僕は悪くない
僕は好きで厭世的になってしまったのではない。誰だってその人格形成において誰かから影響を受けている。それはもちろん、よい人に会ったから良い性格に、悪い人に会ったから悪い性格になんて単純なものではない。反面教師なんて言葉があるように人の振り見てわがふり直せる人もいれば、他人の親切心や優しさを利己的に受け取りわがままに成長してしまう人もいる。要するに人格の善し悪しは本人や誰かの意思によるものではなく全く自然によるものでしかない。
といっても周りの影響が皆無であると言いたいわけではない。現在にそぐわぬ倫理により育てば善悪観はその通りに育つのだろう。極端な話、動物における性交など和姦も強姦もあったものではない。それは古代人類も同じであったらしい。かといって当時それは理不尽ではあったかもしれないが決して悪ではなかった。和姦強姦の概念は意外と近代的なものなのだ。といっても性格は容姿と同じように、生まれてきた瞬間にある程度、方向性のようなものは決定づけられているのだろう。だから例え僕がどのような性質を持っていたところで自分を含めた誰に責任を押し付けることもできないのだ。唯一押し付けられる先があるとすればそれは、多様性を積極的に求める生物進化のあり方くらいのものだろう。すべてが均一でさえあれば性格の是非など問われることもなかっただろうに。
しかし均一であれば世の中はこれほどまでに発展を遂げることはなかっただろう。種族間の差異こそが発展の絶対条件であるのだから。違うからこそ、その隙間を埋めるか広げるかをするために生物は努力をし発展をするのだ。ただし選ばれた存在だけがその発展の恩恵と栄誉をうけることができるのだ。
けれど僕は何にも選ばれなかった。人格にも容姿にも運動にも勉強にも何一つとして選ばれなかった。そんな僕が未だに生かされているのは今の社会のおかげなのだ。現代に生まれた僕はその点で言うと僕はとても幸運だともいえるし、反面とてつもなく不幸だともいえる。生きていることが幸運だったら僕は幸せだ。幸せを感じることが幸運だったら僕は不幸だ。生きていればいつかいいことあるさ、何て言うのはこれ以上ない戯言だ。僕だって幸せを感じることはある。死んだ風に生きていてさえ幸せを感じることはある。だけれどそれは幸せは相対的に感じられるものだからだ。戦地の人達は安全な場所に居られるだけで幸せだろう。けれど生きていることが当然である、少なくとも僕にとっては、生きているだけでは幸せを感じようもない。
だけど例えば、他人と少し会話が続いただけでうれしいし、それで笑ってもらえたりすればとても幸せだ。だけどそれくらいのことで僕ほど嬉しがる人間はそうそういないだろう。誰にとってもその程度の会話は当り前で、会話に笑みを挟むことなど当然のことなのだ。だからその程度のことで喜べる僕を。僕はこの上なく不幸に感じる。僕は生れてしまったばかりに、生きながらえてしまったばかりに劣等感を抱き続け不幸を抱き続け生き続けなければならないのだ。もちろん自殺をする勇気(それをそう呼ぶのは間違っている気もするが)、それさえないのだ。生きていることに、生きていくことに希望を持っている人が自殺をするのは、それを発想することさえ困難だろうが僕は違う。常に死にたがっている。だけど死なない。死にたくもない。もしかすると変われるかもしれない。今更不可能だと分かっている希望にすがって死ねないのだ。しかしそれは希望というより妄想だ。実現するはずがないのだから、それを希望と呼ぶのは残酷だ。賽ノ河原から這い上がることなどもともと出来はしないのだ。だけれど積めない石はそこにあるのだから、あくまでそれにすがってしまうのだ。渡れない道であってもそこが道である限りそこにすがってしまう、しがみつくしかない。
僕はそれに付け込まれた。これに関しては僕が悪い。彼らは何一つ悪くない。僕ができなかったことを、彼らはそうさせようとしてくれた。もちろん間接的にね。僕は彼らのおかげで変われたのだ。僕はもう迷わないだろう。僕に開かれた扉は常に目の前にある。後は踏み出すだけだ。