イミルグラン一家の乗る馬車の中で(前編)
大昔からへディック国の子どもは、5才になる前に亡くなることが多かったので、この国に生まれた全ての子どもは神様の子どもと位置づけされ、5才の誕生日を迎えるまでは、戸籍に登録されることはない。貴族に生まれた子どもも例外なく、5才になるまでは貴族籍にも貴族名簿にも登録されることはなかった。イミルグランはイヴリンが生まれるまで、この制度のことを何の疑問も持たずに生きてきた。そしてイミルグランはイヴリンが生まれるまで貴族として生きることに何の不満も抱いたことはなかった。
『国王とは、この国の全ての民の幸福のために、その血も肉も骨も魂さえも捧げて追求する者であり、貴族とは、その王の手足となって、民の幸福のためにその血も肉も骨も魂さえも捧げて尽くす者である。だからこそ民は全ての民の幸福を追求する王に頭を垂れ、全ての民の幸福のために、その身を捧げる貴族の言葉を信じ、自身の幸福を望むからこそ、その言葉通りに行動するのだ』
……とイミルグランは、シーノン公爵家に伝わる口伝の言葉を鵜呑みにして、何の疑いも持たず、そう信じて、今まで生真面目に生きてきた。だからこそ10才下の婚約者に会いに行くこともせず、カロンの補佐……実質はイミルグランが、その仕事の主を担い、国のためになる仕事を頑張っていたし、結婚後だって蜜月休暇を取ることもなく、次の日から仕事に明け暮れていた。
だがアンジュリーナがイヴリンを出産したとき、イミルグランはそれまで身体の不調と言い張っていた頭痛さえ吹き飛ぶような、例えようも無い幸福感を生まれて初めて感じたのだ。
(何と力強く泣くのだろうか!何と小さな身体だろうか!こんなに小さいのに全身全霊で、この子はここに生きていると訴えかけている!私の子ども!アンジュリーナが命がけで生んでくれた、私達の子どもだ!何て愛らしい!!)
貴族の子どもを育てるのは乳母か使用人の仕事で、貴族の親は子育てはしない。毎日セデスの報告を聞くイミルグランは、直接イヴリンの成長を見ることが出来ないのが無性に悔しかった。
(どうして私達の子どもなのに、私もアンジュリーナも自分達で子どもを育てられないのだろう?どうして貴族は自分の家庭を顧みることを許されず、下らない社交に明け暮れないといけないのだろう?)
セデス達が心をこめて育ててくれているからか、イヴリンは病弱で大人しい子どもだが、その性格は明るく優しいらしく、毎日彼らは心からイヴリンを褒めていた。
(私だって、褒めたい!私だってイヴリンともっと一緒にいたい!イヴリンが物心ついたころに、「父様さん」と言ってくれた時のあの感動!をいつでも何度でも聞きたい!)
イミルグランは自分の両親から与えられなかった家族の愛というものを、自分の娘から初めて与えられたのだ。何と暖かい気持ちになるのだろう!何と満ち足りた気持ちになるのだろう!と感動し、父親としての喜びに打ち震えるイミルグランは、イヴリンが神様の子どもだということに強い不満を感じた。
(確かに人は神によって、最初の命を与えられたかもしれないが、イヴリンは妻が命がけで生んでくれた私達の子どもだ!なのに、何故すぐに私たちの戸籍に入れられない?神様の子どもじゃない、私の子だ!と言いたいのに、何故5才まで待たないといけないのか!?
……考えたくもないことだが、もしもイヴリンが5才になる前に、神様の庭に行くようなことが起きたら、イヴリンの名前はシーノン公爵家の貴族名簿にも貴族籍にも名前が刻まれることなく、この世に存在すらしていなかった者として扱われてしまう。
私の小さな愛しいイヴリンが存在すらしていないなんてありえない!例え5才になる前に悲しい別れをしたとしても、私の娘だったと刻まれるべきだ!!)
そう思っていたからこそ、イミルグランはイヴリンの5才の誕生日をとても心待ちにしていた。
(神様の子どもから、私達の子どもに早くなっておくれ!私の子どもだと皆に大きな声で叫びたい!貴族名簿や貴族籍に、私の娘として早く名前を刻んでくれ!)
馬車に乗り込み不安そうなイヴリンに、イミルグランは自身の心の中に、ずっと思っていた気持ちを打ち明けていた。
「そう願っていた私に君は神様の子どものまま、私の娘になる前に神様の花嫁になると言ったんだよ?私がどれだけ落ち込んだか、わかるかい?私はイヴリンの望みは何でも叶えるようにとセデス達に言付けていたのだけど、そのイヴリンの初めての望みが修道院にイヴリンを入れる事だなんて……、あんまりにも悲しすぎるじゃないか。せっかくの君からのおねだりだけど、私はそれは叶えたくないし、セデス達だって嫌だと言っていたよ。だって、そうだろう?私達が可愛く愛しく思っている大事な君を捨てるなんて、どうやったら出来ると言うんだい?
私はイヴリンを愛している。シーノン公爵として、シーノン公爵令嬢のイヴリンを公爵家の道具に使うために大事にしているわけでは、けしてないんだよ。イミルグランという名前の男が、父親として大事な娘のイヴリンを愛して大事に思っているだけなんだよ」
「わ、私も父様やミグシリアスお義兄様やマーサさん達、皆が大好きです!だから私は!」
「だから私達から離れようとしたのかい?確かにシーノン公爵家として考えるのならば、イヴリンの出した結論が正解だろう。いくら君が賢くても、いくら君の容姿が優れていても、君の体では貴族の生活を送ることは出来ないし、社交が出来ない君はシーノン公爵家にとって、益となることはないだろうから……。
でも私個人として考えるのならば、それは正解では全くない。大好きな娘を捨てることに何の益が父親の私にあるというんだい?愛しい娘を失ってまで保っていなければならない公爵家なんて……欲しい者にくれてやればいい。イヴリンと一緒に生きていけない貴族の身なんて、私はいらないんだ。
……そう、君が片頭痛という病気を抱えているから貴族の娘になれないというのなら、私こそが公爵を辞めればいいのだと、君が公爵令嬢辞退届けを出したときに私は気付いたんだよ」
シーノン公爵家の直系はイミルグラン一人だが、シーノン公爵家の親戚縁者は大勢いた。皆、”シーノン公爵”になりたくて、イミルグランが幼少の頃から、自分の命を狙っていた。だからイミルグランが辞めたら、別の誰かが直ぐにシーノン公爵家を引き継ぐだろう。イヴリンの父親はイミルグランしかいないが、”シーノン公爵”の身代わりはいくらでもいるのだ。
自分でなくても良いのだと気付いたイミルグランは、貴族は貴族でいられなくなると貴族位を返還できることも思い出した。口伝として、そのことについても触れられていた。王に仕えられなくなった貴族は、自身でその時期がわかる。役目が果たせない者は貴族位返還して民に戻るのだと……。民になれる。民のように自身の幸福を求められる。イヴリンの父親で居続けることが出来る。イミルグランの娘のまま、イヴリンを自身で育てることが出来る。
「だからね、イヴリン。私達はこれからも家族で、ずっと一緒だよ。君は私の可愛い娘のイヴリンで、私は世界一可愛いイヴリンの唯一の父親のイミルグランだよ!私は楽しい時も辛い時も、一人ではつまらないし、寂しい。だから、イヴリン?寂しがり屋の父様のために、ずっと傍にいてくれないか?神様の子どもは辞退して、私の子どものイヴリンになっておくれ?」
「は、はい!父様!う、嬉し……です、父様!」
イヴリンは涙を流しながら、何度も頷いた。馬車で怪我のないように、子供用の座席に固定されたイヴリンでは、大好きな父親の元へ今は行くことが出来ない。イヴリンの横に座るミグシリアスに何度も優しく、涙を拭われながら、イヴリンは言った。
「はい、父様!……喜んで!!私、父様の娘で、すっごく嬉しいです!幸せです!父様、私の父様になってくれて、ありがとう、大好きです!!」
「私もだよ、イヴリン!君の父様になれて、すごく嬉しいし、とても幸せだよ!私達の元に生まれてきてくれてありがとう、イヴリン!君がとても大好きだよ!」
イヴリンの顔を見て、優しく微笑むイミルグランの顔からは、眉間の皺はすっかり消え失せていた。




