精神的献身と秩序、その先
私は「日本の秩序は、一人ひとりの国民が精神的献身(=我慢や自制など)を行うことで成り立っている。」と考えている。
警察や法律も秩序に貢献しているのは間違いないのだが、日本の警察や法は、海外のように積極的な強行策、あるいは身柄の拘束によって事態の収拾を行わない。なぜなら、国民が『精神的献身(=我慢や自制など)』をおこなっているからこそ、事件は矢継ぎ早に起きず、海外のように少ない警官で効率的な対処をする必要がないからである。
あなたが日本人であるならば、自分が何かを我慢することで人との衝突を避けた経験は山程あるはずだ。
そうした争いを避けるための国民一人ひとりの『精神的献身』が集まって“日本の秩序”を作り出している。
しかし献身には限度がある。
私たちの身や人生は永遠ではなく、たった一つしかないからだ。
今回は、そうした【限りある献身の先にあるもの】について考えてみる。
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献身によって作り出されている『日本の秩序』。
その維持には大多数による継続的な献身が必要となる。しかし、継続的な献身をするためには心の余裕が必須である。
もし、その心の余裕が、政府への不信や、連日続くネガティブなニュース、あるいは日常生活で体感する街の異変などによって無くなってしまったならば、その先には何があるのだろう。
私は終わったことの解釈は(多分)得意だが、予測は得意ではない。
だからあなたも想像してほしい。
【心の余裕が全くない人間がさらに増えた場合、日本の秩序はどうなって、具体的には何が起こるのだろう?】
少し気恥ずかしいが⋯⋯私は「日本の秩序は崩壊し、今以上にレッテル貼りが蔓延した対立の激しい社会になる」と思う。
私は人を理解するためには心に余裕が必要だと考えている。だから、余裕がない人間が増えると安易な決めつけが蔓延し、互いが互いを決めつけては、似た者同士で暖を取り、群衆心理としての「1つの目的を持った集団による、責任の分散や知性の低下」によって、ネットの世界を飛び出した『物理的な対立』が激しくなると思う。
具体的には「〇〇ではない人間は人ではない」といったような、凄惨な出来事が起きる前日のような迫害が起きるのではないかと思う。そうしていれば、自分たちは「普通の人間」と思えて心にまた余裕を持てるから。
だから、人が心の余裕を無くし、秩序が失われたとき、安易なレッテル貼りによって他人を木偶にし、それを扱き下ろすことで自身の心に余裕を作ろうとする人間が大多数になるんじゃないかな〜って思う。
え?いまと変わらない?
規模が大きくなるんだと思うよ。
そのレッテル貼りと対立が激しくなった先には何があるのだろうね?
独自言語の発達とかかな?
考えるだけなら、面白いよね。
あなたはどう考えた?
この連載エッセイは、正誤を問わない。
だからと言って、あまりにも適当なことはよくないけれど、私の文章を読んであなたが考えることに意味があると思ってる。
私は私で考える。
あなたはあなたで考える。
気軽に交流しやすくなった現代では、こういった考えの熟成や発酵の期間が大切だと私は思う。




