眠れオリーブ、わが清純たる少年王(通し版)
一話~五話までの通し版になります。作業用です。
【一】
はじめから定められていたならば、こらえることもできたのだ。
北翠の猛夏は収まることを知らず、燦々と降り注ぐ陽の光は一面の空気を蛇のようにうねらせた。
舞い上がった土埃は赤く、ぐらぐらと揺れている。
丘の木陰に身体を休ませるフランチェスカは、そんな宮殿の奥広場の様子を見下ろしながら、白い額に汗を滲ませた。
内から火照っていくような熱気に侵されながらも、ここより南の西国の出という自負心からか、彼女のつくる表情は涼しいものだった。
「こーんな野蛮な行い、見たくありません」
供された椅子に腰かけ、すまし顔でつんと顎を上げる。すると頭上、彼女の傍に控えた従者の口から、慣れたような溜息が落とされた。
「野蛮は野蛮でも、貴女様のお父様が欲しいと思った武力ですよ。フランチェスカ様」
奥広場では屈強な男どもがひしめき、盛んに喝を飛ばし合っている。その熱狂の程といったら太陽にも劣らない。
武により仕える者たちの、忠誠心と覇気の塊。
二人が眺望している北翠軍の定例訓練の様子は、強国の呼び名に相応しく、また見方によっては怖ろしい。
こほんと喉を鳴らし、年上の侍女は続ける。
「それに。研ぎ澄まされ、系統化された戦闘の技は武術と言います。『術』は学術、芸術と同じ文字を使います。フランチェスカ様の仰る野蛮という言葉は、ここでは当てはまらないかと」
年端もいかない子どもに言い聞かせるように、こんこんと垂れる女のこめかみも、熱気にあてられ汗をかいている。分けられた黒い前髪がぴんと尖り、そこから雫がぶら下がっていた。
もしや、この地で金の髪を流しているのは自分だけではあるまいか。フランチェスカは頭によぎった疎外感を誤魔化すことなく、顔を不機嫌にしかめた。
「マルタ。貴女、どっちの味方なの」
「どっちって……どちらも味方でしょう。そもそも、リンディアと北翠は対立していないですし」
マルタと呼ばれた女はフランチェスカの幼少期からの世話係であり、異国まではるばる付いてきた側近中の側近である。
立場とは別に内々の教育係という側面をもつ彼女にとっては、二十四になった主人のへそ曲がりも子どもの頃とおんなじで、ひとえに可愛らしい。
「ほら、チハ王がこちらを見て下さっていますよ」
マルタがあやすように言うと、フランチェスカは大きく顔を逸らした。向けた先はマルタでも、彼女がチハ王と指した方でもない。
何もない草むらに無理やり視線を留めていると、じきに辺りに沈黙が流れた。マルタとの会話を途切らせたことは関係なく、どうやら目下の奥広場で、皆注目の一戦が始まるようだった。
フランチェスカは長く波打つ金髪を耳にかけ直すと、その注目の的をちらりと見た。
鎧をまとった一人の少年が、同じく武装した大人と対峙している。
少年の振りは激しい。
体の小さいにもかかわらず大きな矛を携えており、その雄々しい得物を振るうたびに土埃が晴れては舞った。
武の向上を誉と思う少年の思いそのままに、矛の穂先や鎧のあちこちが照る日を反射し光を放つ。
少年は例から外しても、いで立ちを相応のものとするならば大人側の力量だって凄まじかろう。少年のそれほどではないが、対する男の鎧もきらびやかで、矛の筋も確かに見合ったものだ。
優雅な箱庭育ちのフランチェスカには武術というものはわからない。しかし、素人目でもよい勝負をしていると思わされた。
気が付けば彼女の青色の瞳も、奥広場の中央を身軽に跳ねる二人の仕合いに釘付けになっていた。
――長く続いた勝負は少年、チハ王に軍配が上がった。
齢十四の王の勝利に周囲は唸った。その多くは感嘆の念からきているのが明らかだったが、王の勝利に家臣が湧かないというのは、フランチェスカにとって新鮮なことだ。この国の家臣は王統に対して過剰に世辞を言わず、甘やかす素振りもない。
媚びへつらわない国民性は、彼女もリンディアにいた頃から気に入っていた。邪を嫌い、何事にも正を求める実直さは清らかで好ましい。だが、そうであるからこそ、彼女はこの政略結婚を快く思っていない。
白熱に煮えた奥広場をフランチェスカが眺めていると、取り巻いていた大勢の家臣を分けるようにして少年が近付いてきた。歩みは堂々としている。
彼女のいるすぐ下まで来たところで、彼は立ち止まり、大きく叫んだ。
「フランチェスカ!」
彼はこの勝ち星を、彼女に捧げたいらしかった。
見上げる瞳は燦爛と輝き、少年らしい自信と希望に満ちている。
その色彩は若草。
フランチェスカは少年に向かってできるだけ優しく笑い、小さく手を振った後で、気付かれぬようにそうっと目線を下げた。
はつらつと揺れる黒の髪。その下に備わった、淡い緑の大きな瞳。
あたかも瑞々しい、オリーブを透き通らせた玉のようだ。
彼女はその瞳が苦手でしょうがない。彼が家臣を引き連れ、十も年上の彼女を迎えに来た最初の対面――リンディア国の第二皇女が、北翠国の少年王に輿入れしたそのときから、彼女は彼のまっさらな目を、正面から見ることがかなわなかった。
【二】
「今日は面白かった。ああいう大規模な訓練は、回数を増やせないものだろうか」
「チハ王。増やすとなると、遠方の警護兵の交代や行き来の仕組みに手を加えなければなりません」
「難しいか」
「明日にでも、少し考えてみましょうか」
フランチェスカの前を行く、二人の会話は弾んでいる。
先ほど穂先を交えた彼らは少年王と、もう一人は将軍の一角だという。
男の意欲的な眼差しやたくましい体付きは、四十には見えぬ人のみなぎる精力をありありと示していたが、振る舞いは穏やかで、はたから見ただけでも篤い人格者だということがわかる。
フランチェスカが男に感じたのは、統制された熱狂。
そしてチハ少年こそ彼の主人に他ならないのだが、今は冷めぬ興奮のためか、子どもらしい無邪気さが見え隠れしていた。
回廊の天井を抜けるような、透き通った声ではしゃぐ少年王をしばらく眺めていたフランチェスカは、ふと小さく呟いた。
「ご結婚、早かったのではないかしら」
「やはりこれほど年下では頼りないか」
場の喧騒に消え入るかと思っていたのに、返答はすぐにきた。
声が届いたことに驚きつつ、彼女は慌てて返した。
「いいえ、けしてそのようなことは。ただ、チハ王にもお年頃というものがあったでしょう」
「しかしフランチェスカだって適齢期だ」
正しくは適齢期を過ぎている、だ。
フランチェスカは表情を変えず、頭の中でそう唱えた。
足を止め、こちらを振り返る少年の目は聡い。賢いのに、ずるというものを知らない。
彼女らの政略結婚が決まったのは、昨年の春のことだ。
気候や資源に恵まれ、富国といわれるリンディアだったが、それゆえに内外の敵も抱えていた。
政敵が牙を研いでいる間に牽制力を得たい。それには強国との同盟、さらには血による繋がりが最も即効的だ。
北翠の王統は未婚の少年王が一人のみ。
リンディアの皇女は妾腹を合わせて四人。
未婚はフランチェスカと、三番目、四番目の妹だが、十六と十三の彼女たちこそ本来チハ王の相手になるべきだった。
フランチェスカから見ても妹たちは可愛い。おしとやかで人懐こく、手放したくないのはよく分かる、しかし。
代わりに年の合わない姫をいけしゃあしゃあと差し出すのは、礼儀を失していやしないか。
場合によっては人質になりうる異国への嫁ぎ役を、フランチェスカの父、リンディア国皇帝は溺愛の娘にさせたくなかった。だから、己から北翠に言い寄ったにもかかわらず、最も要らない姫子にその役目を与えた。
――妹らが先に嫁にいっては、姉の面目が潰れてしまう。
妹らはまだ未熟で、婚姻の約束だけということもできなくはないが、繋がりを結ぶにはやや足りないし、なにより教育不足なのはこちらの不手際なのだから貴国に申し訳が立たない。
しかしながらフランチェスカはというと、我が子ながら申し分ない器量だから、年が少しばかり揃わずともチハ王のお役にきっと立つ。貴国の国柄を考えれば、二十四を迎えてもなお活発なフランチェスカは、むしろ妹らより適している。
父帝がつらつらと述べたもっともらしい口上は言い訳でしかなく、要は一番懐かぬ子を有効活用したかったのだ。
最小の損失で最大の利益を。そんな誠意などあったものではないリンディア皇室の申し出を、北翠は無条件に受け入れた。素直に同盟の契りを結んだ。
これでリンディアで戦が起これば、北翠軍だって戦地に赴くことになる。
「そういうところが気に入らないのです」
フランチェスカの言葉には、母国と北翠、そして純粋すぎる少年王へのいらだちが含まれていた。
「せめて。年が合わないからわたくしの妹にしろとか、わたくしを迎えるなら他に年の合った妻をもつとか、もっと我儘を言えばよろしかったのよ」
年齢だけでない、妾の話だってそうだ。この国らしい良い気性を宿した素直な子だっているだろうに、この少年はフランチェスカ以外の妻を迎えないと言った。本当は、要望を叶える権利があったにもかかわらず。
「そんなことは望んでいないよ」
チハ王は心外だと目を開き、フランチェスカを見つめた。
屈託のない緑色の視線が、ひねくれた彼女の心をちくんと刺す。
「チハ王様はもう少し、自分の欲求に対して正直でもいいのではないかしら」
はじめから定められていたならば、こらえることもできたのだ。
相手が誰にしろ、フランチェスカはわかっていた。しかしチハはというと、そんなことはなかったはずだ。
彼女がさかのぼって調べても、北翠の政略結婚は前例がなかった。ふっと湧いた異人と結婚する選択肢など、かつての北翠にはなかったのだ。
もっと自由であればいい。どうか自由でいて欲しい。
少年の清々しい心根を感じれば感じるほど、フランチェスカは己の存在が嫌になる。
同じ王族として情を感じるからこそ、自分のことなど背負わずに、この少年にはできるだけ我儘に生きて欲しいと願ったし、また彼にはその資格となる若さがあると思えた。
回廊を数歩先行くチハ王は、フランチェスカに歩み寄らなかった。下手に慰めないかわりに、気を悪くすることもなく、彼は率直に言った。
「そういうなら、フランチェスカ妃はもっと自尊心をもつべきだ。謙虚であることは美徳だが、先ほどの発言は王族の持つべき精神には相応しくない」
そうして、ふむ、と考える素振りを見せ、鷹揚に笑った。
「第一、私は欲深くないわけじゃない。王妃よ、今夜は君の部屋に伺うから、寝ずに待っていなさい」
フランチェスカは自分の眼球がぐっと張り出るのをこらえられなかった。聞き間違いかと思い侍女の方を見やると、マルタもまた主人の顔を見て口を半開きにしている。
「先に戻るぞ。私にも準備というものがあるからな」
準備。今夜の準備。
混乱したフランチェスカがおそるおそる視線を戻した先には、自分の王らしい口ぶりに満足げに頷く、まぎれもない少年がいた。
【三】
彼女は琥珀色の瓶に手を伸ばしかけ、すぐに引っ込めた。
これから十四の少年に会うというのにお酒など、口に含むだけだとしてもするべきじゃない。彼女は反省したのち、その言葉の意味を改めて噛み締め、やるせない怒りにかられた。
夜更けに王が訪れる。
その言付けと共にフランチェスカが部屋に戻ると、マルタを含めた侍女たちの動きが慌ただしくなった。
天蓋を含めたベッドの丁寧な掃除、花瓶の中身の取り換え、王の着替えの準備。フランチェスカ自身も浴場へと放り込まれ、入念に磨き上げられた。
今の彼女が鏡に向かって身をよじれば、長髪は背中で波打ち、黄金に輝く。白い手をかざしてみれば、やすりを施された爪の先は美しい丸みを描いていて、面は貝殻の内側のようにつややかだ。
これだけ綺麗になったのだ。晴れやかな気持ちであって然るべきだったが、彼女の心としては。周囲を巻き込んだ悪い冗談だったならばどんなによいか。行き場のない焦燥は憤りに変わっていた。
(まだ十四歳の男の子だというのに、なぜ周囲は止めない。一体皆が皆、何を考えているのか)
蒸留酒の入った瓶と北翠産の彩色グラスを棚の奥に押しやりながら、恨み言を連ねる。すると廊下より足音がした。こつこつと、堅い靴の底が廊下を鳴らしている。
やがて音は止み、二度、自室の扉が叩かれた。
(ええい、ままよ!)
フランチェスカは腹を決めると、就寝着として着させられた薄い羽衣を羽織り直し、扉の前へと進み出た。
ランプの灯火が揺れている。わざとらしく抑えられた光に、発育の済んだ女性らしい体はなまめかしい陰影を宿す。
赤い葡萄色の絨毯は目に重たく、沼底に落ちる穴にも似ている。しかし、少年王を迎えるにはこの上ない、柔らかで心地良い感触なのも確かだった。
自嘲と悲哀の笑みをたたえて、フランチェスカは扉を開けた。
「ようこそいらっしゃいました、チハ王……様?」
廊下と部屋の境界で顔を見合わせたフランチェスカとチハ王は、しばらくの間、反応をつくろうことができなかった。それほどまでに、二人の服装には大きな差異があった。
少年のいで立ちは宮殿衣装でも、戦闘衣でも、就寝着でもない。かといってよそ行きのお洒落をしているわけではなく、狩りに戯れる際の衣一式を、地味に合わせたようなものだ。
木綿の衣で四肢をおおい、履き口の高い靴で足元を固めた姿は機能的ではあるが、悪く言うと野暮ったく、一国の王にはまるで見えない。
先に復調したのは、そんなチハの方だった。
「……ああ、えっと。……すまない、言い方が悪かった。外を歩きたいから、もう少し頑丈な服に着替えてくれると助かる」
少年の小さな手が扉に添えられた。申し訳なさそうに閉まっていった板戸が、フランチェスカの目の前でパタンと軽い音を立てる。
フランチェスカは両手で顔を覆った。薄いおしろいで仕上げた頬を真っ赤に染め、このまま熱をあげて臥せられたらどんなに楽かと、言い尽くせない恥ずかしさに涙が出た。
【四】
「どうりで人がまばらだと思った」
事情を知ったチハはからからと笑った。
「穴があったら入りたい……誰にも見られないところに行きたい」
フランチェスカが覇気のない目で視線を漂わせると、並んで歩く彼から再び笑い声が上がる。
「それなら都合がいい。これから穴に入るし、そこは誰もいないところだ」
力強く小道を踏みしめていたチハの腕が掲げられた。
自身の背丈よりもやや高い、ちょうどフランチェスカの目線で指し示された前方。先にあったのは、夏に茂った大緑に隠されかかった、洞窟の入り口だった。
宮殿の敷地を裏から抜け出し、一度小山を下り、さらに麓に沿って東へ歩いたところ。ひと気を離れた場所にあるこの天然洞穴は、チハの秘密の園らしかった。
どんな場所を歩くことになるかわからなかったフランチェスカは、チハのいで立ちを思い出しながら、できるだけ動きやすく頑丈な衣服を選んでいた。
母国では男に負けぬほど乗馬や山遊びが好きだったから、種類には困らない。枝葉の引っ掛からないよう、たゆまない上衣を選び、ゆったりしたズボンの裾はくるぶしから靴の中に押し込んだ。
実際にはこれほどの装備は必要なかったが、夏に伸びた雑草をわざと踏み分けたり、知らない木なら触ってみようとするのが彼女の本来の気質だ。実際、夜気に満ちた洞窟に入ったフランチェスカは、内心はしゃいでいた。
「それほど長くない穴なんだ。ほら、もうここが出口」
「出口って……湖ですか」
「そう。東の湖に繋がっているんだよ」
北翠はフランチェスカが思っているよりずっと、複雑な地形なのだろう。入り口からは見えなかったが、くの字に走る洞穴を少し歩けば、ごくごく小さな入り江に出た。
左右の岸壁は洞窟に続いてせり出し、岩の天蓋だけは途中で終わり、夜天に抜けている。帯状に横たわるわずかな砂地。そこに打ち寄せる湖の小波。滲む月影。
遥か異国の湖月の風景は、フランチェスカの心を大きく揺さぶった。
「もう少し一緒に居てみないとわからないけれど」
はっとして隣を見ると、チハは眉尻を下げて小さく笑っていた。彼女の反応を悟って、安心したような表情だった。
「この年で一国を背負う私を、フランチェスカが心配してくれるのは嬉しいな。唯一の王統で民には讃えてもらってるし、別にそれも悪くないんだけど、やっぱり私も一人の人間だから」
月明かりにさらされた少年の頬に、うっすらと照れの色が浮かぶ。
「単なる政略結婚の相手としか見ていなかったら、ここには連れてこないよ」
フランチェスカはその言葉を聞き、目を伏せた。チハに顔を向けていることが申し訳なくなり、もう一度湖へと立ち直した。
(定められた結婚相手としか見ていなかった、わたくしこそが不誠実だった)
互いを国の駒として、その価値を若さで測り、相応しいか相応しくないかを決めつけていたのは自分だった。チハ王を純粋すぎると憤っていたのは、自分らの結婚を、はなから盤上のものとしか見ていなかったからだ。
せめてものチハの気持ちをまるで考えていなかったことを、彼女は恥じた。
「仲良くなれそうな気がするんだ。なんだかんだ言って、こんなへんぴな場所まで付いてきてくれるし」
「ええ、そうね。わたくしたち、きっと仲良くなれます」
(抱えよう。この少年の背負っているものが、少しでも軽くなるように)
したたかに誓い、彼女が瞼を開けると、雄大な湖面が紺碧に照り輝いていた。月や星の一つ一つまでを映す水鏡は、チハという少年の根源かと思われるほどの清浄さをたたえている。
「少し遊んでいこう。星が動くまで」
慣れたように両靴を脱いだチハは、ズボンの裾を膝の上まで折り曲げると、鹿のような脚を水にさらした。小さな波を立たせ、ぱしゃぱしゃと水面を割いていく。服の濡れる一歩手前で、彼は振り返った。
「痛くないよ」
「そういうことでしたら」
楽しげな誘いの声に、フランチェスカも靴紐を解いて裸足になった。裾に手を伸ばし、恥ずかしげもなく大きくたくし上げた。
盤上から降りた心は軽い。水のとばりへと足を浸すと、一瞬の冷えの後、澄んでいく心地良さが体を巡った。
「ここまで来れる」
「ええ」
フランチェスカが踏み出せば、次第にゆるやかな水流が生まれた。底の白砂を足の裏で掴みながら、静かにチハの元へと進んでいくと、少年の脚もまた彼女を迎えようと、波を切る。
夏の初い夜。二人の素足は誰にもはばかることなく近付いて、ひとしい湖面の開放感を分かちあった。
【五】
チハはシーツに包まると、妃の方を向いて口を開いた。
「誰が起こしに来るのかな」
「さあ、誰でしょう。マルタあたりが買ってくれると思うのですけれど」
日が昇るまでもう少し。フランチェスカのベッドに横たわった二人は、悪戯を仕掛けた子どものように笑い合う。
「申し訳なかったと思うのは本当だけれど、今夜内密に連れ出せたのは、私がああ言ったおかげだろうか」
「そういえば、二人きりで何かしたのは初めてですね」
「また誘ってもいい? 同じ文句で」
少年のねだるような口ぶりだった。
フランチェスカは枕に沈ませた頭を動かし、たおやかに頷く。そうして素直に受け入れると同時に、チハのこの先の成長を思い、複雑な気持ちを抱いた。
この可愛らしい文句も、いつかは本当の殺し文句になるのかもしれない。けれど、そのときはきっと、嬉しさも寂しさもまとめて飲み込んでやろう。
「どうしたの」
「チハの瞳って、オリーブに似ているのよ」
女性的な白い腕がチハの顔へと伸びた。
フランチェスカは王の黒い前髪をよせると、親指の腹で優しく瞼を撫でる。触れられたジュエリーケースは、彼の意思とは無関係にぴくりと震えた。
若草の瞳。眠気混じりのそれは、熟れたオリーブの粒を宝石にしたままの姿だった。
(私を映すこのオリーブ。たべてしまいたいくらい可愛いわ)
甘い息を繋ぐ少年に、フランチェスカは温かな視線を投げかけた。
チハのまっさらな眼差しに向き合えなかったのは、恐ろしかったのだ。生まれや育ちによって培われた利己心やひねくれた心根、己の弱い部分を、彼に見透かされることが怖かった。
チハの目は美しい。
血統ゆえの苦労は、彼の方がよっぽど大きかったに違いないのに。
眠りが近く、互いの体が火照っているのがわかった。今、少年の頬に手を添えるフランチェスカの心には様々な思いが巡れど、一つ言葉にするならそれは、いつくしみの精神に最も似ていた。
「オリーブか」
フランチェスカの告白に、眠たいはずの少年の目に思考の光がさした。
「北翠に、フランの言うようなオリーブはないんだよ。育つかどうか、宮殿の庭で試してみようか」
「急に育てるなんて言い出したら、我儘な王妃だとみなから謗りを受けないかしら」
「いいや。育てられるとわかったら食文化が面白くなる。みんなにとって価値があるよ」
チハの『価値がある』の一言が、フランチェスカには鈴の鳴るように響いた。
二人一緒にはき出された吐息がシーツの波間に消える。あくびをこらえたチハは、目鼻をきゅっと真ん中に寄せた。
「詳しい話は起きてからにしよう。おやすみ。私の穂波」
チハはフランチェスカに体を寄せてそう囁くと、彼女の金色の髪に優しく指を伸ばした。
眠いせいか、慣れていないせいか。大人を負かすほどの武芸者の手だが、髪をすく手付きはたどたどしく、こそばゆい。
「……おやすみなさい。わたくしの、オリーブ」
彼女がチハに呼びかければ、まどろみの色が深くなった。
二対の瞳が、少年の薄い瞼にゆっくりと覆われていく。
フランチェスカはその瑞々しい玉の仕舞われる様をじっと見守りながら、きたるべき収穫の候を想像し、愉しく思うのだった。