第六十九話 「少しだけ早い音は、ショパンの調べ」
なぜか、鉢王子芸術文化会館のステージにいる。
音は、もう流れている。
拍手も、どこかで一度起きている。
舞台袖は暗い。
光の中で、白いジャージが鍵盤に向かっている。
指は動いている。
弾いているように見える。
ちゃんと、演奏している。
ただ、
音の方が、少しだけ先にある。
「……なんでだ」
「分かりません」
即答だった。
一拍。
「経路も、確認できていません」
音が続く。
白いジャージの指が、鍵盤の上をなぞる。
後から、追いつくみたいに。
「……今、弾いたよな」
「分かりません」
「いや、弾いてるだろ」
「分かりません」
一拍。
「ただ、音の発生が先行しています」
「順番どうなってんだよ」
音が伸びる。
足元で、ペダルが静かに沈む。
踏む前から、余韻が残っている。
無駄のない動きだ。
指先も、呼吸も、迷いがない。
鍵盤に向き合っているというより、
音そのものに、正面から触れているみたいに見える。
音楽に対して、真面目に向き合っている。
ふざけている様子はない。
むしろ、やりすぎなくらいに正確だ。
だからこそ、
ちゃんとした演奏に見える。
ただ、
音は、もう鳴っていた。
少しだけ、合っていない。
区切りが来る。
ワンテンポ遅れて、拍手。
また始まる。
さっきと違う。
どこかで聞いたことがある感じのやつだ。
「……今、曲変わったよな」
「分かりません」
一拍。
「ただ、異なるパターンが連続している可能性はあります」
また区切り。
拍手。
少し長い。
「……これ、絶対どっかで聞いたやつだろ」
「有名な曲です」
一拍。
「カレーのCMでも使われていました」
「……カレー?」
「はい」
「違うだろ。これはあれだろ、なんか……高級なインスタント味噌汁のCMとかだろ」
三雲が、ほんの一瞬だけ口元を押さえる。
「……高級なインスタント味噌汁なんて、ありません」
声がわずかに揺れる。
「いや、あるだろ。カニとか入ってるやつ。フリーズドライでさ、湯入れるとちゃんと身が戻るやつ」
少しだけ間。
「具もやたら多いやつ。なんか小袋が分かれてて、あとから入れるタイプの」
三雲が視線を逸らす。
「……知りません」
肩が、わずかに揺れている。
「今、絶対知ってるだろ」
「知りません」
音が続く。
また区切り。
拍手。
それが何度か続く。
「……これ、一曲じゃないよな」
「分かりません」
一拍。
「ただ、複数回の完了が観測されている可能性はあります」
「普通にリサイタルじゃねえか」
「分かりませんが」
一拍。
「大阪人かよ」
また区切り。
拍手。
少し長い。
「……これさ」
「はい」
「もし普通に弾いてるってことだったら」
「はい」
「俺らだけズレてるってことになるよな」
一拍。
「分かりません」
「そこ否定しろよ」
「分かりません」
「怖いこと言うな」
白いジャージの指が動く。
先にあった音を、後からなぞる。
追いつく。
曲が終わる。
いや、
終わっていたものに、触れただけだ。
拍手が続く。
遅れているのに、途切れない。
「……なんの拍手なんだ、これ」
分からない。
少しだけ、息が漏れる。
隣を見る。
同じように口元を押さえている。
一瞬だけ目が合う。
余計におかしくなる。
すぐに視線を外す。
咳払いで誤魔化す。
白いジャージが、ゆっくりと立ち上がる。
迷いがない。
客席に向かって、一礼する。
深さも、間も、正確だ。
拍手を受けるための動作として、
何一つ、間違っていない。
ふざけているわけじゃない。
ちゃんとやっている。
ちゃんとやっているから、逆におかしい。
ただ、
それが今の演奏に対するものなのか、
それとも、もう少し前に終わっていた何かに対するものなのかは、
分からない。
拍手だけが、あとから追いつく。
〜 Fortsetzung folgt. 〜




