Ep.1 ドッペルゲンガー ~ 6
汰紀と李紗が去った後、ドッペルゲンガー―――霧村健は目を覚ます。
周囲を見渡す。穴の開いた床、点滅する照明、塗装が剥げた壁。廃線した駅にでも来たのかと、彼は思った。
身体を起こそうとすると、全身に激痛が走る。次第に痛みが増していき、思わず身体を投げ出した。
……どうして僕は、こんなところで寝てたんだろう。胸を強くつねられたような感覚で咳き込む。
「―――ひばな、たいき」
嗚咽の混じった声で呟く。
彼は、自分が持つ超能力が最も強いと思い込んでいた。自分以外の誰かに成り替わることが出来る変質。この能力さえあれば、自分は無敵でいられると信じていた。
……なりたい。
「やっほぉ。ずいぶん痛めつけられたみたいだけど、大丈夫かい?」
銀色の長髪の男が階段を下って、健に近づく。青く濁った瞳は、憐れみに満ちていた。
「日花汰紀、カレもひどいよねぇ。キミが会いたいって言うもんだから、わざわざこの駅貸し切ってあげたのにぃ……こぉんなハデにぶち壊してくれちゃってさ。ホラ見てよぉ、ボクが作っておいたカベごと壊してるぅ」
長髪の男が指を刺した部分には、男が自身の超能力で生み出した認識の壁があった。
絵画用の筆を洗ったバケツの中身のような、混沌とした歪み。特定の人物しか内部を認識できず、中に入ることも出来ない結界。その歪みの節々に、黒いヒビが入っているのを見て、男は落胆していた。
健にとってはどうでもいいことだ。今の彼を支配しているのは、たった一言だけ。
……なりたい。
「そういえば気になってたんだけどさぁ、どうしてキミはそこまでして、他の誰かにこだわるんだい? ドッペルゲンガーの力を手に入れて、キミはオンリーワンの存在になった。特別になったんだ。能力の特性的に他人を気にするのはあるだろうけどさぁ、もっと自分を誇ってもイイと思うんだ。
……なのにどうしてキミは、そんなに辛そうな顔しか見せてくれないの?」
健の呼吸が、一瞬、止まった。その口元は、嗤っていた。
「…………………………なりたい、から」
健の頬を伝う涙に、長髪の男は息を呑んだ。
「他の誰かにならなきゃ、僕は……僕は、生きてる意味なんか、なかったから……」
ひたすら嗤った。
かつての自分と何も変わっていない。その事実の可笑しさに、嗤った。
~ ~ ~ ~ ~
込み上げる劣等感。不細工だと笑われた顔。指で何度も遊ばれた腹。
込み上げる劣等感。何度も転んだ。何度も蹴られた。何度も殴られた。
込み上げる劣等感。親も、誰も、話を聞いてくれなかった。誰も、彼も、何も出来なかった。
生きる意義が解らなかった。存在する意義が解らなかった。
―――いや。きっとそんなものは無かった。初めから。
嗤うしかなかった。死ぬほど悔しかった。何もない自分を、誰かに殺してほしかった。
誰も殺してくれなかった。貶すだけ貶して、それ以上のことをしてくれなかった。
自分を殺したくても、殺せなかった。何もかもに、疲れていた。
しかしある時、彼は思い至った。
自分に存在意義が無いのなら、意義のある誰かになればいい。
唐突な思いつきが、彼には妙に腑に落ちた。そうすればいいんだと、疑うことすら無かった。久しぶりに、心の底から、彼は笑った。
そして、長髪の男と出会い、変質を得た。
まずは1人殺して、その人物になった。逞しい身体を持つ男だった。その時に彼自身の意識は無かったが、たくさんの女からもてはやされていたことは、鮮明に覚えていた。
溺れてしまいそうな幸福感。とある日の街中で、姿勢が良く、胸も脚も魅力的な女を見かけた。なりたいと思った。だからまた、殺した。
少なくとも両手で数えられるくらいには、人を殺した。彼がなりたいと思ったから殺した。たくさんの人間になり代わった。間違いなく、幸せだった。
……そして気づいた。
存在意義のある人間はこんなにいるのに。
結局は、『霧村健』という人間の存在意義は、無いままなのだと。
当たり前のことだ。その当たり前のことに、彼はようやく気が付いた。
やめたいと思った。しかし出来なかった。後戻りなど不可能だった。
これからも彼は、ありのままの自分を否定して、ドッペルゲンガーとしての自分を肯定する。
それだけが、霧村健の生きる意味。醜い自分を見ないように生きると、そう決めていたはずだった。
~ ~ ~ ~ ~
日花汰紀は強すぎた。
あの時何をされたのか、彼には見当もつかない。唯一理解できたことは、日花汰紀という人間が自分より強力な能力を持っている、ということだけだった。
…………なりたい。
唾を飲み込んだ。嗤いは止まない。拳が地面に叩き落とされた。
「……………………なりたいッ‼︎」
咆哮と共に、健の存在が変質を始める。
細くありながら筋肉質な身体。清潔に保たれた素肌。朱く染まっていく視界。
1本の朱い糸が見えた。これが日花汰紀の能力の正体。触れようとして、血涙にも気づかずに腕を伸ばす。
―――グチャリ、と鈍い音がした。
朱色が一層濃くなって、視界を潰した。腹に穴が空いたような喪失感。何が起きたのか分からない。伸ばした腕を腹部に下ろす。
穴ではなく、熱と空虚。そこには何も無かった。霧村健の胸から下は、跡形もなく消えていた。
「ダメだよ、そんなの。ダメダメダメダメ。どうしてキミが日花汰紀になる? カレこそ本当にオンリーワンなんだ。キミが成り変わるなんて許さない」
血に染まった顔面が、原形の無い瞳に映る。健が絶望に顔を歪めても、男は無関心に見つめ続ける。
「……うるさぁ」
男の瞳が一層歪む。健の顔は上下に枉げられ、血をばら撒きながら虚空に消えた。
腕部と胸部だけが地面に遺った。叫ぶことすら許されずに、霧村健は無惨に死んだ。
「……やっちゃったぁ。あーあ、せっかく友達になれるかもって思ったのになぁ」
男は立ち上がり、目前に歪みを作る。
「日花汰紀…………やっぱりきっと、カレなんだ。あとは――――――」
歪みの奥へと進む。
「あの子もきっと、友達になれる。そうだよね―――春雨李紗?」
笑って、男は静かに歪みを閉じた。




