Side Leon.「決定に伴う苦悩もすべて」
※レオン視点の三人称です。
レオンはビスクと出会い、様々なものを授かったと思っている。その多くは人間の感情に根差す事柄だ。養母マダムとの生活のなかで凍りついた心の部位を、彼女は知ってか知らずか温かく溶かしてくれた。そのお返しではないが、レオンはビスクの求めるであろう物をいくつも贈ったし、はじめて抱いた愛情を惜しみなく注いだのである。
ただ、叶えてやれない物事も勿論あった。病弱な彼女を一度だって頼ったりしていない。どんなに体調が良くても、長い散歩は身体に障る。水仕事をしようものなら肌が荒れる。ぼんやり座っていたかと思うと、目を離した隙に失神していることもあった。ゆえに、どれほど小さくとも彼女に頼みごとをするなんてありえない。ビスクの父であるポールからも、彼女の生来の肉体的弱さはよくよく聞かされたものである。
ビスクは自分の身体のままならなさをちゃんと自覚していたし、弁えていた。少なくともレオンの知る限りは。それでも、たとえ大した力にはなれずとも、頼って欲しかったのだと思う。レオンは『頼りにしている』だの『君が居てくれるだけで幸せだから、充分助かっている』だの、口ではなんとでも言った。ただ、随分と控えめな言葉で告げられた、頼られたい、という願いを具体的なかたちで叶えたことは一度もない。
このとき、レオンが自らビスクに魔力を注ぎ込んだのは、彼女の願いに報いる行為だったろう。
今のビスクに痛みはない。体力という概念すらがない。もし痛痒があるとすれば、それは人形に魂があることを前提とした、精神へのそれである。そしてレオンはもう決めたのだ。この人形にはビスクの魂が宿っており、ビスクそのものだと。罪悪感や、魂の存在自体が錯覚であるかもしれないという揺らぎは、今後しつこく自分につきまとうに違いない。レオンはそれらを含めて引き受ける覚悟をした。そして深く悔悟したのである。肉体の痛みから解放された彼女を、今度は精神面で痛めつけていた自分の非道を。平時ならばともかく、強敵を前にしてなおビスクの保護を最優先にするのは、彼女の心をどれほど傷付けたことか。
今のビスクを受け入れるとは、ともに戦うことだ。彼女に前線を担わせ、こちらは後方から全力で支える。
魔力の輝きを蓄積したビスクは、最前よりもずっと滑らかに、激しくクマールを攻め立てた。宙を裂く双曲刀の軌跡が幾条も夜闇に刻まれる。
が、クマールは嬉々として刃の応酬を愉しんでいるようだった。
「そうだ、それでいい。そうじゃなきゃつまらねえ」
まだだ、とレオンは思った。まだこの男は本気を出していない。そもそも棍の魔具自体、伸縮自在が能力のすべてではないはずだ。ビスクの動きに完璧に対処しているのは、単にこの男が棍に精通しているだけである。魔具の本領を発揮するには至っていない。
警戒は常に必要だが、もっと戦闘のレベルを上げなければクマール討伐が不可能なのは自明。ゆえに、レオンは打ち合う二人の周囲に新たな魔力を展開させた。
「ビスク! 頼んだぞ!」
レオンがなにをしたのか、彼女は説明せずとも理解したはずだ。決して断ち切れない魔力の繋がりを有する相手が、どんな魔術を使ったかなんて一瞬で分かる。きっと。
ビスクの身が宙を跳ねた。白いドレスが漆黒を舞う。レオンが空中に展開した弾性の足場を使い、彼女はクマールの頭上を、背後を、足元を駆けた。一切攻撃の手を緩めることなく。
クマールが足場となる糸を断っても、すぐに張り直した。極度の集中力で。今のビスクを最大限自由に戦わせるためには、意識の糸をたわめてはいけない。
しかし、驚くべきはクマールである。不規則に、そして素早く宙を跳ね回るビスクの刃をことごとく弾いているのだ。魔力察知の賜物ではあるだろうが、それにしても隙がない。いまだに彼の皮膚はおろか、衣服の末端にさえ刃が届いていなかった。
そして皮肉なことに、クマールもまたレオンの糸を足場にして立体的な攻撃に打って出たのである。嘲弄そのものだ。クマールの足場だけ緩めても、彼の空中戦になんら綻びはなかった。不安定になった足場の代わりに、棍で眼下の木板を打ち、空中での移動を補助したのである。そんな小器用な真似をしてさえ、ビスクの対応に後れを取る様子はない。
もっと魔力を注げばビスクの動きも上昇するだろうかと一瞬考えたが、レオンはすぐに悟った。これが限度だ。感覚で分かる。つまり敵はビスクの限界いっぱいの動きに、こちらの補助を上乗せしてもまだ足りないほど強い。
どうすれば――。
思考をめぐらした矢先、打撃音が轟いた。クマールの棍がビスクの腹部を捉え、薙ぎ払ったのである。
「ビスク!」
華奢な身体が空中で一回転し、靴裏をレオンに向ける。そこにすぐさま糸を張ると、彼女は新たな足場を使って宙を駆けた。
実力もそうだが、覚悟も足りていない。そう思ってレオンは歯噛みする。ビスクが攻撃を受けた瞬間、心が揺れ、戦闘から意識が離れた。しかしビスクは、ただ敵に集中し、早く足場を作るよう要求したのだ。靴裏を向けるだけで意志は充分に感ぜられる。ビスクらしい、控えめな叱咤だ。
ビスクが離れたほんの僅かな間に、クマールは空中戦をやめて地上へと降りていた。迫るビスクへ棍を向け、野卑な笑みを浮かべている。
「そろそろこっちもギアを上げるからよお、簡単に終わるなよ。――千手流律」
直後、視覚に異常が顕れたかと思った。棍の先が放射状にいくつも広がりつつ枝分かれし、それら全部が緩やかな弧を描いてビスクに迫ったのである。速度こそ、クマールが直接操る生身の棍におよばないが、簡単に回避出来る速さでもない。
すぐさまビスクは空中の糸で危険域を脱したが、そもそもこの攻撃に安全圏などという概念はないらしい。棍の先端はビスクの動きに連動するように、鋭角に曲がって彼女を追った。背後に追いすがる棍の群、前方にはクマールという位置取りであるが、彼の手にした棍はいくつも中途から新たな枝を生み、すぐさまビスクを挟み撃ちするかたちとなった。
その間、レオンはクマールへと貫通力のある魔力の糸を伸ばしたのだが、敵は身動きひとつしなかった。否、する必要がなかったのだ。クマールの手元から新たに生成された枝がレオンの魔術を阻害したのである。
無数に迫る棍からビスクが逃れるには、上昇するか下降するかだ。そのいずれを選んでもいいように足場は作ってある。あとは彼女の意志ひとつ。
「へえ」
クマールが感心するような声を発した。
ビスクは回避を選ぶことなく、クマールと自分とを阻む無数の棍の奔流に突っ込んだのだ。正確には、それらを縫って、一部の棍は足場にして駆けつつ、双曲刀で邪魔な攻撃を払って前進したのである。それら一切はレオンの視界に映らなかった。繁茂した棍により視認性は皆無。ただ、ビスクの位置や姿勢は絶えず彼のなかへ流れ込んでくる。棍の流れを遡上していく姿は果敢と言えよう。
不意に視界が晴れた。無数の枝が消失し、本来の棍のみとなったのだ。
レオンが目にしたのは、数メートル先のクマールへと飛びかかるビスクの姿と、棍を真っ直ぐ伸ばした彼の薄笑いである。棍の先端はビスクに向いていない。十数メートル先のレオンを指していた。
「滅却打」
棍を伸ばしての一撃ならば、回避する自信があった。これまで目にしたものと同じ技術ならば。
レオンは確かに回避行動に出たが、棍は弾丸のごとき異常な速度で伸び、彼の脇腹深くを文字通り撃ち抜いた。痛みが迸り、意識が乱れる。足元が一瞬にして不確かになる。
クマールはビスクの魔力の源であるレオンを痛めつけることにより、彼女の攻撃の手を阻もうとしたのだろう。それでいて、彼女の刃に充分対処出来るタイミングでレオンを撃ったあたり、したたかである。
が、誰であれ計算出来ない物事がある。レオンやクマールにも。
一陣の旋風がクマールの横を駆け抜けた。
「――は?」
クマールの疑問の声はもっともである。ビスクが消え、己の身が深く袈裟斬りにされたのだから。
実際は消えたのではない。ビスクがこれまで以上の速度でクマールを斬りつけたのだ。彼女が限界を遥かに超えて駆動した理由はたったひとつだろう。
愛する夫を傷付けられて黙っているほど、今のビスクは大人しくない。
レオンは不安定に揺らぐ意識のなか、クマールの後方で双曲刀を構えたビスクの瞳が妖しく輝くのを見た。
発言や単語が不明な部分は以下の項目をご参照下さい。
・『レオン』→ビスクの婚約者。人形術を得意とする魔術師。独り言が多く、コミュニケーションに難がある。カシミールの弟であり、マダムの息子。三人とも血の繋がりはない。『黒の血族』のオークションでマダムに落札された。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『ビスク』→レオンの妻であり、ポールの娘。故人。ポール曰く、控えめで優しい性格とのこと。彼女の死後、レオンはその姿を模した人形を所持するようになった。彼は人形もまたビスクと呼び、大切にしている。レオンが傷付くと、人形は彼の魔力を吸い上げて駆動する。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『マダム』→本名不詳。人身売買で私腹を肥やしていた黒の血族。買い集めた奴隷たちに作らせた町ロンテルヌの支配者。血の繋がっていない二人の息子、レオンとカシミールによって命を絶たれた。詳しくは『第二章 第五話「ミニチュア・ガーデン」』にて
・『ポール』→『煙宿』の創始者。水蜜香の中毒者であり、娘を溺愛していた。詳しくは『第二章 第四話「煙宿~②不夜城~」』にて
・『魔具』→魔術を施した武具のこと。体内の魔力が干渉するため魔術師は使用出来ないとされているが、ニコルは例外的に魔術と魔具の両方を使用出来る。詳しくは『間章「亡国懺悔録」』にて




