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第68話 ちょっと一息しませんか?


 高層階の窓から見える街は、いつも通りに動いている。


 たぶん、対面のビルの……あの窓の向こうにも、休めるはずなのに休めていない人がいる。


 そんな場所で、社長の妻がイスの前に立っていた。


 社長はなぜか、先に背筋を伸ばしている。


「私はいつでも休めるよ」


「昨日の深夜二時に資料を作っていた人が言うことではありません」


「証拠が具体的です」


「有罪」


 ニーナの言葉を聞いて、社長は苦笑いを浮かべる。


『深夜二時は有罪』

『まず社長座れ』

『奥さん強い』

『証拠が強すぎる』


「それは……急ぎの確認が必要で」


「その確認を、朝に回せなかった時点で休めていません」


「かなり正確に刺さってるね」


 社長は反論しかけて、奥さんの顔を見て黙った。


 《フライ》に正対し、乃々さんは手を振った。


「ここからは、奥様が実際に座ります。皆さん、見守ってください」


 奥さんが《休むことを許すイス》に腰を下ろした。


 派手な光はない。


 音もない。


 ただ、背もたれに触れた瞬間、奥さんの肩から力が抜けた。


 膝の上でそろえていた指が、ゆっくり開く。


 人前だから整えていた姿勢が、ようやく自分の体に戻っていくみたいな……そんな。


「……あ」


「どうした?」


 社長は心配の色を含んだ表情を浮かべた。


「いえ。何かがとても変わったわけではないの」


「うん」


「ただ、もう大丈夫と言わなくていい気がしました」


 社長が息を止めた。


 俺も、何も言えなかった。


 大丈夫です。


 その言葉は、相手を安心させるために使える。


 自分を納得させるためにも使える。


 けれど、使いすぎると、どこからが本当の大丈夫だったのか分からなくなる。


 奥さんは目を伏せ、深く息を吐いた。


「……久しぶりに、休んだ気がします」


『急に静かになった』

『声が変わった』

『これ、効いてる』

『休むってこういうことか』


 コメントの流れまで遅くなった気がした。


 画面の向こうでも、きっと同じように息をひそめている。


「休んでいるつもりでした。食事もしていましたし、眠ってもいました」


 奥さんの声は、さっきより少し低く、やわらかかった。


「でも、頭のどこかで、ずっと次のことを考えていたんですね。あなたの会社のことも、家のことも、子供たちのことも」


「私も……そのことを……気づいていたふりをしていたのかもしれない」


「そうですね、あなた。私も、自分では気づいていませんでした。でも座ってみたら分かりました。休むというのは、予定がない時間のことだけではないんですね」


 俺は、ダンジョンでこのイスに座った時のことを思い出していた。


 強くなるわけじゃない。傷が治るわけでもない。けれど、胸の奥に残っていた力みが抜けて、息をしていい場所に戻される。


 このイスは、休めと命令する道具じゃない。


 イスが与える最大級の休息……それは身体だけではなく、心にも影響するんだ。


「これが、《休むことを許すイス》ですね」


「耐久性ももんだいなし」


「……休むこと……難しいのね」


 水面に落ちた水滴のように広がるリィンの声。


 木箱の中で眠っていた彼女が言うと……その言葉には何か別の重さがあった。


 ゆったりとした雰囲気で、奥さんは社長を見つめた。


「子供たちが家を出て、大学や仕事に行くようになってから、あなたは仕事により一層力を入れてきました」


「そう見えてたかな」


「見えていました。会社を守って、社員を守って、前より忙しくしていました」


 社長は答えなかった。


 代表としての顔ではなく、夫として聞いている顔だった。


「でも、あなたも休む番ですよ」


「私は」


「昨日の深夜二時に資料を作っていた人が、まだ言い訳をしますか?」


「証拠が再提出されました」


「有罪、二回目」


 社長の顔から気まずさが消え、少しだけ笑いが戻った。


 ごまかすための笑いではなく、ちゃんと心からの笑い。


「……分かった。座る」


 奥さんが立ち上がり、社長が《休むことを許すイス》に座った。


「私は、まず……」


 社長は最初、何か説明しようとしていた。


 運用計画とか、社員への導入方法とか、そういう話を始めるつもりだったのかもしれない。


 けれど口が途中で止まる。


 背筋を張っていた肩が落ち、目の奥に入っていた仕事の光が、少しだけ遠ざかった。


「……休むのは、こんなに難しかったんだな」


「はい」


「社員のために必要だと思っていた」


「あなたにも必要でした」


「そのようだ」


「社長も、ちゃんと対象に入ったね」


 俺は呟く。重ねて、ニーナは笑った。


「奥さん、強い」


 社長は今度こそ言い返さなかった。


「今度は、長く旅行にでも行こう」


「長く?」


「南の方……いや、ダンジョンツアーに行ってもいいかな」


「休む話をしているのに、なぜ少し仕事に近づけるんですか」


 確かに、ダンジョンツアーはかなり大変だろうと思う。


 例えⅠ式だとしても。


「社長、休みの練習が必要」


「……ダンジョンでは、あまり休めないと思うわ」


「配信者としては反応したいですが、今回は南の方に一票です」


「そう言われては……」




          ◇




 数日後、AASは《休むことを許すイス》の試験導入結果を発表した。


 乃々さんが配信画面に資料を映す。


 残業時間の減少。


 社内満足度の上昇。


 業務効率の改善。


 並んでいるのは堅い言葉。


 なのに、その向こうに、あの会議室で肩の力を抜いた奥さんの姿が重なった。


「AASの発表です。残業時間の減少、社内満足度の上昇、業務効率の改善が確認されたそうです」


「人を休ませたのに、会社はより良くなったんだね」


「休むと、会社も元気」


「……人を休ませることが、働く場所を守るのね」


「さらに、AASの株価も上がっています。投資家も、これは単なる福利厚生ではなく、生産性に関わるアノマリーだと見たようです」


『人を休ませたら会社が強くなるの良い』

『奥さんの一言が残る』

『社長も座れてよかった』

『金額より使い方の方が刺さった』

『大丈夫って言う人に座ってほしい』


 イスに座った奥さんが、もう大丈夫と言わなくていい、とこぼした瞬間。


 社長が、休むのは難しかったんだな、と初めて認めた瞬間。


 宝箱から出たものが、ダンジョンの外で誰かに届いた……その瞬間。


 あの瞬間、なんとも言えない気持ちになった。


「座った人の言葉が残るね」


「はい。宝箱報酬が、ちゃんと誰かの生活に届いた回でした」


「イス、いい子」


「……休むことを許す。それは、思ったより大きな力なのね」


 その時、社長から短い報告が入った。


「旅行先は、南の方で調整します」


 《休むことを許すイス》は、敵を倒す武器ではない。


 宝箱から出てきたのに、誰かを戦わせる道具でもない。


 ただ、休んでいいと許す。


 それだけで、人の肩から力が抜け、家族の会話が少し戻り、会社の数字まで変わった。


 戦わない力。


 けれど、確かに世界のどこかを少し良くする力。


 その日、俺はそのイスがSランクだった理由を、前よりずっと分かった気がした。


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