秋旅行計画開始
切符は二枚買った。
一枚は私のぶんで、もう一枚は帽子のぶんである。
帽子の下には猫がいる。
名前はタンゴという。
二年前に丹後の無人駅で出会ったので丹後と呼んでいたら、本人はずっとタンゴのつもりでいたらしい。
訂正しようとすると、「どちらでも踊れる」と言われた。
朝六時四十分、二両きりのディーゼルカーは、まだ半分眠っている町をそろそろと離れた。
タンゴは窓側の席で背筋を伸ばしている。
深緑のフェルト帽には耳を通す穴がふたつあけてあり、つばの横には小さな山鳥の羽根が一本差してある。
誰が作ったのかは知らない。
出会ったときから被っていた。
窓の向こうでは、刈り取りの済んだ田が白く霜をかぶり、川から上がった霧が山の裾に引っかかっていた。
「記者、計画を読み上げたまえ」
猫は前を向いたまま言った。
私は手帳を開いた。
四泊五日の日程が、列車の時刻や宿の電話番号とともに並んでいる。
その右端には、猫の要求で設けた欄がある。
見出しは「踊る場所」だ。
「一日目、終点の駅前。九時五十二分着。場所は駅前広場、銀杏の下」
私が読み上げると、猫の髭がわずかに動いた。
「広さは」
「十二畳ほどだそうだ」
観光協会に電話をかけ、駅前ではどのくらい踊れますかと尋ねた私の身にもなってほしい。
「十分だ。落ち葉は」
「今週が盛りらしい」
タンゴはゆっくりと一度だけ瞬きをした。
これが猫の満足の表明である。
私は旅行記者で、『ゆくさき』という小さな月刊誌に紀行文を書いている。
猫のことを記事にしたのは一度きりだ。
編集長は原稿の該当箇所に赤線を引き、うちは紀行で童話じゃない、と余白に書いた。
それ以来、私は猫を書かない代わりに、どの記事にも同じ一文を紛れ込ませている。
この町の駅前は、踊るのにちょうどよい広さである。
編集長はこれを私の文体だと思っている。
読者からの反応は、これまでに葉書が一枚だけだ。
長野の七十代の女性からで、実際に踊ってみたところ本当にちょうどよかった、と書いてあった。
不思議なことに、タンゴは家では喋らない。
踊りもしない。
アパートにいるあいだは、煮干しを食べて窓辺で眠るだけの、煤けた茶色の猫である。
それが旅立ちの朝になると、箪笥の上から帽子を自分で咥えて下ろし、駅のホームに立った途端に口をきき始める。
私が旅の仕事を以前より多く引き受けるようになった理由を、編集長は知らない。
三つ目の駅を過ぎたころ、年配の車掌が検札に来た。
車掌は切符を二枚受け取り、猫を見て、帽子を見て、もう一度猫を見た。
タンゴは前足をつばにかけ、帽子をほんの一寸持ち上げてみせた。
車掌は自分の制帽に手をやって、同じだけ持ち上げて返した。
それから何も言わずに二枚とも印を押し、揺れる通路を戻っていった。
「帽子を被っているかぎり、小生は乗客だ」
猫は窓の外へ向き直って言った。
「脱いだらどうなる」
私が尋ねると、猫は少し間を置いた。
「手回り品だ。料金が変わる」
列車は川に沿って山へ入り、トンネルをひとつ抜けるごとに、外の色が濃くなっていった。
杉の暗がりの奥で、楓が火の残りのように赤い。
乗客は途中の駅でひとり降り、またひとり降りて、やがて車内には私と猫だけになった。
終点の駅前は、一面の黄色だった。
大きな銀杏が一本、広場の真ん中に立ち、葉をすっかり足もとに落としかけている。
風はなく、高い空の下で、葉は思い出したように一枚ずつ離れては落ちた。
広場の隅では、作業着の老人が竹箒で落ち葉を掃いていた。
タンゴは私の肩から飛び降りると、帽子の角度を直し、銀杏の下まで歩いていった。
そこで後ろ足だけで立った。
左の前足を高く上げ、右の前足を腰のあたりに添え、見えない相手の手を取るように、すっと胸を反らす。
三歩進んで、一歩戻る。
二歩横へ流れて、くるりと回る。
肉球が踏むたびに、乾いた葉がしゃり、しゃり、と鳴った。
その音が拍子になり、尾が指揮棒のように拍子を刻み、葉は小さな渦を巻いて猫の足もとについて回った。
音楽はどこからも聞こえない。
それなのに、どこで盛り上がり、どこで静まるのかが、見ている者にはわかるのだった。
踊りはいつも、私の腕時計でおよそ二分である。
最後に片足で一度回ると、タンゴは帽子に前足をかけ、誰もいない線路のほうへ深々と一礼した。
舞い上がっていた葉が、遅れて地面に戻っていった。
竹箒の音が止まっていたことに、私はそのとき気がついた。
老人は箒の柄に両手を重ね、こちらを見ていた。
驚いた顔ではなかった。
天気でも確かめるような顔で、老人は猫に向かって言った。
「また来たんか」
私は手帳を持ったまま動けなかった。
「三十年、いや、もっとになるかな。今年の銀杏は遅かったでな、ちょうどよかった」
それだけ言うと、老人は背を向けて、また葉を掃き始めた。
獣医の見立てでは、タンゴはおよそ六歳である。
私は広場を横切って猫のそばにしゃがみ、声を落とした。
「知り合いか」
タンゴは私を見上げ、それから老人の背中を一度だけ見た。
「猫違いだろう」
そう言って、帽子を深く被り直した。
帽子の裏には何かの縫い取りがある。
洗ってやろうとしても、それだけは触らせてもらえない。
私は手帳を開き、日程の残りを眺めた。
この秋の行き先は、私が決めたことになっている。
ただ、よく思い出してみれば、机に広げた地図の上に座り込み、どかしてもどかしても同じところへ戻ってきたのは、猫だった。
「記者、腹が減った。この町は何がうまい」
足もとで、乗客が言った。
次の列車まで二時間ある。
私は一日目の「踊る場所」の欄に印をつけ、その下に今日の一行を書きつけた。
この町の銀杏は、今年は少し遅かったそうだ。
誰に聞いたのかは、書かないでおく。




