ミルクティーとシフォンケーキ
ゴポゴポとお湯が沸騰した音がして、彼女は洗い物をしていた手を止めた。
ケトルを置いているコンロの火力を極弱にして、ついでに今朝焼いて型に嵌めたまま逆さにしていたシフォンケーキの熱が取れているかを確める。
型越しの温度は常温。十分だと判断して、彼女は型から取り外した。それからまた洗い物に戻ろうとするが、パタンと本を閉じる音が微かに聞こえてきて顔を上げる。
いつもの席の、見慣れた姿。
茶色い三角の耳は普段よりも少しだけ下がっているように見える。目が疲れたのか眉間を手でほぐしながら、彼は読んでいた小説をテーブルへ置いた。
「イオリさん、おかわりはどうなさいますか?」
「ん? ああ、もらおう」
いつも必ず一回はおかわりをする常連客のカップが空になっていることを確認してから声を掛けた彼女に、彼は慣れた仕草で頷いた。
「少し熱めにしてくれ、綾乃さん」
「はい、かしこまりました」
正午になったばかりの静かな喫茶店に、珈琲豆を砕く音が響いた。
食事をメインとしていない喫茶店では、昼食時は閑散としていることが多い。
喫茶「ひととき」の繁忙時間は十五時から十七時ぐらいの、正にお茶の時間だ。今日も他のお客さんが来るのはもう少し後だろうと綾乃が考えていた時だった。
チリンチリンと扉が開いたことを知らせるベルが鳴る。
「いらっしゃいませー」
まだ客が店に入りきっていないうちから、癖で口を開いていた。
外観では店舗であることの主張が少ないからか、遠慮がちに入店する人はたくさんいるのだ。
「ハル、やっぱりここ珈琲のお店だよ」
「そんなことないよ。ちゃんと紅茶のいい匂いもする」
「ホントにぃ?」
疑わしげな声と共に入って来たのは、高校生らしき女の子。その隣にいるのは焦げ茶色の毛並に丸く小振りな耳を頭の上から生やした小さな人だった。
「いらっしゃいませ」
綾乃は二人と目が合ってから、もう一度言った。
店員が女性だったからか、女の子の緊張した顔がほっとしたように弛んだ。彼女はテーブル席をチラリと見た後、四人掛けだったせいか、躊躇いがちにカウンター席へと座った。
渡されたメニューを見ようとした時、彼女は何かに気づいたようにカウンター内に視線を巡らせた。
「……ケーキの匂いがする」
「あ、はい。今朝シフォンケーキを焼きましたので、その匂いですね」
焼き上がってから数時間が経っているが、さっき型から外すために包丁を入れたので、微かに匂いが立ち上がったのだろう。
「シフォンケーキ? わたしシフォンケーキ好き。それにしよう」
「それとミルクティーだね。あ、未理、茶葉が変わるみたいだよ。ミルクとレモンとストレートで」
メニューを眺めていた小さな彼が言った。黒い円らな瞳が優しげに彼女を見る。赤いタータンチェックのシャツを着ているせいか、愛らしい姿はぬいぐるみを連想させた。
「へえ、どれ? ストレートがダージリンでミルクがアッサムでレモンがアールグレイか……」
「ご希望がございましたら、茶葉の変更も致します」
茶葉の種類について、少なくともその三つについては知っていそうな口振りの少女に、綾乃は補足を加える。
「ううん、やっぱりミルクティーはアッサムだよね。アッサムのミルクティーとシフォンケーキください」
「じゃあ、僕はストレートティーをお願いします」
「かしこまりました」
にこりと笑って綾乃はティーポットを二つ、手に取った。
ポットに熱湯を入れて十分に温めてから、お湯を捨てて、それぞれの茶葉を入れる。ケトルの中のお湯に差していた温度計には96度という表示がされていた。適温だ。
綾乃は茶葉にお湯が直接かからないように注意しながら、ケトルからティーポットへと熱湯を注いだ。蒸らし専用にしているガラスのティーポットには分量のメモリがついている。正確な量のお湯を注ぐと、蓋をしてティーコテージを被せた。
蒸らしている間にカップと提供用のティーポットにもお湯を入れて温めておき、牛乳を入れたミルクピッチャーも湯せんにかけておく。こうしておけば提供時にはミルクが人肌に近い温度になっている。それからシフォンケーキを一切れカットして、生クリームと苺で飾り付けた。
ピピピ、と蒸らし時間がもうすぐ終わることを知らせるタイマーが小さく鳴る。
温めるためのお湯を捨てた綾乃は、提供用の陶器のポットに茶漉しを掛けて、蒸らし終わった紅茶を全て注いだ。
カウンターの向かいでは、そんな綾乃の動作を時折眺めつつ、未理とハルの二人が、注文をしてからずっとおしゃべりを続けている。
「それでね、そのきぃちゃんが何度もわたしに彼氏を作らせようとするの。いらないって言ってるのに。この間なんか、きぃちゃんときぃちゃんの彼氏と彼氏の友達の四人で出掛けようって言ってくるんだよ。そんなのもう、ダブルデートじゃん。ありがた迷惑っていうかただの迷惑だよ」
未理は話しているうちに怒りを思い出したのか口を尖らせた。
「うーん、その子は未理のことが心配なんじゃないかな……」
「彼氏いないからって心配してくれなくたっていいよ。今日だってハルと出掛けるって言ってるのに、しつこく誘ってくるし。だいたい同い年の男の子なんて子供すぎるよ。ハルのほうが優しいし大人だし、一緒にいて楽しいし安心するし、それなのに彼氏なんて必要ないじゃん」
「……そういうところが心配なんだと思うよ。最近じゃあ、僕ら間人のせいで結婚率が下がっているなんて言う人もいるみたいだしね」
ハルは苦笑しながらも、しょうがない子だと子供を見るような眼差しを向けている。
「結婚なんてまだ関係ないじゃん。今は彼氏なんて必要ないの」
「行くだけ行ってみなよ。未理だってもうすぐ大人になるんだから、僕もずっと一緒にはいられないんだよ」
「……だから今、できるだけ一緒にいたいんじゃん」
未理は恨みがましい目をハルに向けた。
「できるだけいないことに慣れてほしいんだけどなぁ」
困り顔で言うハルは、それでも優しげな瞳を湛えている。
反発しようとした未理だが、そこへ目の前にティーカップが置かれたので口を閉ざした。
「お待たせしました。どうぞ」
ティーポットとケーキ皿も並べた綾乃はにっこりと笑った。
その顔を見た未理の荒れそうだった心が、毒気を抜かれたように静まる。
「いただこう、未理」
「うん……」
小さく頷いてから、未理は少し気になっていたことを確めるために、ティーポットの蓋を開けた。
「……茶葉がない」
ちゃんと見ていなかったので確信はなかったが、やっぱり既に茶漉しで漉していたらしい。
「はい。最後まで美味しく召し上がっていただくために、先に漉しているんです」
「え? このほうが美味しいんですか?」
ティーポットの紅茶とは段々濃くなっていく紅茶を楽しむものだと思っていた未理は、疑わしげな声を出した。
「一概にそうだとは言えませんが、紅茶を大量に飲むイギリス人と違って、日本人はおしゃべりをしながらゆっくり飲まれる方が多いですから、そうなると最後の一杯は蒸らしすぎになっていることが多いんです」
「……あー、それはあるかも。ミルクをたくさん入れても苦いって思うことある」
「紅茶はポットから出す最後の数滴が一番美味しいと言いますが、それも蒸らしすぎだと美味しくなくなってしまいます。調度いい蒸らし時間の時に一辺に漉してしまって、その最後の数滴がポットの中に既に入っている状態にしているんです。最近は紅茶専門店でこの方法を取っているお店が多いのですよ」
「へぇ、そうなんだ……」
あまりお金がない学生である未理は、紅茶好きであっても、家で楽しむことがほとんどなので、そんな話は初めて聞いた。
「よろしければ一口だけストレートで飲んでみてください」
勧められた未理は言われた通り、一口だけカップに注いで飲んでみる。
「美味しい。家で淹れたのと全然違う。それになんか甘いよ」
「それが最後の数滴の美味しさですよ」
「へぇ……」
実際に自分が淹れたものと全く違うものを飲まさせた未理は感心するしかない。
続けてカップに紅茶を注ごうとしたが、ふと思い出して手を止めた。
「そういえば、ミルクティーはミルクを先に入れるほうが美味しいんですよね。この前テレビでそう説明しているの見ました」
「あー、そう言われているね」
「そうですね。そう言われていますね」
ハルと綾乃が続けて同意とも取れない言い方をしたので未理は驚いた。
「え? 違うんですか?」
「違うわけではありませんよ。イギリスではミルクティーのミルクを先に入れるべきか後に入れるべきかで百年以上も論争があることはご存知ですか?」
「そんなに?! 先か後かっていうだけで?」
「ええ、でも二〇〇三年にイギリスの王立科学協会が科学的な根拠からミルクを先に入れる「一杯の完璧な紅茶の淹れ方」を発表をしたんです」
「えっ、じゃあ結局はミルクが先のほうが美味しいんじゃないの?」
訳がわからないという顔をする未理に、綾乃はいたずらを仕掛けるような笑みを浮かべた。
「いいえ、だって百年以上も議論をしているんですよ。つまり結局はどちらも美味しいということです」
「え、えぇー?!」
未理は驚きと不満の声を上げた。
「どの茶葉が好きか、ストレートかミルクかレモンが好きなのか、ということと同じなんです。人の味覚は千差万別です。紅茶も珈琲もどんな種類のどんな飲み方が自分の好みに合っているのか、それを見つけ出して飲むということが、飲む人にとっての一番美味しい紅茶の楽しみ方なんです」
「……それって決めつけるなってことですか?」
「まずはいろんな飲み方を試して美味しい紅茶を探してみてはどうですか、というご提案です。さっきの議論だってあれで決着がついたわけではないんですよ。先入れ派と後入れ派はまだ論争を続けているんです」
「まだやっているの?!」
未理としてはいい年をした大人たちがそんなことで百年以上言い争いを続けているなんて信じられない。もっと他にやることがないのかと言いたくなる。
しかしそれはともかく、未理は持っていたミルクピッチャーから手を離して、代わりにティーポットを持ち上げた。
「……一杯目は後に入れるわ」
にわか知識しかない自分が、それでも先入れのほうが美味しいはずだと主張するのはとても子供っぽい。それに自分にとっての美味しい紅茶を探すというのは、なんだか通っぽくてかっこいい気がした。
「うわ、このミルクティー最高」
ストレートでも美味しかったが、濃く苦味の少ないアッサムはやっぱりミルクティーが合う。
「話が長くなってすみません、どうぞごゆっくり召し上がってください」
「あっいえ、ありがとうございます」
申し訳なさそうに謝られて、慌てて未理も頭を下げた。こちらから話しかけたのだから気にしなくていいのにと思う。
「シフォンケーキも食べようっと」
甘いものを見て顔を綻ばせた未理は、フォークを手に取った。
「やだ、ふわっふわ。ふわっふわだよ、ハル。食べてみて」
一口サイズをフォークに刺して、未理はハルの口元へ持っていった。そのままパクりとハルは口の中へ入れる。
「あ、本当だ」
「ね? 焼きたての食パンみたいだよね」
ケーキまで期待以上のものを食べられた未理はご満悦だ。
「さて、次はミルクを先に入れよう」
どんな違いがあるのかわくわくしながら飲んでみる。
「どう? 未理はどっちが好き?」
ハルに尋ねられても未理はしばらく返事をしなかった。
難しい顔をして、もう一口飲む。やがてぼそりと口を開いた。
「…………よくわかんない」
「そりゃあ、途中でシフォンケーキを食べちゃったからね。わかりにくいよ」
「ええっ! もう、先に言ってよ、そういうことは!」
憤慨する未理に、ハルは苦笑を向けた。
「あの……」
会計を終えて笑顔で見送ろうとする綾乃に向かって、未理は遠慮がちに声を掛けた。
「はい?」
「また、ここに来たら……紅茶のこと教えてくれますか?」
表情を窺いながら聞いてくる未理の隣で、ハルがとても驚いた顔をしていた。
「はい。もちろんです」
快く引き受けた綾乃に、未理は安堵した笑顔を返す。
「ハル、また来ようね」
上機嫌になった未理は、弾んだ声で店の扉をくぐった。