを嗅ぐ彼女と、間抜け面で振り向いた俺の双方を見下ろして、ギゼルはひどい頭痛でもこらえるようにため息をつく。
「……闇化とはすなわち源素の経年劣化を指す言葉だ。生き物を構成する源素は、時間の経過と共にゆっくりと闇素へ変化する性質を帯びていて、こうした闇素の蓄積が病や老化の原因となる。人間が歳を取ると皮膚にシミができやすくなったり、髪に黒いものが増えたりするのもこのためだ。貴君のようにもともと闇素に偏った源素組成を持つ者が、常人に比べて頑健かつ老けにくいと言われているのは、生まれつき闇素にある程度の耐性を持っているからと言われているな」
「闇化淹滞症とは、そういった闇化の進行が極めて遅くなる奇病のことで、病因はまだ解明されていません。ただ、今日まで確認された罹患者全員に共通しているのは、誰もが十五歳前後までは普通に歳を取るということ。なので罹患者は成人を迎える頃まで淹滞症患者だと分からない場合が多く、恐らくは先天的な病なのではないかと考えられています。と言っても発症確率は百万人に一人とも言われる珍しい病なので、まだほとんど研究が進んでないんですけどね」
と、困り顔で話してくれた博士の補足を聞いて、俺はますます唖然とした。
アゴログンドにおける生物の老化は、源素の闇化によるもの……。
この原理は地球生物が老化する仕組みとよく似ている。
地球では、生物がおしなべて歳を取るのは、肉体を構成する細胞が酸化して錆びるためだと考えられていた。つまるところ、生物は生きるために呼吸を必要とするが、息を吸って酸素を取り込むという行為こそが老化の原因というわけだ。
そしてアゴログンドでは、劣化した細胞は闇化する。すなわち細胞を構成する源素が何らかの原因で闇素へと変異してしまい、徐々に肉体を蝕んでいくということだろう。ギゼルの話では、闇素とは病や毒の源となる源素で、だから俺のような黒髪や黒眼を持つ人間は存在するだけで病を振り撒くと考えられているらしい。
たった今、イヴがまとっているメイド服が黒ではなく紺色なのもそのため。
アゴログンドでは基本的に黒い染料は作られないし使われない。それだけ人々は闇素が帯びる黒色に触れることを恐れ、忌避しているということだろう。
「じゃあ、えっと、つまり……博士は生まれつき老けにくい体で、見た目よりずっとお歳を召していらっしゃる?」
「はい。そういうことになりますね」
「ち、ちなみに……失礼を承知の上でお訊きしますが、今、おいくつで?」
「あ、あはは……こんな見た目でお恥ずかしいのですが、実は五十七歳です」
刹那、俺の全身を駆け巡った衝撃はすさまじかった。まるで雷が脳天に直撃したかのようなショックのあまり、口から魂が抜け出ていきそうになる。
ご……五十七歳……この外見で俺の一個上……だと……? どう見てもイヴと同年代の娘っ子にしか見えないのに? 見るからに使い古されたソファの上で苦笑するおさげ娘と、転生する前の自分の姿を脳裏に並べて俺は軽く絶望した。
お……俺も闇化淹滞症、患ってたりしないかな……。
「い……いや……そうとは知らず、不用意なことを言ってしまって……大変失礼致しました……」
「い、いえ、お気になさらず! 事情を知らなければ誤解されて当然ですから……お、おまけにわたし、歳のわりに落ち着きがないし、そそっかしいし、背も鼻も低いし眼鏡だしぺったんこだし……」
「い、いえ、そこまでは言ってないですけど……」
「お……おまけにドジで根暗で人様にご迷惑ばかりおかけして……だからわざわざ人里離れたところに研究所を構えたのに、結局またお客様にご面倒を……っ」
「あ、あー! えーっとですねえ! ひとつ気になったんですけど、その闇化淹滞症って人間以外の生き物にも見られるんでしょうか!? だ、だから博士は魔獣学者を目指されたとか!?」
「は……はい……どうせ人様より無駄に長く生きるのだから、それならせめて、同じ病を抱える人々の助けになれればと……わたしみたいな人間はひとりで研究所に引き籠もって、地味に徹するのがお似合いですから……っ」
「そ、そ、そいつはご立派なお志ですねえ! いやあ、我々もぜひ博士の崇高な理念を見習いたいものです! 俺みたいな黒髪人も、いつか博士の研究に救われる日が来るんじゃないかなあ! あ、というか博士は俺の髪を見ても驚かれませんでしたよね! ということは、既に黒髪人の研究なんかもなされてたり……!?」
「え、ええ……一応〝闇化種〟と呼ばれる、源素組成の大部分が闇素化して生まれてくる生物の研究もしていますので……何よりリュージさんは、きちんと術枷もつけておられますし……」
「あ……アンチマジック?」
「右手の腕輪のことですよ。その腕輪、内側に古竜文字が刻まれているでしょう? 古代竜などが使う文字は、組み合わせによって竜術を封じることが分かっていますから……だからリュージさんとは安心してお話ができるなと思いまして」
「え……いや、これってただの奴隷の目印では……?」
「術枷は竜術を用いた反乱を防ぐため、奴隷には必ず装着するよう法で定められているだけで、別に奴隷の身分証というわけではない。監獄に収容される囚人なども術枷の装着が義務づけられているしな。だからそこの半竜人にも念のため同じものをつけたのだ。人に化けられるほどの力を持った竜の血を引くともなれば、其奴も竜術を使える可能性があるからな」
と、相も変わらず偉そうなギゼルの講釈を聞き、俺はまたしても絶句した。
未だティーカップを睨むイヴの右手には、確かに俺が嵌めているのと同じ真鍮の腕輪がある。アレはイヴを檻から出した日、ギゼルがどこからともなく持ってきて彼女の腕に嵌めたものだ。
俺はそれを、ギゼルがイヴを一応ヒトだとみなした証だと思っていた。
奴隷の身分とは言え、少なくとも化け物ではないと認めてもらえたのだと。
だがそいつはいかにも平和ボケした日本人らしい勘違いだったようだ。
ギゼルは今も昔もイヴを化け物だと思っていて、だからこそ竜の力を封じる枷を勝手につけた。いや、あるいは皇帝やフリーダがそうしろと命じたのかもしれないが、どちらにしろ連中は、やはりイヴをヒトの子と見なすつもりはないらしい。
いくら人間側が自衛のために講じた措置とは言え……俺はあまりのやるせなさに歯噛みした。聞けば竜の園の檻にはいずれも同じ古竜文字なる文字が刻まれていて、閉じ込められた竜は竜術を使うことができないらしい。
そうまでして竜を捩じ伏せなければ、恐ろしくて共に生きることなどできはしないと言うのなら。皇帝は──フーヴェルオは一体何のために竜族を保護しようとしてるんだ? やっぱりあいつの真の目的は竜への贖罪なんかじゃなく、彼らさえも自分の支配下に置き、絶対的な力を示すことなんじゃないか……?
「──リュージ」
だとしたら俺はとんでもない謀略に巻き込まれようとしているのかもしれない。
しかし仮にこの推理が正しいとしても、あの劣悪な環境で苦しむ竜たちを見捨てて逃げ出すなんてことはしたくない。
そんな葛藤に眉を寄せ、黙って考え込んでいると、突然隣から名前を呼ばれた。
そこには雲ひとつない青空みたいな瞳で俺を見つめたイヴがいる。
かと思えば、イヴは紅茶入りのカップをテーブルに戻したその腕で──にわかにぎゅっと俺に抱きつき、グルグル、グルグルと喉を鳴らした。
「まあ」
と、これまた年季が入ったローテーブルの向こうで、博士が顔を赤らめているのが見える。が、俺はいつもなら慌ててイヴを引き剥がすところを、敢えて抵抗せずに受け入れた。何故ならイヴはイヴなりの方法で俺を元気づけようとしているのだと分かったからだ。そうしたら俺も自然と肩の力が抜けて、笑みが零れた。
「……ん。ありがとな、イヴ」
そう言って、未だ耳もとでグルグルと喉を鳴らしているイヴの後ろ頭を撫でてやる。こうしていると昔、母方のばあちゃんが飼っていた犬のことを思い出すのはたぶん、タロも俺が落ち込んでいると、いつも傍に寄ってきて慰めてくれたからだ。
群で行動するオオカミを祖先に持つ犬たちは、鋭敏な嗅覚で仲間の異変を感じ取る。中でも人間は感情の起伏によって汗の成分が変わるため、飼い犬はそれによって飼い主の状態を瞬時に嗅ぎ分け、弱っていたり、悲しんでいたりするなら寄り添おうとするのだった。
そして恐らくはイヴも同じように、人間の感情を嗅ぎ分けている。
竜の園で出会った日もそうだったように。
あの日の俺は、自分でも抑え込めないほどの怒りと悲しみでいっぱいだった。
だからイヴは俺の代わりに涙を流し、鉄格子の向こうから腕を伸ばして抱き締めようとしてくれたのだ。人間からあれほどひどい仕打ちを受けていながら。
それでもなお、赤の他人を支配する悲しみに寄り添おうと。
「……アリスター博士」
おかげで迷いが吹っ切れた。俺は俺に抱きついたままのイヴが、金色の尾を静か揺らしているさまに一瞥をくれ、次いで向かいの若き魔獣学者を正視する。
「自己紹介のときにも軽くお話しましたが、こいつは人と竜が交わって生まれた子です。そしてあなたが同じ病に苦しむ人々を救おうとしているように、俺もこいつに幸せな未来を与えてやりたい。そのために、あなたのお力を借りに来ました。俺は──人と竜とが手を取り合い、共に生きられる世界を創りたいと思っています」




